第28話 光と影の交信

その男は、音もなく現れた。

まるで、ロンドンの濃霧そのものが、人の形を成して部屋の隅に凝固したかのようだった。何の予告も、ノックの音も、扉の軋みさえもなかった。ただ、アイリーンが窓辺で夜景の感傷に浸り、エイダが解析機関の最後の調整を終えてコンソールから顔を上げた、そのほんの僅かな静寂の隙間を縫って、彼はそこにいた。


部屋の入り口近く、蝋燭の光が最も届かない影の中に、長身痩躯のシルエットが佇んでいた。濡れたツイードのコートからは、冷たい雨と、ベイカー街の書物の埃の匂いがする。その手には、銃も警察手帳も握られていない。ただ一本の使い古されたバイオリンのケースが、まるで騎士の盾のように、その身の前に抱えられているだけだった。

だが、その影の中から、二つの、あまりに鋭すぎる光が、部屋の中のすべてを―――解析機関の複雑な機構を、壁に貼られたナイチンゲールのカルテを、そして、二人の女神の、驚きに凍りついた魂の奥底までを―――射抜いていた。


シャーロック・ホームズ。

光と、論理の、化身。


「……見事な、オーケストラだ」

静寂を破ったのは、ホームズの、低く、どこか物悲しい響きを帯びた声だった。

「私がこれまで聴いた、いかなる交響曲よりも、複雑で壮大で、そして……恐ろしく美しい」


彼の言葉は、賛辞ではなかった。それは、すべての謎を解き明かした者が、そのあまりに巨大すぎる真相を前にして、畏敬と、そして、かすかな絶望を込めて発する、最終的な診断結果の告知だった。


アイリーンは、瞬時に、女優の仮面を被ろうとした。驚き、歓待、そして、ほんの少しの媚を含んだ、完璧な防御の笑みを。だが、できなかった。ホームズの、そのすべてを見透かした瞳の前では、いかなる嘘も、いかなる演技も、ただの子供の悪戯のように、無力だった。

エイダは、解析機関の緊急防衛プロトコルを起動させようと、指をコンソールへと伸ばした。だが、それよりも早く、ホームズの言葉が彼女の動きを、見えない楔のように打ち付けて縫い止めた。


「無駄だよ、ミス・ラブレス」

ホームズは、静かに言った。エイダが、息をのむ。彼は、自分の名前を知っている。

「君のその、素晴らしい『ヴィクトリア暗号』には、敬意を表する。だが、君たちのシステムが完璧であればあるほど、そのシステムが生み出す『調和』は、この混沌としたロンドンの街では、あまりに不自然な『静寂』として、浮かび上がってくる。私は、犯罪の痕跡を追ったのではない。君たちが消し去った、混沌の、その不自然な不在を、ただ辿ってきただけだ」


彼は、影の中から、ゆっくりと一歩、光の中へと踏み出した。そのやつれた、しかし、知性の炎で燃え盛る顔が、蝋燭の光に照らし出される。

「シティの市場から、パニックという名の不協和音が消えた。フリート街の新聞から、根拠のない扇動という名のノイズが消えた。そして、ホワイトチャペルの土壌からは、疫病という名の、最も醜い死の旋律が消え去った。すべてが、一つの完璧な、しかし、誰にも聞こえないタクトによって指揮されている。私はその指揮者をずっと探していた」


彼は、アイリーンへと、その視線を向けた。

「最初は、君だけだと思った、ミス・アドラー。君の、人の心を惑わす、悪魔的なまでのカリスマ。それが、この狂気の演奏会の、すべての始まりだと。だが、君の音楽は、あまりに情熱的で、官能的すぎる。シティの暴落には、君の署名があった。だが、ホワイトチャペルの奇跡に見られる、あの冷徹で、数学的なまでの効率性には、君の指紋は、なかった」


次に、彼の視線は、エイダへと移った。

「だから、私は、もう一人の存在を仮定した。君の熱い混沌を、完璧な秩序へと変換する、冷たい理性の存在を。システムの脆弱性を突き、情報を書き換える、機械の心を持つ、もう一人の指揮者を。―――それが、君だ、ミス・ラブレス。バベッジの夢の、正統な後継者」


そして、最後に、彼の視線は、壁に貼られた、ナイチンゲールの、あの事務的なメモへと注がれた。

「だが、それでも、パズルの最後のピースが、埋まらなかった。君たちのデュエットは、あまりに自己完結しすぎていた。そこには、個人的な復讐心や、二人だけの美学はあっても、人類全体を救おうとするような、普遍的な『目的』が、欠けていたからだ。その、欠けていた魂を、君たちに与えたのが……」

彼はまるで、そこに第三の人物の幻影を見るかのように、虚空を見つめた。

「……クリミアの天使。統計という名の、新しい神を信仰する、あの、鋼鉄の聖女だ。彼女が、作曲家となり、救済という名の、完璧な楽譜を書き上げた。そして、君たちは、その忠実な、最も優れた演奏者となった。違うかね?」


沈黙。

それは、完全な、そして、否定のしようのない、真実だった。

ホームズは、たった一人で、彼らの神殿の、最も奥深い聖域まで、辿り着いてしまったのだ。


「……それで?」

長い沈黙の後、ようやく言葉を発したのは、アイリーンだった。彼女の声は、震えていたが、それは、恐怖からではなかった。自分たちのすべてを、初めて、完全に理解した人間と対峙する、武者震いだった。

「すべてお見通しというわけね、名探偵。では、どうするおつもり? ここに、スコットランドヤードの警官たちを、呼び寄せるのかしら? 私たちを、法廷で裁く?」


その問いに、ホームズは、静かに、そして、悲しげに、首を振った。

「それができれば、どんなに良かったか」

彼は、バイオリンのケースを、そっと床に置くと、部屋の中央へと、ゆっくりと歩みを進めた。

「だが、君たちを、何の罪で裁けばいい? 『市場を安定させた罪』か? 『不正を暴いた罪』か? それとも、『127人の、赤痢で死ぬはずだった命を救った罪』で、君たちを、絞首台に送ればいいというのか?」


彼の声は、深い苦悩に満ちていた。

「私が信じる『法』は、君たちの『正義』の前では、あまりに無力で、あまりに、時代遅れなのだよ」


「では、なぜ、ここへ来たの?」

今度は、エイダが、問いを発した。その声は鋭く、挑戦的だった。

「私たちのシステムの、非の打ちどころのなさを、称賛するため?」


「違う!」

ホームズの声が、初めて、その鋭さを増した。

「私は、君たちの『結果』を否定しない。だが、その『プロセス』を断じて認めるわけにはいかないからだ!」


彼は、二人の前に立ち、その灰色の瞳で、彼女たちの魂を、真っ直ぐに射抜いた。

「君たちは、神の視点から、人間を、そして、社会を、ただの修正可能な、欠陥だらけの機械だと見なしている。だが、人間は機械ではない!  人間とは、過ちを犯し、愚かな選択をし、非合理な感情に流され、そして、時には、自ら破滅の道を選ぶ、自由を与えられた、不完全な生き物なのだ!  君たちがやっていることは、その、人間が人間であるための最も尊い権利―――『間違う権利』―――を、奪い去る行為だ!」


彼の言葉は、熱を帯び、部屋の空気を震わせた。

「君たちが作り上げた、この、完璧で、合理的で、誰もが幸福になれる世界は、確かに、美しいだろう。だが、それは、人間が自らの意志で選び取った世界ではない。それは、君たちという名の、二人の女神によって、密室で設計され与えられた、ただの、美しく居心地の良い檻でしかないのだ!」


「檻ですって!?」

アイリーンが、激しく、反論した。

「貧困という檻、病という檻、無知という檻! わたくしたちは、人々を、その、本物の檻から、解放しているのよ! あなたの言う『間違う権利』とは、飢え、病み、そして、無意味に死んでいく権利のことなの!? それが、あなたの守ろうとする、人間の尊厳の、正体なの!?」


「そうだ!」

ホームズは、一歩も引かなかった。

「たとえ、その先に、破滅が待っていようとも、自らの意志で、その道を選ぶ自由こそが、人間を、ただの歯車ではなく、人間たらしめている、最後の砦なのだ! 君たちの、その、あまりに優しく、あまりに完璧な独裁は、人々から、その最後の尊厳を、静かに確実に奪い去っていく。君たちの世界ではもはや、英雄も聖人も、そして、悪党さえも生まれることはないだろう。そこにあるのは、ただ、幸福で満ち足りた家畜の群れだけだ!」


二つの正義が、激しく、衝突した。

結果の正義と、過程の正義。

統計的な幸福と、個人の(愚行すら含んだ)自由。

どちらもが正しく、そしてどちらもが譲れない、絶対的な価値観の対立だった。


部屋に、再び、張り詰めた沈黙が戻る。

エイダがその沈黙を、決定的な一言で、打ち破った。

「……では、代案を」

彼女の声は、冷たく、そして、純粋な、問いだった。

「あなたの言う、その不完全で愚かな、しかし尊厳ある人間たちが作り上げた、旧来のシステムが、これまで何を成し遂げてきたというのですか、ホームズさん?  戦争、飢餓、搾取、疫病……。あなたの守ろうとする『自由』が、これまでどれだけの無意味な死と絶望を生み出してきたというのですか?  私たちは、神を気取っているのではない。ただ、あなた方の神があまりに無能であまりに役立たずだったから、やむを得ず、その尻拭いをしているだけです」


その、あまりに冷徹で、あまりに正確な指摘に、ホームズは言葉を失った。

彼は何も言い返すことができなかった。

なぜなら、それは彼自身が、この霧深きロンドンで、毎日のように目の当たりにしてきた、否定のしようのない真実だったからだ。

彼の信じる法も正義も、あまりに多くの人間を救うことができずにいた。


ホーム-ズは、ゆっくりと天を仰いだ。そして、深い深いため息をついた。

それは、敗北を認める、ため息だったのかもしれない。

あるいは、新しい時代の複雑すぎる真実を、ようやく受け入れた旧時代の名探偵としての、ため息だったのかもしれない。


彼は、床に置いた、バイオリンのケースへと、視線を落とした。

そして、まるで長年の友人に語りかけるように、静かに呟いた。


「……君たちの音楽は、まだ私には理解できない」

彼の声は、怒りも非難も含んでいなかった。ただ深い知的な疲労と、そして、かすかな寂寥感だけがそこにあった。

「だが、君たちの音楽が、この街の多くの人々の涙を拭っているという事実もまた、私には、否定することができない」


彼は、踵を返し、来た時と同じように、静かに、影の中へとその身を戻していく。

「……逮捕も告発もしない」

その声は、もはや、二人に向けられたものではなかった。

彼自身に、そして、彼が信じてきた旧い世界そのものに別れを告げる、独白のようだった。


「だが、忘れるな。光は常に見ている。君たちという、あまりに巨大で、あまりに美しいこの影を。君たちの音楽が、いつか調和ではなく、ただの雑音になったその時には……」


彼は、そこで、言葉を切った。

そして、その最後の言葉を、部屋に残すことなく、音もなく、来た時と同じように、消え去っていた。

まるで、最初から、誰もいなかったかのように。


部屋には、ただ、二人の女神と、彼女たちの静かに脈打つ機械の心臓だけが、残された。

対話は、終わった。

勝者も、敗者も、いなかった。

ただ、光と影が、互いの存在を認め合い、そして、それぞれの決して交わることのない役割を受け入れただけだった。


アイリーンは、エイダの隣に寄り添い、彼女の冷たい手をそっと握った。

エイダもまた、その手を優しく握り返した。


(……聞こえたかしら、エイダ)

(うん)

(あれは敗北宣言なんかじゃないわ)

(そうだね)

(あれは、宣戦布告よ。シャーロック・ホームズという、たった一人の完璧な聴衆からの、『お前たちの音楽が堕落するのを、永遠に見張り続けてやる』という呪いであり、そして……)


(……祝福だね)


二人の思考が、完全に、一つになった。

ホームズは、敵であることをやめた。

そして、それ以上に恐ろしく、そして何よりも信頼できる、監査人となったのだ。

ホームズという絶対的な論理の光が、自分たちという影を、常に見つめ続けてくれる限り、自分たちは決して道を踏み外すことはないだろう。


二人は、顔を見合わせると、静かに、そして、同時に、微笑んだ。

それは、嵐の前の、最後の静けさだったのかもしれない。

あるいは、本当の意味で新しい世界が始まった、その最初の夜明けだったのかもしれない。


部屋の隅で、ホームズが残していった雨の匂いがまだ、微かに漂っていた。

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