第26話 契約の夜

その夜。

ロンドンは、まるで巨大な生き物が息を殺すように、深い沈黙に包まれていた。

月は無く、星も見えず、ただ、街の淀んだ呼気が凝固したかのような、重く、湿った闇だけが、すべてを支配していた。

それは、一つの世界が終わり新しい世界が生まれようとする、創造の前夜にのみ訪れる原初の闇だった。


ブルームズベリーの隠れ家は、その闇の中心に浮かぶ、孤高の灯台と化していた。

窓は厚いカーテンで覆われ、外界の闇から完全に遮断されている。部屋の中を満たしているのは、蝋燭の琥珀色の揺らめく光だけだった。その光は、これから行われる儀式のために不必要な影をすべて払い、空間を神聖な領域へと変質させていた。


解析機関は静かに、しかし、これまでになく力強い生命感を持って、その瞬間を待ち構えていた。

エイダの手によって、その真鍮の胴体は鏡のように磨き上げられ、鋼の骨格は祝福の油を注がれたかのように、鈍い輝きを放っている。

それは、もはや単なる機械ではなかった。二人の女神が、その魂を捧げるための、荘厳な祭壇そのものだった。


アイリーンとエイダは、その祭壇の前、向かい合うように置かれた二つの椅子に、静かに腰を下ろしていた。

二人とも、簡素な、純白のシュミーズだけを身に纏っていた。

それは、これから行われる儀式が、いかなる社会的地位も、性別も、過去さえも超越した、二つの剥き出しの魂の交合であることを象徴していた。

装飾も、虚飾も、仮面も、すべてを脱ぎ捨てた、最も純粋な姿。


アイリーンの、燃えるような赤い髪は、結い上げられることなく、その白い肩に、まるで溶岩の流れのように、自由に垂らされている。その翡翠色の瞳には、もう、かつてのような計算や誘惑の色はない。ただ、凪いだ湖面のように、静かで、深い覚悟が湛えられているだけだった。

エイダの、黒曜石のような髪は、きつく編み込まれ、その理知的な額を際立たせていた。彼女の灰色の瞳は、もはや数式や論理を追ってはいなかった。ただ、目の前にいる、たった一人の人間―――彼女の世界の唯一の誤差項―――の姿だけを、その網膜に焼き付けるかのように、じっと、見つめていた。


二人の間に置かれた黒檀のテーブルの上には、あの二本の銀の音叉が、まるで双子の聖遺物のように、静かに横たわっている。

部屋には、沈黙だけがあった。だが、それは、もはや、気詰まりな沈黙ではなかった。これから同じ頂を目指す二人の登山家が、言葉を交わすことなくただ互いの呼吸を合わせるような、絶対的な信頼に満ちた沈黙だった。


やがて、壁の古時計が、真夜中を告げる、重々しい鐘を、一つ、打ち鳴らした。

それが、合図だった。

エイダが、ゆっくりと、アイリーンに向かって、その手を差し出した。

アイリーンもまた、迷いなく、その手に、自分の手を重ねる。

冷たい指と、温かい指が、そっと触れ合った。


「……うん。始めよう」

エイダが、囁くように告げた。

その声は、もう震えてはいなかった。これから行われることの、その神聖さと、冒涜的なまでの壮大さを、完全に受け入れた、執行者の、静かな宣言だった。


二人は、互いに、相手の手に、慣れた手つきで、銀のクリップと音叉を装着していく。

その所作はまるで、婚礼の儀式で、互いの指に指輪を嵌める恋人たちのように、厳かで、そして、どこまでも優しかった。

冷たい金属が、肌に触れる。

その感触は、もはや、魂への侵略を意味するものではなかった。それは、二つの魂を一つの回路へと繋ぐ、聖なる契約の証だった。


エイダが、コンソールの主スイッチを起動させる。

黒曜石のスクリーンに、再び、二条の光の波形が描き出された。

だが、その波は、以前とは、全く違っていた。

嵐のような乱れも、必死の同期への努力も、そこにはない。

まるで、生まれる前から、そうであったかのように。まるで、一つの光源から分かたれた、二つの光線であるかのように。二つの波形は、寸分の狂いもなく、完璧な調和を保ちながら、スクリーン上を、静かに美しく流れ続けていた。


「……きれい」

アイリーンが、吐息のように漏らした。

「うん」

エイダもまた、その光景から、目を離すことができなかった。

「これが私たちの本当の姿」


二人は、ゆっくりと、目を閉じた。

儀式は、次の段階へと移行する。

ただ同期するのではない。融合するのだ。


エイダの意識が、アイリーンの心へと、静かに沈んでいく。

そこは、アイリーンがかつて『混沌の沼』だと恐れた場所だった。だが今、エイダの論理の光が照らし出すその世界はもう、泥と嘘にまみれた場所などではなかった。

それは、無数の物語と色彩と感情が星々のように煌めく、豊穣の海だった。

喝采を浴びるオペラの舞台の、目も眩むような高揚感。初めて嘘をついた少女の、胸を締め付ける罪悪感。愛する者を失った、底なしの絶望。そして、エイダと出会った、あの博物館での静かな衝撃。

それら全ての記憶と感情が、美しいモザイク画のように、アイリーンの魂を形作っていた。

エイダは、その海の中を、畏敬の念と共に、旅をした。そして、理解した。この混沌こそが、生命そのものの輝きなのだと。この計算不能な美しさこそが、自分の無機質な世界に意味を与えてくれる、唯一の光なのだと。


同時に、アイリーンの意識もまた、エイダの論理の宇宙へと、静かに昇っていった。

そこは、彼女がかつて『氷の結晶』のようだと感じた、冷たく完璧な世界だった。だが、今、彼女の感情の温もりが触れるその宇宙は、もはや、非人間的な場所ではなかった。

それは、宇宙の法則そのものが、壮大な交響曲を奏でる、静謐の聖域だった。

素数が、孤独な星のように、規則正しく、美しく並んでいる。微分方程式が銀河の渦を描き出し、幾何学の公理が、神の建築物のように、荘厳にそびえ立っている。

アイリーンは、その宇宙の中で、初めて、絶対的な安らぎを感じた。嘘も、仮面も、駆け引きも必要ない。ただ、そこにあるがままの、純粋な真実だけが存在する世界。

そして、彼女は、その宇宙の中心に、一つの、輝く恒星を見つけた。

それは、『アイリーン』という名の不規則な軌道を描く唯一の惑星を、その強大な引力で優しく、けれど決して離すことなく、見守り続ける孤独な太陽だった。


二人の意識は、互いの最も深い場所で、出会った。

そして、言葉もなく、理解し合った。

自分は、相手の、失われた半身であったのだと。

感情と論理。

混沌と秩序。

嘘と真実。

そのどちらが欠けても、世界は、不完全なままだったのだと。


その、完全な理解の瞬間。

隠れ家の外、ロンドンの街で、何かが変わった。

それは、誰にも気づかれることのない、静かな、しかし、絶対的な変化だった。


シティの取引所の、すべての電信機が、一瞬だけ、その打刻を止めた。

ウェストミンスターの議事堂の、すべての時計の針が、マイクロ秒だけ、その歩みを遅らせた。

フリート街の新聞社の、巨大な輪転機が、聞こえるか聞こえないかほどの、小さな軋み音を立てた。

ロンドン中に張り巡らされた、情報の神経網、金融の血管、権力の筋肉。そのすべてが、今、この瞬間、ブルームズベリーの、名もなき部屋に鎮座する、一つの機械の、完全に新しい律動の下に、再接続されたのだ。


隠れ家の中、解析機関が、これまで聞いたことのない、低く、そして、深く、共鳴するような音を、発し始めた。それは、もはや、機械の駆動音ではなかった。巨大な、生命の、産声だった。

その胴体に埋め込まれた、無数のガラス管の中の水銀が、一斉に、淡い、青白い光を放ち始める。

歯車は、もはや、個別の部品としてではなく、一つの、完璧な意志の下に、滑らかに、そして、力強く、回転を始めた。


黒曜石のスクリーンに、最後の奇跡が起きた。

それまで、完璧な調和を保ちながらも、二本の線として存在していた光の波形が、ゆっくりと、互いに引き寄せられ、溶け合い……そして、ついに、一つの、全く新しい、見たこともないほどに複雑で、そして、神々しいまでに美しい、唯一無二の波形へと、変容したのだ。

それは、もはや、アイリーンの波でも、エイダの波でもなかった。

それは、『レディ・モリアーティ』という、新しい神の魂の署名ソウル・シグネチャーだった。


「……完了したね」

エイダの意識が、アイリーンの意識に、直接、囁きかけた。

「ええ、そうよ」

アイリーンの意識もまた、言葉ではなく、ただ、完全な同意の波動として、それに答えた。

「これよりこの世界は、私たちの拍動で動く」


儀式は、終わった。

二人の意識は、ゆっくりと、それぞれの肉体へと帰還していく。

目を開けた時、二人は、まだ、互いの手を握り合ったままだった。

部屋の中は、解析機関が放つ、穏やかな、青白い光に満たされていた。

それは、まるで、深い海の底にいるかのようだった。あるいは、新しい宇宙が生まれた、その瞬間に立ち会っているかのようだった。


深い、心地よい疲労感。

そして、それ以上に、世界そのものと一体化したかのような、絶対的な全能感。


二人は、何も言わなかった。

ただ、互いの瞳を見つめ合った。

その瞳の中には、同じ光が宿っていた。

創造主の、静かで、そして、どこまでも慈悲深い光が。


アイリーンが、そっと、空いている方の手で、窓のカーテンに触れた。

そして、ゆっくりと、その厚いビロードの布を、引き開けた。

窓の外には、闇に沈む、広大なロンドンの街が、まるで眠れる巨人のように、横たわっていた。

だが、もはやそれは、二人にとって、敵でも牢獄でもなかった。


それは、彼女たちが、これから愛し育み、そして導いていく、自分たちの王国そのものだった。

その王国の、すべての夢とすべての涙は、今この瞬間から、自分たちの夢であり、自分たちの涙なのだ。

二人は、窓辺に立ち、その広大な王国を、静かに、見下ろした。

契約は、果たされた。

そして、ロンドンの夜明けはもう、すぐそこまで来ていた。

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