婚約破棄された瞬間、泣き崩れたのは殿下のほうでした
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 婚約破棄の夜
──この夜のことを、私は一生忘れないだろう。
婚約破棄を告げられたのに、泣き崩れたのは殿下のほうだったのだから。
王都でもっとも華やかな夜会。
水晶灯が幾千の星のように天井を飾り、絹の裾が花のように舞っていた。
その中心に立つ彼――第一王子レオナルド殿下は、いつものように整った笑みを浮かべていた。
けれど、あの笑みの奥に、微かな翳りがあることを、私は見逃さなかった。
胸の奥で鈍い痛みがする。
何かが、終わる予感。
それでも私は、最後まで完璧な令嬢として立つ覚悟をしていた。
「公爵令嬢アリシア・エルフォード。君との婚約を、ここで破棄する」
静寂が、夜会を覆った。
音楽も、囁きも、一瞬で消えた。
代わりに、シャンデリアの光が冷たく揺れ、私の白いドレスの裾を照らしていた。
――ああ、やっぱり。
そう来ましたか。
私は微笑んだ。
唇だけで形を作る、完璧な笑み。
王妃殿下の教育で身につけた礼儀の一つ。
泣くな。乱すな。誇りは崩すな。
それが、私がこの五年間、殿下の婚約者として学んだすべてだった。
「……承知いたしました、殿下。お幸せをお祈りいたします」
声は、震えなかった。
けれど、手の中で握った扇子の骨が、かすかに軋んだ。
それを誰も気づかないように、私は優雅に一礼し、踵を返した。
そのとき――。
「アリシア、待ってくれ!」
背後から、殿下の声が割れた。
ざわめきが広がり、視線が一斉に彼に集まる。
私は振り返らなかった。
けれど、次の瞬間、ドレスの裾が何かに触れた気配がした。
振り向くと、そこには――膝をつき、顔を覆って泣き崩れる殿下の姿があった。
王子が、公衆の前で涙を流すなど。
誰も、信じられなかった。
「……違う、違うんだ……!」
彼の嗚咽が、絨毯に吸い込まれていく。
私はただ、立ち尽くした。
なぜ泣くのか、理解できなかった。
婚約を破棄したのは、彼自身なのに。
「殿下……?」
口を開いた瞬間、彼の側近が駆け寄り、私の肩を強引に押しやった。
「お下がりください、アリシア様!」
冷たい声。
けれど私は、聞こえた。
泣き声の合間に、掠れた声で、彼が呟いた言葉を。
――「守りたかった……君を……」
私は息をのんだ。
けれど、もう何も言えなかった。
殿下は衛兵に抱えられ、夜会の奥へと連れ去られていった。
残された私は、舞踏会の中央で一人立ち、空になった水晶のグラスを見つめていた。
拍手が、遅れて響いた。
形式的な、偽りの祝福。
“破棄された令嬢”と“泣き崩れた王子”の噂は、その夜、王都中を駆け巡った。
◆
夜が明けるころ、私は馬車の中で冷えきった指を見つめていた。
屋敷に戻れば、父は怒るだろう。
けれど、不思議と涙は出なかった。
あの涙は、私のものではなく、彼のものだったから。
窓の外に朝日が昇る。
街の鐘が鳴り、露が輝く。
その瞬間、馬車の扉を叩く音がした。
「アリシア様! これを!」
伝令が息を切らせて差し出したのは、封蝋のついた小さな手紙。
王宮の印。
震える手で封を切ると、淡いインクの匂いが立ちのぼった。
『……助けて。信じられるのは、君だけだ。』
血の滲んだ文字。
その下に記された名は――レオナルド・アルトリウス。
手紙を握る指先に、ようやく熱が戻る。
胸の奥で、何かが静かに灯った。
あの涙の意味を、確かめなければならない。
それが、彼に与えられた最後のチャンスだと、なぜか直感していた。
私はドレスの裾を摘み、馬車を降りた。
風が、髪を揺らす。
空は、まるで何かを試すように晴れ渡っていた。
「……殿下。あなたの涙の理由を、必ず見つけます」
自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。
馬のいななきが響き、馬車が再び走り出す。
その音が、まるで物語の幕開けを告げる合図のように思えた。
――婚約破棄の夜は、終わった。
けれど、本当の戦いは、これから始まるのだ。
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