婚約破棄の瞬間、国王陛下が泣きながら「俺と結婚してくれ」と言った

林凍

第1話 泣いたのは陛下の方でした

 銀の燭台が、冷たい光で会場を縁取っていた。

 花弁は飾りのためにだけ咲き、音楽は私のため以外の誰かを祝福している。

 きらめきは多いほど孤独になるのだと、この夜、ようやく知った。


「――婚約を、破棄する」


 高らかに告げたのは、私の長年の婚約者である第二王子レオンだった。

 彼の隣には、白いレースの袖を大げさにひらめかせる令嬢。小鳥のさえずりのような歓声が、彼女の周りだけに何度も反響している。


 私は一礼した。

 泣かない。何があっても。

 礼の角度、背筋、足元。祖母に叩き込まれた“淑女の骨格”で、私は自分の体を支える。


「すまない、オーリ――いや、オーリヴィア。君とは、価値観が違った」


 言葉は刃より鈍い。だからこそ、深くえぐる。

 会場の空気が波打った。誰かが胸元に扇子を当て、誰かが物珍しげに私の涙を待つ。

 そんなもの、見せてやるものか。


 そのときだった。

 玉座の上で、長く沈黙を保っていた人物が、音を立てずに立ち上がった。


 国王――アドリアン陛下。


 銀糸の肩章が、微かに揺れる。

 一歩、また一歩。

 広間の中央へ進む足取りは、不思議と急いているようで、しかし決して走りではない。

 気づけば、音楽が止んでいた。空気のすべてが、その人の周りで深く息を潜める。


 陛下は私の前に立ち、低く、誰の耳にも届く声で言った。


「ならば、俺が娶ろう」


 石になったみたいに、世界が固まった。

 嘲笑も驚愕も、そこに至るまでの些細な騒音に過ぎない。誰もが信じられないという面持ちで、そして次の瞬間、ざわめきは嵐へと反転する。


「陛下、何を――」「ご冗談を」「前例が――」


 侍従たちの声が一斉に重なり、宰相は口の端から抗議をこぼした。

 けれど陛下は一顧だにせず、私の手を取った。


 その指先は、熱かった。

 そして、濡れていた。


 私は見た。

 王の頬を、真珠より小さな涙が伝うのを。


「……どうか、俺に。彼女を、この侮辱から守らせてくれ」


 玉座に座る者は、滅多に泣かない。泣く時間があれば、決めねばならないことがいくらでもあるから。

 だからこそ、誰よりも感情を隠して生きてきたはずの王が、私のために涙を落としている――その事実が、胸をきつく揺らした。


「陛下、しかし! この場でのご宣言は――」「王室儀礼に反します!」


 宰相の抗弁の途中で、陛下は視線だけを向ける。

 刹那、広間の空気が刃に変わった。

 誰もが黙る。王の沈黙が、最も雄弁だと知っているから。


「儀礼は民のためにある。民の心は、いま、どちらにある?」


 陛下は、私の肩に自らのマントを掛けた。

 王の色は、温かい。

 私の冷え切っていた体が、一瞬だけ自分のものでないように軽くなった。


「オーリヴィア。――俺と、結婚してくれ」


 名指し。

 この場で、私だけに向けられた言葉。

 胸の奥で、なにかが解ける音がした。


 私は答えられなかった。

 拒絶も、承諾も、どちらの言葉も見つからなかった。

 ただ、礼をした。

 それが、今の私にできる精一杯の返答だった。


 そして陛下は、私を伴って広間を出た。

 背後で、レオンが何か叫んでいた。

 扉が閉まる。世界が切り替わる。


     ◇


 王城の奥、謁見前室は、音を飲み込む深い青で満ちていた。

 侍従が温かい飲み物を差し出し、女官が震える私の指にそっと手を添えた。

 陛下は全てに短く礼を言い、二人きりになった瞬間に、肩から大きく息を吐いた。


「驚かせたな。……いや、驚いたのは俺かもしれない」


 冗談めいた言い方なのに、声が少しだけ掠れていた。

 それが、胸の奥にやわらかく落ちる。


「なぜ、私なんですか」


 やっとの思いで口にすると、陛下は迷わずこちらを見た。

 青い瞳の奥で、嵐が去ったばかりの海が光る。


「理由を言えと言われれば、いくらでも挙げられる。だが一つだけに絞れと言われたら――」


 彼は私の手から、空のカップを受け取った。

 その所作は驚くほど丁寧で、王であることを一瞬忘れさせる。


「今日、君が泣かなかったからだ」


 意外なようで、意外ではなかった。

 陛下の視線は、最初から私の“形”を見ていた。

 姿勢、礼、沈黙の角度。

 私が守ってきた、小さな矜持のすべて。


「君が泣くのは、守られると決めたときでいい。今日泣く理由は、君にはない」


「……陛下は、泣かれました」


「ああ。君の代わりに、な」


 その返答が、頬の裏側を熱くした。

 涙は、頬を伝って初めて世に出る。

 でも今は、まだここでいい。


「オーリヴィア。――俺の妃になってくれるか」


 もう一度、確かめるように。

 前室の時計が、遠いところで一度鳴った。

 私は、自分の声を探した。

 承諾は、簡単だ。けれど簡単ではない。これは、私ひとりの物語で終わらない決断だから。


「情け、ではありませんか」


「違う。情けで抱く腕は、こんなふうには震えない」


 言われて初めて気づいた。陛下の指が、ほんのわずかに震えている。

 人前では決して見せない種類の震え。

 王の仮面から零れ落ちる、ただの一人の男の不器用な感情。


「すぐに返事をとは言わない。……一つ、提案がある」


「提案?」


「仮誓約だ。三十日だけ、俺と『夫婦のふり』をする。王都中に知らしめる。

 その間に、君への誹謗を収め、君の家を守り、そして――この城に巣食う“何か”を炙り出す」


 “何か”。

 思い当たる節は、いくつもある。

 今日の婚約破棄が、ただの気まぐれであるはずがない。

 レオンの背後で微笑んでいた令嬢、その父の商会、最近急に膨らんだ献金。

 断片は、私の頭の中で静かに繋がっていく。


「三十日の間、君は俺の庇護下だ。君が望めば、三十日後にこの仮誓約を破棄していい。君の名誉は守られる。書面にも残す。……どうだ?」


 都合のいい救い、に見えるかもしれない。

 けれど、その文言のすべてに、私が欲しかった“選ぶための時間”が丁寧に置かれていた。

 王は命令できるのに、提案している。

 それだけで、胸の奥がわずかに軟らぐ。


「もう一つだけ、聞かせてください」


「なんでも」


「陛下は、なぜ……泣かれたのです?」


 少しの沈黙。

 陛下は視線を落とし、そして私の右耳の後ろをじっと見た。

 髪を上げるときだけ見える、小さな白痕。幼い頃、蔵で転んでできた傷だ。


「すずらんの、痕がある」


「――!」


 胸が跳ねた。

 “すずらん”は、私の幼名だ。家族と、ごく近しい者しか知らない。

 陛下は続ける。


「昔、城の外の孤児院へ物資を運んだことがある。あの日、石畳で転んだ小さな子がいた。礼だけは立派で、泣くのを意地でこらえていた。……俺は、その子が泣けないことを、ずっと気にしていたのかもしれない」


 そんな昔話、私は知らない。

 だが、確かに覚えのある痛みが、耳の後ろをうずかせた。

 あの日、泣かなかった。泣けなかった。

 泣いたら、誰かが困ると思っていた。


「王は、国の涙を預かる。……君が今日、涙を出さなかったなら、代わりに俺が出す。そう決めただけだ」


 真っ直ぐな理屈は、ときに救いになる。

 私は、知らないうちに息を吐いていた。


「……三十日、試してみます」


 言った瞬間、陛下の表情が緩んだ。

 ほとんど、少年のように。


「ありがとう。君の“ありがとう”を守る」


 そのとき、扉が二度、短く叩かれた。

 侍従長が入ってくる。顔色が悪い。


「ご無礼をお許しください。緊急の報です。――先ほどの宴の杯から、薬が検出されました。毒性は弱いものの、継続的に服用させると……」


 侍従長は言葉を濁した。

 陛下の視線が、刃のように細くなる。


「誰の杯だ」


「……オーリヴィア様の席に置かれていたもの、でございます」


 呼吸が止まる。

 私の杯。

 つまりこれは、偶然の婚約破棄でも、軽い見世物でもない。

 誰かが、ゆっくりと私を壊すための装置を、几帳面に組み上げていた。


「レオンは?」


「陛下に謁見を求めております。婚姻に異議あり、とのこと。さらに――『証拠』をお持ちだとか」


 陛下は一歩、私の前に出た。

 さっきまで震えていた指が、今は止まっている。

 王は、泣くのを終えると、すぐ刃になる。


「よかろう。通せ。……オーリヴィア、ここにいてくれ。俺の背中の影に」


 私は頷いた。

 その影は広く、温かい。

 私がずっと欲しかった場所を、最初から知っていたみたいに。


 扉が大きく開く。

 怒気を纏って入ってきたレオンの目が、私と陛下を交互に射抜く。

 その後ろで、白いレースの袖がわずかに震えた。

 宰相、近衛、文官――駒が一斉に盤上へ。

 王都の夜が、音を立てて動きだす。


 陛下は、私だけに聞こえる声で囁いた。


「三十日――一日目だ。泣いてもいいし、泣かなくてもいい。君の選択だ」


 私は、涙の居場所を胸の奥にしまった。

 泣くのは、守られると決めたとき。

 まだ、決めてはいない。

 けれど、決められる未来が、確かに目の前に置かれている。


 正面から、王と王子がぶつかる。

 舞台は整った。

 次に泣くのが誰かは、――私が決める。

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