黒崎探偵事務所-ファイル08 霧の都市と探偵の迷宮
NOFKI&NOFU
第1話 都市の記憶を喰らう霧
――東京が、呼吸を止めた夜だった。
九月の終わり。
午後十時を過ぎても、街全体が白鉛色の湿気に沈み、ビルの輪郭は融けたロウのように歪んでいた。
ネオンの灯りは霧の中で濁り、車のヘッドライトがまるで深海魚の眼のように、無音で漂っている。
「……息苦しい夜ですね」
美咲が助手席の窓に指を滑らせた。冷たい水の膜が指先をなぞる。
「(先週食べた)黒崎さんのカップ麺の残り汁みたいに、ドロっとしてて嫌な感じです」
「……」黒崎はヤレヤレとした顔をした。
「ここ数日の霧、ちょっと異常じゃないですか? まるで街全体の『記憶』を吸い取ってるみたい」
黒崎は運転席でシガーレットに火を灯し、煙を細く吐き出した。
霧がその煙を飲み込み、形のない闇へと溶かす。
「馬鹿言え。普通の霧なら、もう少し人間に優しい」黒崎は低く呟いた。
「この『異物』は、何かを隠そうとしている。あるいは――何かを招き入れている」
「招き入れる……?」美咲が息をのむ。
「黒崎さん、それって――」
「『湖底の歌声』を覚えてるか」
黒崎の目が、霧の奥の街を鋭く射抜いた。
「やつらの残滓が、今度は『霧』という形で都市を喰らい始めた」
――数刻前――
その瞬間、事務所のドアが乱暴に叩かれた。
美咲が驚いて振り向く。
「夜分すみません! 黒崎探偵事務所……ですよね!?」
ドアを開けると、若い男が立っていた。
スーツは泥で汚れ、顔は蒼白。眼の焦点がどこにも定まらない。
「ハルキ」と名乗った彼は、ひび割れた声で言った。
「恋人が――霧の中で消えたんです……! 霧の中から、彼女の声が聞こえた気がして……でも違ったんです」
「美咲、お客さんに、コーヒー淹れてくれ。濃いのをな」
黒崎は煙草を灰皿に押しつけた。
「詳しく話せ」
「夜の渋谷、信号の音も霧に飲まれていた。そんな時交差点近くで待ち合わせをしてたんです」
「ほんの数秒、スマホを見ただけなんです! 顔を上げたら、彼女の周りが真っ白な『壁』みたいになってて……。霧が渦巻いて、形を変えて、気づいたら、もう――いなかった」
美咲は手帳を取り出した。
「その『壁』、ただの霧ではなかったと?」
ハルキは頷く。
「ええ……。あれは、何かの境界でした。見た瞬間、目の奥が焼けるように痛くて……音が消えたんです。まるで世界が途切れたみたいに」
彼の指が震えて、ポケットから一枚のメモを差し出した。
湿った紙には、滲んだ文字でこう記されていた。
『霧の中が懐かしい。誰かが私を呼んでいる。湖の底で聞きたかった、あの声が』
美咲は息を呑む。
「湖の底……。まさか、また『あの事件』と?」
黒崎は眼鏡の奥で目を細めた。
「奴らが、過去を繋ぎ合わせている。都市の『記憶』そのものを喰らってな」
「……また、連中が動き出した」
「彼女を、助けられますか……?」ハルキがすがりつく。
黒崎は静かに立ち上がった。
「覚悟しておいてほしい。これは人の理の外にある。お前の恋人は『異界』に片足を踏み入れている」
美咲がコートを羽織り、黒崎の隣に立つ。
「行きましょう。霧の現場へ。――あの霧は、誰かが仕掛けた『迷宮』です」
ハルキは涙を流しながら、二人に頭を下げた。
「どうか……お願いします……!」
そのとき、窓の外の霧がわずかに脈動した。
ビルの輪郭が歪み、街の灯が音もなく反転していく。
美咲の耳の奥に、微かな囁きが届いた。
「……さあ、おいで。迷子の羊たち。
お前たちの代償は、まだ支払われていない」
それは、かつて湖底で聞いた旋律と同じ――甘く、深淵を誘う声だった。
街の監視カメラの映像が、一斉に『白い波形』に変わっり、『109』のネオンが裏返り、『601』の数字が浮かび上がった。
次回予告。
そして霧の向こう、渋谷の街路に『もうひとつの街』が、静かに浮かび上がろうとしていた。
――次回、第2話「自己反転の迷宮」へ。
※「湖底の歌声」事件……ダム湖に沈んだ村の「棲む者」が発する歌声に誘われ、人々が湖底へ吸い込まれていく連続行方不明事件。
※「鏡の街路」事件……裏通りに突如現れた祠の鏡に人が吸い込まれ、鏡の向こうの異界に連れ去られる連続失踪事件。
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