怪物の戯言
松ノ枝
怪物の戯言
私の視界にはいつも客観性がある。それは景色を画面越しに見ているような、上から下を見下ろした、そんな俯瞰を思わせる。主観性はいつ来るのかと考えながら、今日も客観視覚で見続ける。
空から無数の水滴が降り落ちる。上を見上げれば暗い色が一面を覆い、どこまでも広がっている。
今日の天気予報は当たりだなと私は思う。
雨は風を伴い、あらゆるものに対して斜めに突っ込むその様は単調だが勢いがある。その様相も風の強さで切り替わり、そのパターンは計り知れない。
私は雨が好きであり、もっと言えば天気が好きである。季節によって代わり映えしないこともあるが、雨や晴れ、曇天に空から落ちる魚まで天気は多岐にわたって面白い。それを予想してみせる天気予報は私にとって趣味の延長線上で見ている感覚に近い。当たり外れは存外どうでもよく、誰かの予想を見ている気持ちがとても良い。言ってしまえば天気に関することならば食いつく、そんな食い意地の張った魚の様なものである。
私の居るカフェに急ぎ足で駆け込む男が一人。男は雨に降られて濡れており、その濡れ方たるや、絞る前の雑巾の如きものであった。
「すいません、タオルを貸していただけませんか?」
と男は訊ね、それを聞いた店員がタオルを男へ手渡す。水滴が滴る髪をタオルで吹きながら、男と私は目が合った。
「あの…、何か?」
男は困惑気味であり、それはそうだと私は思う。知らない人間がじっとこちらを見ていては困るだろうなと。しかし私も私が不思議でならない。何故眺めていたかがはっきりしないからだ。気づけば見ていたと言える。
「いや、…あなた、私と会った事ある?」
男はいいえと首を横に振る。だろうなと思いながら、私の視界は男が来る前と変わらず空を捉える。しばらくして男は私の隣に座った。
「今日の天気予報、外れでしたね」
「…そうですね」
会話はそこで打ち切られ、店内からは雨の音がかすかに聞こえるだけとなった。
私は静かな音は好きだが、静寂は嫌いだ。
「あなた、お名前は?」
「泉本達也です」
律儀に本名を全公開した彼はどこか詐欺か、マルチにでも引っかかってしまいそうである。見た目は平凡を地で行きながら、その地は平坦でなく道中、クレーターやらオリュンポス山が幾つも並ぶ。
「初めまして。私はクオリアといいます」
私も私で偽名などでなく、本名なのでおあいこかとも思う。
外に降る雨は見せる模様を変えながら依然として強さを失わずにいる。
「初めまして。クオリアさんは海外の方で?」
「ええ、生まれは海外で今は各地を転々と」
そうして取り留めのない会話は五か、十かあるいはもっと、単位は分で続いていった。
「そういえば天気予報が外れと言ってたけどどうして?」
「だって雨ですよ。外れじゃないですか、今日はせっかく晴れだって予報は言ってたのに」
当たり前と言えばそれまでだが私はこの時、ある実感があった。人というモノはこれ程同じものに対して意見が異なるのだなと。
「私は今日の予報、当たりだと思うよ」
男は怪訝な顔を浮かべている。この女は何を言っているのだろうか、そんな事でも思った顔だ。
人と意見が食い違う、同じことでも違う見方がある。しかしそれは物事をマクロに見れば違うのであって、ミクロに見れば初めから互いに別のものを論じていたということが往々にしてある。三次元や四次元など次元について語ったかと思えば急に無限次元へと飛んでいて、十一次元はどうしたよと突っ込んでみれば、相手にとっては初めからベクトル空間上の話だったりする。今回も彼にとっての当たりと私の中の当たりが異なっていたから起こった食い違いであった。今日の天気予報という点では同じだが、本人の見え方、感じ方のフィルターがはなから違っていたらしい。
「雨ですよ」
「雨だね。でも私としては当たりなのだよ」
曇天の隙間から陽光が漏れ出し、窓を通して私たちを照らす。
「空から無数の水滴が降り落ちる。上を見上げれば暗い色が一面を覆い、どこまでも広がっている」
私はそれを口ずさむ。曲でも無いし、詩でも無いが私はこれを気に入っている。過去で見たのか、聞いたのか、未来でなのか、それとも別の世界でか、判然としないが私は好きだ。
私は高次元に住んでいる。人呼んで高次元存在である。私の居る次元は数学的な次元である。当然、並みの人間では見えない。次元数は十九万六千八百八十三次元、もっと上にも行けるが私はここに収まっている。この次元数を知っている者ならば私の種族も分かるのではなかろうか。本名とも言える。そしてこれは怪物の与太話である。体験談ともいえる。戯言と言う方が私は好きだが。
私は人が好きである。ここで言う人はホモサピエンスである。彼とは高次元で出会った。正確に言えば八次元。彼は余剰次元に挟まっていた。
「何をしているの?そんな次元で」
この時の私は何の影響か、時折変な口調であった。
「少しばかり次元を散歩していたらうっかり落ちてしまいました」
と彼は自分の醜態を笑ってなのか、恥ずかしそうにこちらを見ていた。私は仕方ないと彼を助けてあげた。
「良く死ななかったね。普通は次元圧で死んでいるよ」
次元圧は言うなれば次元の違いから生まれる物理的にも情報的にも知性的にもある圧力である。三次元は空間的に三方向で、情報量も三次元生まれにとっては苦にならず、知性としても生きる上で認識等に困りは無い。しかしこうした三次元で存在するもの、それらは四次元という一つ上の次元に行くだけで忽ち肉体は機能停止、存在として己を保てなくなる。考えてみれば当たり前のことで理解できないものやことはどうあっても理解できない。努力や工夫でどうにかなるものは初めから理解可能。理解不可能というものは別宇宙へ行けば答えがあるとか計算法を変えれば視えてくるものでなく、因果的に理解不可能を前提としている。次元が上がれば視えることもあるが、それ以外の方法はあまりない。次元は一度昇れば以前まで全知とも言えた存在が無知へと変わる、そんなものである。そういう面で見れば男は特別であった。
「まあ、僕は次元を旅するのが趣味で。平気なんです。しかし、すみません、低次元にはあまり来ないもので、勝手が分からず」
男は三次元生まれ、四次元時空育ちであったが今は高次元に住んでいる。生まれた場所というものは確かに文字で見れば情報として定まっている様に見えるが、如何せん実感としては量子の揺らぎが如く不確かである。彼の場合も生まれはそうだが、住んでいたのはプランク秒単位で数十そこら、あまり長くない。
「私が来ててよかったね。しかし気を付けなさいな。あっという間に終わっちゃうよ、人生」
彼を穴から引き上げ、私たちは十次元へと着いた。M理論を基礎として組み上げられた宇宙は四次元を下層に置き、その上に余剰次元、そして十次元である。余剰次元はどこかの潰れかけたモールの様で、カラビヤウ多様体の様相を持つ。面白みに欠けるが、旅が趣味の彼としては面白いらしい。
「助けていただきありがとうございました。では」
三次元と様相変わらぬ十次元。そこに連れてきた途端、彼はそういい私と距離を離そうと後頭部を見せ、歩き始めた。
「ちょっと待ちなさい、お礼とかは無いのかな」
今思えばここで大人の余裕を見せるべきかとも思う。彼を好きな今だからこそ、子供が大人に憧れるように、彼が私に憧れるようすべきだったのではと。
「…そうですよね。お礼ですか、思いつきませんね」
彼は悩み、一分ほどで閃いた。
「あっ、では僕が旅で見た光景についてはどうでしょうか」
この提案は意外と私に刺さった。というよりここで話している以上、良し悪し関係なく刺さっていなくてはおかしくないだろうか。
私はこの提案を受け入れた。
そこから少し歩き、ベンチへと腰かけた。正確に言えば無限の少し向こう側である。可算の向こう側。そこで彼はある男と女の話をしてくれた。
「天気予報は確率論らしいわよ」
と確率論を知らぬ私がそう言った。言葉とは良いものだ。深く知らずとも大体文字から意味が読み取れる。深く突き詰めると私の推測と本来の意味が原子の位置ほどにずれるが、マクロに見れば同じである。そうして知ったかぶった私は話を続けた。
「カオス理論、ご存じ?」
初めて会った頃、雨に濡れていた彼は晴れた空の下で私と出会っている。そこに枝垂れ柳の様になった髪は見えず、少しがっかりした。
「知らないですね」
聞いたことはありますけど、と予想通りの回答が耳の鼓膜を揺らし、脳がそう理解する。内心で私もと同意するが、ひとまず表情に出さずにおくとしよう。
「天気予報で使ってるのだけど、微分方程式で計算できるの。ナビエ・ストークス方程式と言ったかな、この方程式は複雑で、だからより単純化したのを使った。ここでおかしなことにカオスというのが起こったの。カオスは初期値鋭敏性っていう性質を持ってて、初期値が少しでも違うと全然違う結果を出すのよ。面白いでしょう」
彼の顔はぽかんとした顔というのがぴったり当てはまる、そんな表情で固まっていた。この表情になる理由は大体分かっている。いきなり相手が知らないことを言い続けるとある程度までは聞こうとするし、分かってくれる。しかし度を越すと途端、聞こうとしなくなる。聞くのに疲れてしまうのが正しいか。今回は私が悪かった。
「良く分かんないけど、計算式があってそこに打ち込む値が少しズレてるだけで出てくる結果が違うってこと?」
こういう時に分かりやすい表現が出来るのって羨ましいなとつくづく思う。そんなことを考えるけど、やはり上手くいかない。自身と他者の感覚は違う、クオリア故なのか、それとも他の者もそうなのか、言語化出来ぬ独自感覚である以上、考えても判然とした答えは出ない。しかし大体結果は見えている。この感覚によって。
「そんな感じかな、一般的にはバタフライ・エフェクトなんて言葉で知れているかな。ブラジルの蝶の羽ばたきでテキサスに竜巻は起こるのか」
バタフライ・エフェクト。映画や小説、世の中に溢れる作品の中に溢れるテーマ、一つの小さな出来事が連鎖して、いずれは大事へと発展していく。しかし小さな出来事一つで大事になるのなら、別の小さな出来事で大事にならなくたっていいはずだと。面白みに欠けるというのは最もで、私もそう思う。一匹の蝶の羽ばたきが竜巻を起こすなら、他の蝶の羽ばたきも考えの中に組み込むべきである。そう私は思うのである。
「もしかすると私と君はあの日の雨が無ければ出会っていなかったかも」
こう言うことを言ってなんだが、彼の前なので少しロマンありきで話している。結局、カオスは決定論的なので、あの日の出来事を初めからやり直そうとも世界全てが同じ動きをするだけで弾き出される結果は彼と私の出会いであ
少しばかり下を向く私を想ってなのか、彼から分かっていたような、そうでなかったような言葉が返ってきた。
「自分としてはクオリアさんに会えたのは運命だと思ってます。だってこんなに楽しいですもん」
その時の彼の笑顔は一生心から消えないのだろうと確信できた。
ああ、私は嬉しいと思っている。では彼もこの瞬間を嬉しいと感じているのだろうか。
私は旅をして来た。次元を流離い、多世界を渡った。楽しい旅だが些か危険である。無限という概念を宿した次元たちを移動するのだから危なくないわけがない。おそらく私は今も旅をしている。
三次元生まれの私は生まれからして普通でなかった。いずれは普通になることなのだが、うっかり四次元方向から生まれてしまい両親を困らせた。四次元と言えば三次元に時間を一次元として足したものだが、私の場合は本来生まれるはずの時間点より一年ほど早く生まれた。そんな私だが親に恵まれ、こうしてすくすくと育っている。感謝しかない。
私の生まれた日、大雨が降っていたそうで私はカオス理論や決定論を深く考える人間ではないがこの雨が無ければ今とは違う私であったかもしれないなと思っている。というのも雨に懐かしさを覚えているからだ。
私は高次元に昇ればそれより下の次元を俯瞰できる。見るのは少し疲れるが、四次元なんかは楽しく見れる。四次元は言ってしまえば三次元を無限個集めたものなのでその中から見たい現象や日時を定める精度は私の目に依存する。時折余計なものを見て脳が情報に耐えられなくなりそうになるが割と何とかなっている。
私は常々思うのだが、ガラスを通してみた景色は本当の景色だろうか。ではガラスを取り除いてみる景色が本当なのか、A=Aという等式が実はA=B=Aを短縮させたものではないのだろうか。これは私の実体験というか、日常において感じていることだが、どうにも他者には無いらしい。私としてはガラスを取り除いても眼球がある。私は気づける環境にあるだけで皆同じなのではと常々思う。
私は旅をしているが、当然旅先に適応することが必要になる。三次元生まれなので。肉体は四次元に昇れば過去方向と未来方向へと散り散りになる。しかし適応すれば元通り。そうして私はビックバンを見て、ビッククランチを見る。これが適応してからは重なって見える、しかし違うものだと言う知識があるので少しばかり混乱する仮に四次元生まれならこうした景色はそういうものだとして終わりだろう。
高次元から見る景色はいつも客観性がある。三次元に居た時からずっと。生まれが少し過去方向にズレたのも、こうした見え方も私の性質なのだろう。私はAを見ていると思っていても窓を一つ隔てた様な気分である。私は景色Aをこの眼球を通し、変換されたA‘を見ている。私がこの変換に気づけたのは高次元眼球を持っていたからだろうなと思う。高次元から低次元を俯瞰する、普通の眼球ですら変換があるのにこちらは次元の追加である。子供の頃はえらく困った。親の顔が幼児と老人に見えて怖かった。なにより高次元眼球は子供の頃、慣れていなかったから余計だ。だから初めて彼女に会った時は嬉しかった。自分が相手を次元関係なしに見れたのは。
彼の語ったお話はカフェで談笑する男女のお話。女はカオス理論を語り、男はただ聞いていた。どこかの日常を切り取った一幕だが、こういう話は幾ら来ても愛おしい。
ベンチから彼は立ち上がり、空を見上げてから私の顔をじっと見る。最初に会った時も見られていたような気がする。
「あなたは何次元から?」
「十九万六千八百八十三の次元から」
彼はどこか納得したような表情で、ありがとうございましたと感謝を述べて去っていく。
「少し待ちなさい。…また話を聞かせてくれない?」
「構いませんよ」
そうして彼とは別れた。
ここまでのお話を聞いて思った事はどうやら私の未来が決まっているということだ。今ここで語っている私ではなく、これから語る私の未来のことである。未来を察したのもあくまで彼の話を聞いてからで、私自身が元からそうなるはずだったわけではない。自分でそうするのだし、結果そうなったのだし、そうなるのだ。私は話を聞かなければそうはしないし、彼とも会わなかった。会ったが故にそうするが、会うこと自体もそうしたからこそ会えたと言える。因果順序がおかしいかなとも思うが、私はあまり気にしない。その程度のおかしさで消える程、私は柔ではない。
彼は話していないが、高次元眼球は生まれながらであるがよりはっきりと客観性を得たのはあの雨が原因である。あの雨は時空間を定まらずに降ったのだろう。それは本質的に四次元以上のものだった。故に三次元に居ながら四次元の視点を手に入れ、客観性が確固たるものとなったのだ。
高次元から低次元を見つめれば次元がレンズとなって景色が歪む。たとえ、そのレンズを無くしても結局は歪みを伴う。彼の悩みは彼のもので、私は生まれも育ちも高次元、彼のクオリアを理解できない。しかし同じ存在でないのだから。漸近的に同じにはなれる。しかしそれはA=B=A、私がBで彼がA。私を短縮しても歪みがあって、結局違うもので、虚しくなっていくだけ。故に私は彼の力になるつもりで、また呪いになって、いずれ彼が嬉しくなる瞬間を齎す眼になる。
私は怪物の戯言で、それは私の種族の名でもある。
三次元の影は二次元で、四次元の影は三次元。当たる光が変われば影も形を変えるだろう。なら私は三次元でどう見えるのか。答えは分かっている。そうしてこれから起こることでもある。
クオリアはあの雨で男と出会い、旅する彼はあの雨で眼を確固たるものとした。どちらも出会いに必要なことであり、直接的であれ関節的であれ雨は必要事項であった。
私は私の住処で自害する。尋常でない数の次元に住む私、その体が自害によって砕け散り下の次元へ降り注ぐ。影になり、影の影、そのまた影を繰り返し、三次元にて雨が降った。ある時は女と濡れた男の出会いを、またある時はとある男の眼に因果的影響を与えた。こうして私は再び彼からとある男女のお話を聞き、雨となる。この雨の始まりはいつであったかは私ですら覚えていない。しかし覚えている私は居るだろう。おそらくは私をお話として誰かから聞いた私が。
私はこの巡りを愛している。愛し続けているが故に、私は雨に成り続ける。今日も彼の話を聞きながら。
怪物の戯言 松ノ枝 @yugatyusiark
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