おしばなナ
多菜玻まや
おしばなナ
ハルは、棚に並んだ二種類のバナナとにらめっこしていた。
一本三十円、一本百円。その差は、今日のハルにとって小さくない。
財布を救うか、世界を救うか――彼女は真剣に悩んでいた。
バナナ――価格の王様、庶民の味方。最強フルーツの呼び声高い。
スーパーヒーロー、黄色担当である。
物価高騰の時代にあって、昭和の頃からバナナだけが、ほぼ値段が変わらない。
時が止まった、時代に取り残された優等生だ。
そんなバナナに、ある日事件が起きた――最初は小さな食中毒。
愛知県の某スーパーで、バナナを食べた客が腹痛を訴えた。
「まあ、たまたま腐ってたんじゃない?」
「冷蔵庫に入れてた? それ、逆効果だよ」
SNSは軽口で埋まり、スーパーの担当者は菓子折りを持って謝罪に走った。
だが、事態はすぐに腐るどころか、発酵し始める。
近隣の他のスーパーで、同様の症状が報告され、被害が広がった。
「これは偶然じゃない」
「バナナが反乱を起こしている」
「このエリア、やばくな?」
SNSはツッコミと大げさが混ざって、画面がうるさい。
ハルのタイムラインにも「この店ヤバい」マップが流れてくる。
同僚が昼休みに、バナナが暴走してるってよって笑っていた。
どうも問題のバナナは、エクアドル産であることが判明した。
そして、ある時期に出荷されたバナナから、基準値超えの昆虫成長制御剤(IGR剤)が検出された。
「農薬かよ!」
「エクアドルってどこよ?」
「バナナ虫きれい」
――話題は小さな羽音に掻き消されていく。
「バナナの価格は、実は長年ほとんど変わっていません。六十年近くですよ」
怒りと混乱が渦巻く中、メディアでは、専門家がぽつりと漏らした。
マスコミは、ワイドショーで「バナナテロ」と名付けた。
要するに、どこかに無理があるってことだよな。
会社でも同僚と話題になった。
バナナの安さの裏には、発展途上国の過酷な労働環境があった。
農園では、労働者が防護服もなく農薬を撒き、低賃金で働いていた。
「バナナの価格が上がらないのは、消費者の無意識の搾取です」
「我々は、安さを求めるあまり、遠い国の労働者の苦しみに目を向けてこなかった」
スーパーは謝罪し、マスメディアは反省し、SNSは反省したふりをした。
「バナナを買うとき、ちょっとだけ考えてみよう」
「フェアトレードって、なんかかっこいいし」
「エクアドルって、どこにあるか知らなかったけど、今は地図で見れるし」
小さな変化が、少しずつ起き始めた。
「ちょっと高いけど、安心です」
「農園の子どもたちが学校に行けるようになります」
スーパーは、フェアトレードバナナの導入を検討し始めた。
バナナの値段が上がらないのは、誰かが犠牲になってるから。
――その事実が、じわじわと広がり始めた。
店のポップには、農園で働く笑顔の子どもたちの写真が並んでいた。
「高くね?」
「普通のバナナでよくね?」
「バナナ推しでもないし……」
「いや、でも……うーん……」
反応はリアルで、ちょっと笑えた。
「こんな環境で働いてるの?」
「バナナ、ちょっと高くてもいいかも」
「いや、でも毎日食べるし……」
SNSで、農園の写真が拡散された。
人々は、少しだけ考えた。
少しだけ、遠い国に目を向けた。
バナナの値段に初めて考えるという行為を持ち込んだ。
エクアドルの朝は早い。
まだ空が薄暗いうちから、農園には人の気配がある。
バナナは青いうちに収穫される。完熟してからでは遅い。
働く人々も早々に動き出す。眠気も、疲れも、空腹も置き去りにして。
「今日もバナナだね」
「明日もバナナだよ」
「人生、バナナに始まり、バナナに終わる」
そんな冗談を言いながら、彼らは黙々と作業する。
選別、箱詰め、積み込み。防護服はない。
農薬の匂いは、もはや空気の一部だった。
バナナは、港へ運ばれる。
その間に、彼らの名前は消える。
バナナは商品になり、人間は背景になった。
ラベルには「エクアドル産」とだけ書かれ、誰が育てたかは記されなかった。
一方、国際会議では、バナナが議題に上がっていた。
「バナナの価格安定は、消費者にとって重要です」
「でも、労働者の権利も守られるべきです」
「フェアトレードの導入を進めましょう」
スーツを着た人々が、冷房の効いた部屋で語り合う。
その会議のコーヒーにも、エクアドル産の豆が使われていた。
「バナナとコーヒーで世界は回ってるな」
誰かが笑った。誰かが黙った。
冷房の効いた会議室でのやり取りは、いつの間にかハルのスマホに流れてきた。
タイムラインをスクロールしていると、ふとバナナのことが頭に浮かぶ。
ハルはふと思った。バナナがもし喋ったら、何て言うかな。
彼女の頭の中で、バナナが静かに話し始めた――「こんにちは、ぼくはバナナ」。
見た目は地味だけど、世界を旅してきたんだ。
エクアドルの土の上で生まれて、太陽に育てられて、人の手で箱に詰められて、船に乗って、ここまで来た。
ぼくを育ててくれた人の名前は知らない。
でも、彼の手のひらの温度は、まだぼくの皮に残ってる。
お前は、遠くの国で食べられるんだぞ――彼は、毎日ぼくに話しかけてくれた。
スーパーの棚に並んだとき、ぼくはちょっと緊張した。
誰かに選ばれるかどうかは、運次第だから。
でも、君がぼくを手に取ったとき、ぼくは思ったんだ。
この人は、ぼくの旅路を少しだけ想像してくれたんだな。
ぼくは、ただの果物じゃない。
ぼくの中には、土の匂いと、人の願いと、君の選択が詰まってる。
君のちょっとした選択が、誰かのちょっとした希望になるんだ。
――青い土の匂い、港の潮、箱詰めの手のぬくもり。
ハルはそれを自分の気持ちに重ねた。
翌日、再びスーパー。
ハルは同じ棚の前に立ち、昨日よりも長く二つのバナナを見つめていた。
バナナが並んでいる。黄色くて、つやつやしていて、どれも似ている。
でも、ひとつだけ違うラベルが目に入った。
フェアトレード――見慣れないマーク。
少しだけ高い。
「ほんの数十円。でも、毎週買うしな……」
ハルは迷った。
その数十円が、誰かの手袋になるかもしれない。
その数十円が、子どもたちの教科書になるかもしれない。
でも、彼女の財布にも限りがある。
それでも、ハルはちょっと高めのバナナをカゴに放り込んだ。
別にヒーローぶるつもりはない。
今日はただ、ちょっとだけ遠い国の誰かを「推す」気分だったのだ。
家で皮をむき、一口。味はいつもどおり。
でも噛むたびに、なんだか胸のざわつきがすこし晴れる。
心に、そっと押し花を。心の中の、推しバナナ。
おしばなナ 多菜玻まや @tanahamaya
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