第18話 同期の不協和音

時は、その歩みを止めた。

あるいは、ブルームズベリーの隠れ家だけが、世界の時間から切り離され、永遠の零時を彷徨っているかのようだった。


アイリーン・アドラーがその心を固く閉ざしてから、三日。太陽は昇り、沈み、窓の外ではいつも通りのロンドンの日常が繰り返されているはずだったが、この部屋の中だけは、絶対零度の静寂が支配する、凍てついた小宇宙と化していた。


その静寂は、死のそれだった。ヴィクトリア暗号という、二人の魂の共鳴によってのみ生命を維持するシステムが、その鼓動を完全に停止したことによってもたらされた、冷たい死。部屋の中央に鎮座する解析機関は、もはや思考する神ではなく、ただの真鍮と鋼でできた巨大な墓標に過ぎなかった。埃が、その表面に薄い弔いのヴェールをかけ始めている。


ソファの上、毛布にくるまったアイリーンの小さな塊は、三日前からほとんどその形を変えていない。時折、エイダが無理やり置いた紅茶のカップが空になり、ビスケットの皿が手付かずのまま下げられるだけ。彼女が眠っているのか、それともただ覚醒を拒絶しているのか、エイダには判別できなかった。それは、システムの電源が落ちているのか、それともスリープモードに入っているのか、外部からはうかがい知ることのできない、完全なシャットダウン状態だった。


エイダ・ラブレスは、その死んだ世界の、唯一のだった。

そして、その孤独は、彼女がこれまで愛してきた論理的な孤独とは、全く質の異なる、耐え難い重さを持っていた。

彼女は、眠ることも、食べることも忘れ、まるで自罰的な巡礼者のように、沈黙した解析機関の周りを、ただひたすらに歩き回っていた。その手には、油を染み込ませた布や、精密な調整器具が握られている。彼女は、機械のメンテナンスをしているふりをしていた。歯車の一つ一つを磨き、配線の接続を確かめ、真空管の曇りを拭う。その無意味な反復作業だけが、今、彼女の思考が完全に崩壊するのを、かろうじて食い止めていた。


(問題の切り分け(アイソレーション)が必要)


彼女の頭脳は、極限状態にあっても、なお、プログラマーとしての思考を止められずにいた。


(システムクラッシュの原因は、変数『アイリーン』の、予測不能な状態変化にある。だったら彼女を安定した状態に戻すための、最適なアルゴリズムを構築し、実行しなくちゃ)


彼女は、アイリーンを「再起動」させるための、幾つかのコマンドを試みた。

最初の試みは、論理的な説得だった。彼女は、ソファの背後から、静かに、しかし明瞭に語りかけた。


「アイリーン。あなたの行動は、非合理的よ。私たちの計画は、今、重大な危機に瀕しているわ。あなたの感情的な反応が、私たち双方の破滅を招く確率を、指数関数的に増大させている。システムを再稼働させるため、あなたの協力を要請するわ」


返事は、なかった。毛布の塊は、ピクリとも動かない。

コマンドは、拒絶された。いや、そもそも、OSが彼女の言語を認識していないかのようだった。


次の試みは、過去のデータに基づいた、感情的なアプローチだった。

彼女は、アイリーンが好きだったキーツの詩集を古書店で探し出し、彼女の枕元にそっと置いた。彼女が好んで飲んでいた、セイロンの茶葉にベルガモットの香りをつけた特注の紅茶を淹れ、その香りで部屋を満たした。彼女が美しいと言った、一輪の白い薔薇を、新しいものに差し替えた。

それらは全て、過去の成功体験から導き出された、最も成功確率の高いはずのコマンドだった。

だが、結果は、変わらなかった。詩集は開かれず、紅茶は冷め、薔薇は、誰に見られることもなく、静かに萎れていくだけだった。


エイダは、自分の無力さに、打ちのめされていた。彼女は、世界の構造を数式で理解し、その未来さえも計算できると信じていた。だが、たった一人の、傷ついた人間の心の前で、彼女の知性は、原始的な石器ほどにも役に立たなかった。

アイリーンの心は、鍵のかかったブラックボックスだった。そして、その鍵は、論理では決して開けることのできない、全く別の次元に存在しているようだった。


(なぜ……? なぜ、理解できないの?)


彼女は、解析機関の冷たい胴体に額を押し付け、目を閉じた。

(私の計算に、何の変数が欠けているの? 彼女の涙の塩分濃度? その溜息の周波数? それとも、彼女の沈黙が持つ、情報量(エントロピー)……?)


その時だった。

沈黙していたはずの解析機関の、その最も深い場所から、これまで聞いたことのない、微かな、しかし鋭い警告音が、鳴り響いた。

ピ……ピ……ピ……。

それは、システムの心臓部であるクロノメーターに直結された、緊急用の警告ブザーだった。エイダが、外部からの、最も危険なレベルの侵入を探知した場合にのみ作動するよう、秘密裏に組み込んでおいた、最後の防衛ライン。


エイダの全身の血が、凍りついた。

彼女は、弾かれたように顔を上げ、補助用の小さなモニタースクリーンを起動させた。そこには、ロンドンの情報網を示す、簡略化された地図が表示されている。そして、その地図の、いくつかのノードが、赤く、不規則に点滅していた。


「……嘘だ」


彼女の唇から、かすれた声が漏れた。

誰かが、ヴィクトリア暗号のネットワークに、介入してきている。

二人が不在の間に、留守の城に、敵が侵入し始めたのだ。

点滅しているのは、陸軍省の通信記録を傍受するノードと、シティの株式情報を監視するノード。どちらも、システムの根幹を成す、最重要拠点だった。

敵は、ただのハッカーではない。国家レベルの、高度な技術と権限を持つ組織。あるいは……。


(ホームズ……? いや、彼のやり方ではない。これは、もっと組織的で、無慈悲で、機械的な攻撃だ)


敵は、二人が植え付けた偽情報を、さらに巧妙な偽情報で上書きし、混乱を増幅させていた。二人が支援していたダベンポート製薬の株価が、正体不明の大口の売り注文によって、暴落を始めている。ナイチンゲールの病院に、再び、石炭酸が届かなくなるかもしれない。

自分たちが、善意と悪意の果てに、かろうじて築き上げた、脆い秩序のバランスが、外部からの力によって、乱暴に破壊されようとしていた。


このままでは、すべてが暴かれる。

二人の存在、この隠れ家の場所、そして、レディ・モリアーティという神話の、あまりに人間的な、脆い正体が。


エイダは、ソファで眠るアイリーンを振り返った。

言わなければならない。この危機を。そして、協力を求めなければならない。

だが、どうやって?

「システムが攻撃されている」と言えば、彼女はまた、「あなたの機械の話でしょう?」と心を閉ざすだろう。

「私たち、殺されるかもしれない」と脅せば、彼女の繊細な精神は、完全に壊れてしまうかもしれない。


言葉が、見つからない。

論理的な正解が、どこにもない。

エイダは、自分の頭脳が、ただの役立たずな計算機に過ぎないことを、今、骨の髄から思い知らされていた。


ピ、ピ、ピ、ピ……!

警告音の間隔が、短くなる。敵の攻撃が、さらに激しさを増している。

もはや、隠れ家の場所そのものを特定するための、直接的な探査パケットが、ネットワーク上を飛び交い始めていた。それは、獲物の匂いを嗅ぎつけた猟犬の群れが、草むらをかき分けて突進してくるような、圧倒的なプレッシャーだった。

もう、時間がない。数時間、いや、数分後には、この扉が破られるかもしれない。


絶望が、エイダの心を、黒いインクのように染め上げていく。

万策尽きた。

そう思った、その瞬間。

彼女の視線が、部屋の隅に置かれた、あの黒檀のテーブルに吸い寄せられた。

テーブルの上には、あの夜、アイリーンの魂と同期した、二本の銀の音叉が、まるで忘れられた遺物のように、静かに置かれていた。


(……言葉が、駄目なら)


エイダの脳裏に、一つの、あまりに非論理的で、狂気じみた考えが、閃光のようにきらめいた。

それは、彼女のプライドも、科学的な正しさも、すべてを捨て去らなければ実行できない、最後の賭けだった。

言葉で、論理で、彼女の心を「説得」するのではない。

直接、彼女の魂に、こちらの魂を「接続」するのだ。


彼女は決意した。

その灰色の瞳に初めて、計算ではない純粋な意志の光が宿った。

エイダは震える手で、そのうちの一本の音叉を、そっと手に取った。ひんやりとした、銀の感触。それは、彼女たちの契約の証であり、そして今や、唯一残された希望の鍵だった。


警告音が、狂った心臓のように、部屋に鳴り響いている。

エイダは、その音叉を握りしめ、まるで初めて獲物に向かう肉食獣のように、静かに、しかし確実な足取りで、毛布の中で眠るアイリーンへと、一歩、また一歩と、近づいていった。

不協和音は、最高潮に達しようとしていた。

そして、その不協和音を調律できるのは、もはや、二つの魂が奏でる、究極のハーモニーしかなかった。

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