第10話「掟破りの来訪」後編

 トールは机の上に置かれたカップを一瞥したあと、ため息をついた。

 「それで、仮にルチアーナ・アルカネッロがここから逃げたら、どうするつもりだ?」


 イルデブランドは答えられなかった。


 「全責任を取るとまで言ったんだ。命じゃなくていい。代わりにアルカネッロの銀山の権益でも差し出せば筋が通る」


 その言葉に、イルデブランドの顔色がわずかに強張った。

 「……そのような判断を下せる立場には、私は――」


 「知ってるさ。だから言ってる」

 トールの声音には、あからさまな意趣返しの気配があった。


 「アルカネッロ伯にとって、ルチアーナは家族なのか、それともただの道具か。それをお前の目で確かめろってだけだ」


 返す言葉も見つからず、イルデブランドは唇を引き結んだまま沈黙する。


 そのとき、東屋の外から先ほどまでと別のメイドがそっと歩み寄り、小さく微笑んでトールに声をかけた。


「……カーシャ、何だ?」


 「トール塾長。リツが、コーヒーのお替わりを出してあげてと申しておりまして」


 メイドは銀盆を掲げ、あたたかいコーヒーを新たに差し出した。


 「……まったく、誰の許可でお前がカーシャに給仕の指図を……」


 トールが苦々しげに呟く間に、もう一人の小さな来訪者が姿を見せた。


 白銀の髪を結い、小さなグラスに果実水を揺らしながら現れたのは、

 エルフの少女――ベアトリーチェ・ルミカンテ。

 塾内ではリツの名で親しまれている塾生だった。


 「新しい子が来るんでしょ?」


 トールの隣にすとんと腰掛けながら、彼女は明るく続けた。


 「トール、あんまりおじいさん、いじめちゃだめだよ?」


 「まだ来るかどうかなんてわかんねーよ。……大人の話をしてるから、あっち行け」


 「やだ」


 リツはひらりと足を揺らしながら、グラスの果実水をひとくち。


 そんな姿を横目に、トールは眉をひそめた。

 だが次の瞬間、鼻をくすぐる香りにイルデブランドの視線がそのグラスに吸い寄せられる。

 リツの手にある果実水の香り。グラスの底に沈む果実。かつてリツが救われた地域の水源――その近くの特産品の果実のものに相違なかった。そこにあるのが、まさにアルカネッロ家が権益を持つ銀山だった。


 トールもそれに気づいたように、にやりと口の端を上げた。


 「なるほどな。だから俺に嫌味のひとつも言ってやろうと思ったのか、リツ」


 「えー? そんなつもりじゃないよ」

 リツはとぼけた顔で首を傾げる。


 「じゃあね? こうすればいいんじゃない?」


 リツはグラスを卓上に置くと、トールとイルデブランドを交互に見つめて言った。


 「その子――ルチアーナちゃんが逃げずに、ちゃんと受験したらペナルティなし。もし試験に落ちたら、トールがこのおじいちゃんに、たくさんお金払ったらいいんじゃない?」


 「……お前な」


 「だって、そうすれば、だれも損しないよね?」


 イルデブランドは目を見開いていた。

 その提案は、あまりにも不公平に見えた。だが同時に、あまりにも甘く、危うい。

 トールが損しない道は、チアを合格させることだけだ。しかし、受験して合格できると信じられるほど、ルチアーナの現在の力は――。

 そう考えると、トールがこの条件に乗ってくるとは思えなかった。


 トールはしばらく口を噤んだまま、ただリツの様子を見ていた。


 「……新しい友達ができるの、嬉しいな」

 リツは振り向いてカーシャにそう言うと、足をぶらぶら揺らして笑った。


 「リツ」

 トールが低い声で呼びかけた。


 「その新しい友達は、いいやつか?」


 「うん。めっちゃいいやつ」


 「たぶん、すぐ来れば次は無理だけど、その次の試験で受かる……と思う」


 「なんで最後、声が小さくなるんだよ!? 大丈夫か? 大丈夫なんだな?」


 「え……あ……た……たぶん……? う~ん? うん?」


 リツがぐらつきかけたところを、隣のメイドがやさしく肩を抱いて守る。


 「トール塾長、あまりリツをいじめないでください」


「カーシャちゃんいいやつ!」


 「……おまえら、もうほんとに、勝手にしろ」


 トールは深々とため息を吐き、メイドに告げる。

 「カーシャ。リツと一緒に奥で魔法契約書を作ってこい。内容はリツの言った条件でイイ」


 「は~い、りょーかい。かしこまりました」


 そう言って、リツとカーシャは果実水のコップを卓上に残したまま、塾舎のほうへと歩いていった。


 残されたトールは椅子に深く腰掛け、白衣の背中を陽に照らされながら、天を仰いだ。


 イルデブランドは席を立ち、頭を下げた。

 「……ありがとうございます」


 「感謝なら、あのトンガリ耳に言え」


 そう言いながら、トールは再びコーヒーに口をつけた。

 苦味のなかに、わずかな甘さが残っている気がした。

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