第5話 終わらない朝
――蝉の声が鳴り響く。
薄いカーテン越しの朝日が、瞼の裏を白く染めていた。
息苦しいほどの既視感。
指先が、シーツの皺を確かめるように動く。
「……また、25日か」
時計の針は七時二十四分。
前と同じ。
変わらない世界に、変わってしまった俺だけが取り残されている。
立ち上がる。
胸の奥に残る“あの日”の断片が、まるで熱を帯びた針のように疼いた。
澪が死んだ。
この手の中で。
――けれど今、澪は生きている。
「……今度こそ、守る」
夏の風が部屋に吹き込む。
蝉の声、遠くのチャイム、麦茶のグラス。
世界は眩しいほどに同じだ。
母さんの声が階下から聞こえた。
「悠真ー! 澪ちゃんの家に行くんでしょー!」
返事もせず、鏡の前で額を押さえる。
目の下にクマができていた。
眠れない夜の証拠だ。
昼下がり。
澪の家の前に立つ。
玄関先には、あの日と同じように白い花が飾られていた。
ピンポンを押す指が震える。
「……悠真くん?」
ドアが開き、澪が顔を出した。
眩しい。
あの笑顔が、ちゃんとここにある。
気づけば、涙がこぼれていた。
驚いた澪が駆け寄り、心配そうに覗き込む。
「ちょ、ちょっと、どうしたの? 泣いてる?」
「いや……なんでもない。ただ……また会えて、よかった」
澪は一瞬ぽかんとしたあと、照れくさそうに笑った。
「なにそれ、変なの」
変だよな。
でも、それでもいい。
今は、この瞬間だけで十分だった。
次の日から、俺はあらゆる行動を変えた。
デートの予定をずらし、道順を変え、彼女の行動を少しずつ修正する。
事故が起きた交差点は避け、外出の時間も調整した。
何かが違えば、結果も変わるはずだ――そう信じていた。
7月27日。
昼、二人でスーパーに行った帰り、澪が「アイス買いすぎたね」と笑った。
そんな何気ない時間が、夢のように温かい。
夜、ベランダで一緒に花火をした。
オレンジの光が彼女の頬を照らす。
その一瞬の輝きが、永遠に続けばいいと思った。
7月28日。
川辺の公園。
小さな子どもが水鉄砲で遊ぶ横で、澪が靴を脱いで水に足を浸けた。
「冷たっ!」と笑う声が、夕風に溶けていく。
太陽が沈むころ、澪がぽつりと言った。
「ねぇ、悠真くん。最近、なんか変だよ? 怖い夢でも見た?」
俺は答えられなかった。
“変なのは俺じゃない。この世界だ”――そう思ったけれど、言葉にならなかった。
7月29日。
蝉の声が耳を刺す。
昨日より、世界が少し白っぽく見えた。
光が滲み、色が薄れていく。
まるで、現実そのものが削れているみたいだ。
澪はいつも通り明るかった。
でも、俺にはわかっていた。
彼女の笑顔の奥で、何かが“狂い始めている”ことを。
玄関の表札が昨日と違う字体に見えた。
通学路の電柱の位置が、微妙にずれている。
俺だけが、それに気づいていた。
7月30日。
夕方、雨。
澪からメッセージが届いた。
> 「明日さ、久しぶりに出かけない?」
その瞬間、全身の血が凍った。
――7月31日。
あの日、澪が死んだ日だ。
俺は震える手で返信を打つ。
> 「ごめん。明日は出かけない方がいい。」
数秒後に既読。
「なんで?」と返ってきた。
どう説明すればいい?
俺が未来を知ってるなんて、信じられるはずがない。
> 「ただ……お願い。明日は家で過ごして。」
> 「……わかった。でも、怖い顔しないでね。」
その返事を見て、俺はスマホを握りしめた。
――今度こそ、守れる。そう信じた。
7月31日
夕方。
太陽が西の空に沈みかける。
今日は会わない。
そう決めたのに、心臓が落ち着かない。
悪い予感が、首を締めるように重くのしかかる。
外に出ると、風がやけに冷たかった。
空の端が、血のような赤に染まっている。
――まただ。
あの日と同じ空。
走った。
足が勝手に澪の家へ向かう。
「家にいれば大丈夫」なんて、根拠のない言葉だった。
俺はそれを、知っていたのかもしれない。
角を曲がった瞬間、サイレンの音が耳を貫いた。
消防車、救急車、通行止めのテープ。
人だかりの中心、崩れた屋根瓦と白い布。
警官が誰かを押し留めている。
「中で……中で女の子が!」
その声で、膝が崩れた。
瓦礫の隙間から見えたのは、白いワンピースの裾。
風に揺れて、夕陽の赤を吸い込むように染まっていく。
俺の世界が、音を失った。
その夜。
部屋に戻っても、体が動かなかった。
何度も澪に電話をかけた。
でも、もう誰も出ない。
> 運命は、俺が何をしても笑っている。
> なら――笑わせねぇよ。
目を閉じた。
脳裏に、澪の最後の笑顔が浮かぶ。
あの微笑みを、もう一度見たい。
そのためなら、何度でも。
「運命を変える方法を……考える。」
その瞬間、視界が滲み、
光と音が世界から消えていった。
蝉の声。
白い朝日。
時計の針は、七時二十四分。
――7月25日。
「……また、戻ったのか。」
俺は天井を見上げ、静かに笑った。
泣いてるのか笑ってるのか、自分でもわからない。
終わらない夏の朝が、また始まった。
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