悪役令嬢-犬!!
伊阪 証
美女で野獣
夜会の翌朝、屋敷はやけに静かだった。静かというより、音がどこかに置き忘れられたような、空気だけが冷えていく静けさだ。私は湯気の立つ薬缶を盆に載せ、主寝室の扉の前で一度、息を整えた。廊下の端から端まで、同じ噂が波のように寄せては返すのが聞こえる――「あの家のメイドの方がまだ美しい」。昨夜、殿下が放ったとされる一言。言葉一つで、国は傾く。かつて私は刺繍の先生からそう教わったが、実際に傾くのは、まず人の心だ。
扉を開けると、クラリッサお嬢さまは鏡台の前に座っていた。まだ薄暗いのに、窓はすべて開いている。春先の夜気に肌が粟立つ。長い髪は乾いた絹のように滑り、梳かすたび梳き櫛の歯がかすかに鳴った。私はいつもの順で身支度を進める。香油、肌着、コルセット。すべてが正確に、音もなく収まっていく。違っていたのは、声だけだ。お嬢さまは、一度も喋らなかった。
鏡越しに、わずかに視線が合った。その瞳は灰金。昨日までと同じ色のはずなのに、どこか違う。感情を隠すのではなく、捨ててしまったような静けさがあった。
「……誰も、呼ぶな。もう私の名を口にするな。」
それだけ言うと、お嬢さまは立ち上がった。その背中は、痛いほどまっすぐだった。
言葉がない代わりに、視線があった。帳簿を渡せば、ページがめくられる間に数字の誤りが赤鉛筆で三つ指摘される。食糧庫の鍵を持っていけば、受け取る前に「穀物商からの納入書は偽造よ」と目だけが告げる。私は頷き、別のメイドに目配せした。廊下の角でノエルが固まっている。あの子は噂に弱い、見なかったふりをする術も未だ身に付かない。目が合うと、すぐに逸らしてしまった。目元が赤い。泣いたのだ。
お嬢さまは、その赤い目を一度だけ見た。怒りではない、慰めでもない、ただ事実として見つめるあの眼差しで。そして、その静寂は唐突に破られた。
机に向かうと、帳簿の束を一瞥し、インク壺を掴んだ。次の瞬間、太い羽根ペンがインクを吸い上げ、領地管理、税収、商人への貸付、寄付金、全ての項目が黒々と塗り潰されていく。それは怒りでも絶望でもない、あまりにも冷静な破壊だった。
「もう、綺麗である必要はないわ」
声は、凍てつくほど平坦だった。
「正しいかどうかだけを残せばいい。」
貴族社会において「醜い」と呼ばれた女は、罪人になる。ならばお嬢さまは、自らその罪を背負い、戦うことを選んだのだ。廊下では、姉役のカトリーヌが無言で動き、使用人たちの動線を整えていた。「持ち場に戻りなさい」と彼女は目だけで命じる。さすが没落家門の娘、滅びの音を知っている手つきだ。
王宮への返書は、白紙のままだった。お嬢さまは塗り潰された帳簿の余白に、骨のように硬い文言だけを記す。
――王家の宴に対し、当家は領内の救恤を優先する。よって、参内は差し控える。
飾りも、言い訳も、礼の文句もない。私は封蝋を用意しながら、この日から何かが決定的に変わることを自覚した。封をするために溶かされた赤い蝋が、帳簿の上にぽつりと落ちる。その音が、妙に生々しく響いた。まるで、血の滴る音のように。
午前の終わり、私はお嬢さまを庭にお連れした。白薔薇がまだ蕾のまま並び、地面には霜が名残を見せている。彼女は一歩だけ足を止め、父君の部屋の方角を見た。あの方は、王家に忠だった。愚直と言ってもよかった。お嬢さまは父の忠と、自らの理と、民の明日を秤にかけ続けていた。そこに昨夜の一言が落ちたのだ。秤は壊れる。壊れた秤で測れるのは、静けさだけだ。
王子の一言など、長い歴史から見れば埃にすぎない。けれど埃は肺に溜まる。呼吸を奪う。人は、息の仕方を忘れる。私は人差し指で窓枠の埃を払った。指先の灰は軽く、しかしし-つこく指に残る。拭っても、完全には落ちない。昼鐘が鳴った。遠く、街の市場から、売り声に交じって不穏な罵声が聞こえる。何かが、確実に歪み始めている。私は盆を抱え直し、心のどこかで、名前のない予感に呼び名を与えた――。それは、噂より静かに、噂より速く、この屋敷の敷居を越えてくる気配として。
ご指摘の通りです。失礼いたしました。
意図的に静寂や間の表現として改行を多めに使っておりましたが、それが冗長に見え、文章全体の流れを損なってしまっていたようです。編集者として、読感への配慮が足りませんでした。
文章の密度を高め、より滑らかで連続性のある散文に修正します。一つ一つの文を繋ぎ、パラグラフとして意味のあるまとまりを持たせることで、物語への没入感を高めます。
午後、空が曇り始め、白薔薇の花弁に薄い影が落ちた。私は暖炉の前で壊れた椅子の脚を磨いていた。木目の隙間に入り込んだ灰を払うたび、軋みが指に伝わる。音がないと時間が止まるが、止まった時間ほど恐ろしいものもない。なにかが終わる前に起こる沈黙は、たいてい“死”の前触れだ。
二階から鐘が鳴った。知らせるまでもない、あの音色の揺らぎだけで誰が呼んでいるか分かる。
――公爵様だ。
私は盆を置き、裾をつまみ上げて階段を上がる。途中で泣いているノエルとすれ違った。「ミレーユさん、もう……お薬が効かないって……」と声が震え、語尾が途切れる。私は頷き、何も言わずに進んだ。言葉は、時として死を早める。
寝室は薄暗く、薬草の匂いが濃かった。ベッドの上で公爵が背を起こそうとしているのを、クラリッサお嬢さまが表情一つ動かさずに支えている。その所作はあまりにも丁寧で、あまりにも静かだった。
「……クラリッサ」
「父上」
かすれた声が交わされる。二人の間に言葉は少なすぎた。言いたいことは山ほどあったろうに、どちらも言葉を選び、そして選び損ねてきたのだ。
「私は、あの王子の言葉で死ぬのだな。」
その一言に私は思わず息を止めたが、お嬢さまは何も答えず、ただ湯気の立つ椀を父の唇に当てた。公爵は一口だけ含んで苦笑する。
「……おまえは、正しい。だが正しさは、孤独だ。覚えておきなさい。」
それが最後の言葉だった。指先が力を失って滑り落ち、椀が転がって床に音を立てて止まった。その音を聞いた瞬間、胸の中で何かが崩れたが、涙は出なかった。あまりにも早く、あまりにも静かな死だった。
お嬢さまはしばらく動かず、やがて立ち上がると、冷たくなりゆく父の手を両手で包み込んだ。「……おやすみなさい、父上。」その声に悲しみの抑揚は一切なく、まるで祈りそのものが冷たくなったようだった。
私は使用人たちに葬儀の準備を指示する。ノエルは嗚咽をこらえながら布を運び、カトリーヌは外の門を閉めていく。「知らせは王宮へ?」とカトリーヌが問うと、「要らない」とお嬢さまは一言で制した。「知らせるのは、王家ではなく民です。父の死は、彼らの糧になる。」その言葉の意味を、誰も咎めなかった。
翌日、屋敷の前庭で簡素な葬儀が行われた。灰のような空の下で鐘が一度だけ鳴り、王家の馬車は来なかった。代わりに領民たちが花を手向け、静かに祈りを捧げる。その祈りの声は小さく、しかし去っていく彼らの足音は、石畳の上で不満を押し殺すように重く響いた。その列の中で、私は喪服の黒をまとったお嬢さまを見た。目は遠く、風に流される煙を追っている。表情はなかったが、私には見えた。あの瞳の奥で、何かが確実に切り離された瞬間が。
葬儀が終わると、彼女はまっすぐ書斎へ入った。扉の向こうで紙がめくられる音と羽根ペンが走る音が断続的に聞こえ、その音が止むたび、屋敷が心臓の鼓動を遅くするように冷えていく。夜になって私は思い切って扉を叩いたが、返事はなかった。静寂の中、やがて内から微かな声が聞こえてきた。
「私は、父を殺したのだわ。」
その声は震えておらず、ただ淡々としていた。私は扉を開けなかった。それがどんな意味であれ、彼女がその言葉を吐くことが“必要な痛み”だと分かっていたからだ。
翌朝、書斎の扉の前に封のされていない書簡が一通置かれていた。『アルノー家は、王家の庇護を辞退する。民のもとに還る。』筆跡は冷静だったが、紙の端にインクの染みがあった。涙か、蝋の飛沫か。その一滴が、屋敷全体を決定的に変えた。
その日から、屋敷の音が消えた。食堂では食器のぶつかる音が止み、廊下では足音が吸い込まれ、人の声が減るにつれて屋敷は呼吸をやめたようだった。動いているのに、生きていない。けれど、壁の内側の音が消えれば消えるほど、壁の外の音が、城下のざわめきが、やけに鮮明に聞こえるようになった。
私はふと、昔のことを思い出した。クラリッサお嬢さまが十にも満たぬ頃、庭で転んで膝をすりむいても泣かず、「痛みは、生きている証」と言った。その言葉の意味を、私は今ようやく理解した気がする。痛みを感じないということは、生を拒むということ。今の彼女は、生きることそのものを拒もうとしている。
夜半、書斎の扉の隙間から灯が漏れていた。中ではお嬢さまが黙って本を閉じ、その横顔に諦念に似た美しさが過る。外では雨が降り始めていた。屋根を叩く単調な雨音に混じって、遠く、鍛冶場の槌の音が聞こえる。いつもより速く、何かを急かすような、怒りの交じった響きだった。その音の中で、私は小さく呟いた。
「お嬢様、どうか――沈黙の先に声を。」
もちろん、彼女に届くはずもなかった。彼女は立ち上がり、窓を開ける。流れ込む夜気の中、雷が一度だけ鳴った。その閃光に照らされた瞳は、まるで鏡のように空を映していた。私の中で、確信が芽生えた。この沈黙は、もう人間のものではない。彼女は、何か別の存在へと歩み始めている。
夜明け前の屋敷は、まるで水の底に沈んだようだった。蝋燭の灯は小さく揺れ、風もないのに廊下の帳が微かに揺れる。私はその異様な静けさの中を歩いていた。歩くたびに床板が鳴るが、音がやけに遠い。まるで、屋敷そのものが私を拒んでいるように感じられた。
クラリッサお嬢さまの姿を最後に見たのは、三日前。それ以降、部屋に籠もりきりで食事にも手を付けていない。ノエルが心配してお盆を運んだが、返ってきた皿はそのままだった。ただ、スープの表面に灰が一粒、沈んでいたという。その話を聞いた時、私は直感した。この屋敷は、もう人の住む場所ではなくなりつつある。
窓を開けると、朝霧が一面に広がっていた。庭の白薔薇が露に濡れ、重たげに頭を垂れている。ノエルは泣き腫らした目で俯き、カトリーヌは道具棚の鍵を開けようとして手を止めた。「音を立てたら、壊れそうで」と彼女が呟く。その言葉が、屋敷の現状を的確に言い表していた。
午前、お嬢さまの部屋の前で異変が起きた。ノエルが扉を叩いた瞬間、内から風が吹き、隙間から灰が舞い出す。中には燃え残った帳簿の断片が混じっていた。「寄付金 凍結」「商会 解散」――黒いインクが滲む紙を、ノエルは胸に抱えたまま動かなかった。
午後になって、私は決心した。ミレーユとして、最後の責務を果たす時が来たのだ。お嬢さまがどれほどの絶望に沈もうと、この屋敷が“主のいない家”になることだけは許されない。鍵束を腰に下げ、書斎へ向かう。廊下を進むたび空気が重くなり、曲がり角を過ぎると、壁から公爵とお嬢さまの肖お像画が落ちていた。二人の目が削られたかのように、煤けて黒ずんでいる。何かがこの家そのものを変質させているのだ。
扉の前に立つと、内側から焔の揺らめきに似た光が漏れていた。深く息を吸い、ノックをする。
「お嬢様……ミレーユです。」
返事はない。代わりに、風の音と、何かが燃える匂いがした。扉を押し開けると、そこはまるで別の空間だった。
机の上には燃え尽きかけた紙束があり、灰の中に王家の印章が半分溶けて転がっている。お嬢さまは窓際に立ち、夜の庭を見つめていた。解かれた髪が肩に落ち、月光を浴びたその背中は、まるで彫像のようだった。
「お嬢様……」
言葉が喉で詰まる。彼女の周囲の空気が揺らめき、足元が凍えるほど冷たい。私が一歩踏み出した、その時だった。
「ねぇ、ミレーユ。王子の“美しい”は、どこにあったのかしら。」
その声は穏やかで、怒りも悲しみもない。興味を失った子供のような無垢さがあった。私は答えられず、彼女は自分で続けた。
「もし“美しい”が、愛されることと同じなら……私はもう、愛されていないのね。」
彼女は笑った。それは微笑というより、冷たい風が唇を通り抜ける音のようだった。
「だから、私も人を愛することをやめるわ。」
その言葉が引き金だった。どこからか、遠い鈴のような音が聞こえた。返事をするように、部屋の灯が消える。風が走り、蝋燭が一斉に吹き消され、暗闇が広がった。その暗闇の中で、何かがはじける音がした。金色の粉のような光が、彼女の周囲に散っていく。私は反射的に目を覆った。
目を開けると、お嬢さまの姿はなかった。
代わりに、床の上で一匹の犬がこちらを見ていた。ウェルシュ・コーギー。白金の毛並みが微かに光を反射している。その瞳は――灰金。確かに、お嬢様の瞳だった。
私は言葉を失った。犬は静かにこちらへ歩み寄り、私の足元で一度だけ首を傾げた。鳴き声はない。ただその仕草だけで、彼女が誰なのかを悟った。
「お嬢様……」
喉の奥が震える。犬は答えず、ゆっくりと部屋を出ていった。廊下の先、窓の外では風が止み、月が雲間から顔を出す。金の光が白薔薇の庭に降り注いでいた。
私はその場に膝をついた。あの鈴の音は、魔女のものだ。お嬢さまの決意を、あの観客は聞き届けたのだ。
その夜、屋敷の者たちは誰もが重い夢を見た。朝になっても、ほとんどの者は“何が起きたか”をはっきりと思い出せなかった。だが、私だけは知っていた。そして、庭の白薔薇も。花弁が、すべて同じ方向を向いていたのだ。まるで、ひざまずいているかのように。
その視線の先にあるものを。
――あの犬を。
あの沈黙の中に生まれた、小さな影。クラリッサ・アルノーという名の、沈黙そのものを。
朝、鐘が鳴らなかった。誰も鳴らさなかったのではない。鐘そのものが鳴る理由を忘れてしまったかのようだった。夜明け前の屋敷は前日と寸分違わぬように見えたが、音が違った。風も人の声もないのに、どこかで絶えず、爪が床を掻くような小さな響きが続いている。その音の正体を、私は知っていた。
……お嬢様だ。
ウェルシュ・コーギーの小さな足音が、規則正しく、まるで人間の歩調のように屋敷中を巡っていく。各部屋を覗き、最後に庭の前で止まる。白薔薇がまだ夜露をまとい、光を反射している。犬はその前に座り、首を傾けた。あの背筋の伸びた座り方――どんな姿になっても、クラリッサはクラリッサだった。
私は遠くからその姿を見ていたが、どう言葉をかければよいか分からなかった。「お嬢様」では重すぎるし、「あなた」では軽すぎる。だから私は、そっと盆を抱えて近づいた。皿の上にはまだ温かいスープが揺れている。
「……朝食です、お嬢様。」
犬はゆっくりとこちらを振り向いた。灰金の瞳が、真っすぐ私を見上げる。瞬きもせず、ただ見つめるその瞳に、問いも命令もなかった。それでも、すべてを理解していると分かった。私は盆を地面に置く。犬は一歩近づき、湯気の匂いを確かめたあと、何も食べずに目を閉じた。その仕草がまるで「まだ食事をする資格がない」と言っているようだった。
裏口から顔を覗かせたノエルが「あの子、どうして泣いてるの?」と犬を見た。泣いてはいない。だが、瞳の奥が濡れているように見える。彼女はそっと近づいた。「ねぇ、お嬢様……本当に、お嬢様?」と震える声で問う。犬はノエルの手を嗅ぎ、一度だけ鼻を鳴らして背を向けた。「違うのかな……?」と呟くノエルに、私は首を振る。「違わない。ただ、形が変わっただけ。」言わなければ、あの子の心が壊れそうだった。
昼、カトリーヌが執務室に入ってきた。「報告です。領民が、昨夜の火を見たと言ってます。屋敷の上に光が立ち昇ったと。」私はペンを止めた。「誰にも話すな。屋敷の外には漏らすな。」
「……それでも、もう王都には伝わってます。『公爵家が呪われた』って。」
その言葉に、部屋の空気が凍った。噂は放っておきなさい、と私は告げた。民は恐怖を語ることでしか生を確かめられないのだから。カトリーヌは頷いたが、その頬に小さな震えが見えた。
夜、私は再び庭へ出た。犬はそこにいた。月明かりに照らされ、薔薇の列の中で動かない。その毛並みは、まるで人の手で梳かれたように整っていた。私は地面に膝をつき、声を抑えて尋ねた。
「お嬢様……私たちは、まだ仕え続けてよろしいのですか?」
犬は顔を上げた。その眼差しに、一瞬だけ柔らかい光が差す。風が吹き、白薔薇が揺れ、花弁が散った。その中で犬はゆっくりと立ち上がり、屋敷の方へ歩き出した。返事の代わりだと悟る。“仕えなさい”でも、“去れ”でもない。ただ“共にあれ”という、無言の意志。
屋敷に戻ると、ノエルが寝台で「お嬢様が幸せでありますように」と祈り、カトリーヌは窓際で腕を組んでいた。「人が犬になるなんて、信じられる?」と彼女が問う。「信じるしかない。私たちは、それでも仕えるためにいるのだから。」私の答えに、カトリーヌは小さく笑った。
「なら、せめて吠えるくらいはしてほしいわね。」
その時、遠くから小さな声が聞こえた。
――ワン。
まるで、その会話に応えるように。三人で目を見合わせた。笑うことも泣くこともできず、ただ、その一声が確かにお嬢様の“声”であったことを、誰もが理解した。
夜更け、私は帳簿に日誌をつけた。「本日、我らが主は沈黙を破られた。」と。筆を置いた瞬間、窓の外で鈴が鳴り、庭の白薔薇が一輪だけ完全に咲いていた。冬の名残がまだ残るこの時期に。それはまるで、死の庭に芽吹いた小さな生だった。
私は蝋燭を吹き消し、暗闇に目を慣らす。闇の奥に、廊下を歩く犬の影が見えた。足音が消えても、その後ろに続く私たちの影だけは、確かに残っていた。
あの夜、私は誓った。もしこの沈黙が呪いなら、共に背負う。もし救いなら、共に見届ける。クラリッサ・アルノーという名の犬は、もはや人ではなく――この国そのものの、沈黙の意志なのだと。
夜明けの光が、屋敷の屋根を薄紫色にかすめた。冬の冷気が残る風が、廊下を通り抜ける。私は目を覚ますより早く、その気配に気づいていた。音もなく屋敷の中を歩く、小さな足音。
クラリッサお嬢さまだ。
寝室を出ると、月の残り光を受けて光る犬の背中が見えた。白金の毛並みが、まるで新しい日の始まりを拒むように冷たく輝く。彼女は廊下の突き当たりで一度だけ振り返り、その灰金の瞳で、私を真っすぐに見つめた。ほんの数秒、時が止まる。次の瞬間、その小さな身体は弾かれたように走り出した。
それを合図にしたかのように、風が起こり、屋敷の扉という扉が一斉に開いた。内の空気が外へ吸い出され、白薔薇の庭へと流れ込む。花弁が嵐のように舞い上がり、犬の足跡に沿って渦を巻いた。音はない。けれど、その光景が確かに“生命の音”だった。
ノエルが窓辺に駆け寄り、息を呑む。
「ミレーユさん、あの子……!」
彼女の指の先で、犬が軽々と柵を跳び越え、朝霧の中へと消えていく。その金の尾が描いた軌跡の先、丘の上に、いつからそこに立っていたのか、一つの影があった。
黒い裾が揺れ、長い髪が風に流れている。魔女――アーシュラ。彼女は薄く微笑み、犬が通った後の大地にそっと手をかざした。呼応するように、光が散り、庭の白薔薇が一斉に咲き誇る。夜の冷たさを吸い、朝の色に染まるその姿は、祝福にも、断罪にも見えた。
「愛されず、憎まれず、それでも立つ者。あなたは、まだ“人”であることを諦めていないのね。」
魔女の声は風と混ざり、遠くへ溶けていく。犬は丘の上で立ち止まり、短く尻尾を振った。それが、返事だった。
私はただ、祈るように目を閉じた。クラリッサがどこへ向かうのか、誰も知らない。魔女が何を望むのかも。けれど、世界は確かに動き出したのだ。止まっていた教会の鐘が、遠くで一度だけ、重く鳴り響いた。その音は、誰かの葬送にも、そして誰かの始まりにも聞こえた。
こうして、アルノー公爵家の沈黙の庭は終わりを告げた。
そして今、彼女の旅が始まる。“正しさ”だけを残した女が、“愛され憎まれる”ための、最初の夜明けだった。
悪役令嬢-犬!! 伊阪 証 @isakaakasimk14
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