第3話 君が笑う夏

 蝉の声が、頭の上でけたたましく鳴いている。

 けれど、その音でさえ今日は心地よかった。

 空は深く、雲は白く、風が吹くたびに木々が葉を擦らせる。

 生きていることの全部が、やけに鮮やかに見えた。


 朝、澪が作った弁当を持って、二人で丘の上の公園へ向かった。

 途中で彼女が立ち止まり、足もとを指差す。

 「ねぇ見て、四つ葉のクローバー」

 俺がしゃがむ前に、澪はそれを摘んで差し出した。

 「幸運のお守り。なくさないでね」

 「そんな簡単に見つけられるかよ」

 「探そうと思わなきゃ見つからないだけ」

 無邪気に笑うその顔を見て、胸の奥が温かくなる。


 公園のベンチに腰を下ろし、澪が弁当箱を開く。

 手作りのおにぎりが、少しだけ形が崩れていた。

 「ごめん、ちょっと不格好で」

 「うまそうじゃん」

 「えへへ、そう言ってもらえると救われる〜」

 風に髪がなびき、光が頬をなぞる。

 あの時、俺は確かに思った――

 もし、この光景を永遠に閉じ込められるなら、どんな代償だって払う。


 食べ終わるころ、空の色が少しずつ淡く変わり始めた。

 白い雲の輪郭がやわらかく滲み、遠くで花火の試し打ちの音が響く。

 澪が小さく口を開く。

 「ねぇ悠真。私、こういう平凡な日が一番好きかも」

 「平凡って、案外特別なんだよ」

 「そうだね。失ってみないと気づけないもんね」

 その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。

 彼女はまだ何も知らない。

 この先に待っている運命も、あの日の赤い空も――。


 午後は商店街を抜けて、小さな夏祭りへ。

 浴衣じゃなく、普段着のまま歩く澪。

 金魚すくいでポイを破り、手を叩いて笑う。

 「ほらね、やっぱり不器用」

 「……それ、俺に言ってない?」

 「どっちもだよ」

 子どもたちの笑い声が響く中で、彼女だけが時間から外れているように見えた。

 ――もう一度、この笑顔を失うなんて、考えたくもない。


 日が沈み始める。

 帰り道、夕風が肌を撫で、アスファルトに伸びた影がゆらぐ。

 澪の横顔が、茜色に照らされていた。

 「今日、楽しかったね」

 「……あぁ。俺、生きててよかったって思った」

 「なにそれ、大げさ〜」

 笑いながら、彼女は俺の方を向く。

 その仕草が、あまりにも自然で、あまりにも愛しかった。


 思わず、手が伸びた。

 澪の肩を引き寄せ、唇が触れる。

 驚いたように目を見開いた彼女が、次の瞬間、小さく笑う。

 「……びっくりした。でも……嬉しい」

 頬を染めるその赤が、夕焼けと混ざり合う。

 時間が止まったような静けさ。

 蝉の声さえ、遠い記憶みたいに霞んでいた。


 澪の家の前で、別れ際。

 玄関の灯りが、彼女の後ろ姿を柔らかく照らす。

 「ねぇ悠真」

 「ん?」

 「もし明日、世界が終わるとしても――」

 「……うん?」

 「私たち、笑っていようね」

 「……あぁ、そうだな」

 澪がゆっくりと頷いて、微笑む。

 その笑顔が、やけに胸に刺さった。


 空を見上げる。

 茜色が、ゆっくりと濃く、紅に染まっていく。

 沈みかけた太陽が、まるで血のように滲んでいた。

 「……今日の夕焼け、いつもより赤いな」

 独りごちた言葉は、風に溶けて消えた。

 俺はまだ知らない。

 この赤が、“終わり”の色だということを。

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