第12話 ナイチンゲールの視線

 クリミアの戦場で硝煙と壊疽の匂いにその身を浸したフローレンス・ナイチンゲールにとって、ロンドンの霧は、もはや感傷を誘う詩的な装置ではなかった。

 それは、貧困と病という目に見えない敵が潜む、巨大な培養皿を覆う蓋のように思えた。彼女が今いるセント・トーマス病院の院長室は、その戦場の、新たな最前線司令部だった。


 部屋には、甘ったるい花の香りも、豪華な調度品もない。あるのは、壁一面を埋め尽くす、数字とグラフがびっしりと書き込まれた黒板。そして、石炭ストーブの無機質な暖かさと、消毒液として使われる石炭酸(carbolic acid)の、清潔で、しかしどこか死を連想させる鋭い匂いだけだった。


 ナイチンゲールは、その黒板の前に佇んでいた。ランプの貴婦人という、感傷的な称号とは裏腹に、彼女の姿は、敵の陣形を分析する老将軍のそれに近かった。灰色のドレスに身を包み、厳しく引き結ばれた唇。その目は、個々の患者の苦しみではなく、その苦しみが描き出す、巨大な統計的パターンだけを見つめていた。


「……あり得ません」


 彼女の隣で、若い助手の看護師アグネスが、信じられないといった声で呟いた。彼女の指が示すのは、黒板に描かれた一本の、滑らかに下降していく曲線。ロンドンの公立病院における、術後感染症による死亡率のグラフだった。

「ここ三ヶ月、この数字は奇跡としか言いようがありません。特に、先月からの下落率は、まるで神が介入されたかのようです」


 アグネスの声は、純粋な信仰心に震えていた。

 だが、ナイチンゲールの目は、神ではなく、もっと地上的な、しかし神にも匹敵する知性の介入を疑っていた。


「神は、サイコロを振りません、アグネス」

 ナイチンゲールは、グラフから目を離さずに、静かに、しかしきっぱりと言った。「神が定めたもうたのは、原因と結果という、揺るぎない法則だけです。そして、この『奇跡』にも、必ずや原因があるはずです」


 彼女の指が、グラフの特定の点を、トン、と叩いた。

「問題は、この急激な改善が、我々の努力の結果ではないということです。衛生環境の改善は進めていますが、その効果はもっと緩やかに現れるはず。これは、外的要因による、あまりに不自然な変化です」


 彼女の言う「外的要因」とは、医薬品の供給だった。特に、ジョゼフ・リスターがその効果を証明して以来、需要が爆発的に増加した石炭酸。そして、患者の苦痛を和らげるアヘンチンキとモルヒネ。これらの必需品は、常に供給が不安定で、商社の気まぐれな値付けや輸送の遅延によって、頻繁に病院の棚から姿を消した。その結果、救えるはずの命が、不衛生な環境と耐え難い苦痛の中で失われていく。それが、これまでの「現実」という名の、冷たい法則だった。


 だが、ここ数ヶ月、その法則が、まるで捻じ曲げられたかのように、安定していたのだ。


「まるで、ロンドンの血管を流れる血液が、目に見えない心臓によって、完璧に制御されているかのようです」ナイチンゲールは、独り言のように呟いた。

「素晴らしいことではありませんか」

「ええ、素晴らしい。しかし、アグネス、考えてみなさい。もし、その心臓が、気まぐれに鼓動を止めたら? 我々がこの『奇跡』に慣れきってしまった時、突然、供給が絶たれたら? その時、我々は、以前よりもさらに多くの命を失うことになる。私は、正体の知れない善意ほど、信用ならないものはないと思っています」


 彼女は、黒板から離れ、部屋の中央に置かれた巨大なオーク材のデスクへと向かった。その上には、ロンドンの地図が広げられ、その周りには、おびただしい数の書類の山が築かれていた。医薬品の在庫記録、輸送船の入港記録、取引所の株価変動を示す新聞の切り抜き、そして、彼女自身が編み出した、円グラフに似た『極座標面積図』。


 彼女の細い指が、そのデータの山を、熟練の地質学者が地層を読むように、丹念にめくっていく。

「見てください。この『ダベンポート製薬』の株価の動きを。石炭酸の価格が不自然に安定し始めた時期と、この会社の株価が、奇妙な買い支えによって守られている時期が、完全に一致します」

 彼女は、一本の線を、株価のグラフと、死亡率のグラフの間に引いた。二つの無関係に見えるデータが、一本の線によって、因果関係を帯び始める。


「そして、この日」彼女の指が、ある一点を指し示した。「この日、シティではフランスからの絹織物船が遅れるという、馬鹿げた偽情報が流れました。ですが、その混乱の影で、ダベンポート製薬のライバル社が、奇妙な買収の噂を流され、一時的に取引停止に追い込まれている。その結果、ダベンポート社は、ロンドン中の病院への石炭酸の供給権を、独占的に確保することに成功した」


 アグネスは、もはや口を挟むことができなかった。ナイチンゲールの言葉は、個々の事象を、冷たい論理の糸で縫い合わせ、一つの巨大なタペストリーを織り上げていく。そこに描かれているのは、悪魔のように狡猾な市場操作と、天使のように慈悲深い人命救助が、矛盾したままに同居する、不可解な紋様だった。


「この介入者は、誰かの命を救うために、別の誰かの人生を破滅させることを、何とも思っていない」

 ナイチンゲールの声は、裁きを下す預言者のように、静かで、重かった。

「これは、個人の利益のための犯罪ではない。もっと大きな、恐ろしい思想に基づいた『事業』です。統計データに基づき、最小の犠牲で、最大の救済を達成しようとする……。まるで、神の視点から、ロンドンという名の患者を治療しようとしているかのようです」


 彼女は立ち上がり、壁に貼られたロンドンの地図の前に立った。そして、赤いインクをつけたペンで、ダベンポート製薬の本社、取引が停止されたライバル社、そして、最も顕著に死亡率が改善した公立病院の位置に、次々と印をつけていった。

 印は、蜘蛛の巣のように、ロンドンの街に張り巡らされていく。


 ナイチンゲールは、その赤い点の集合体を、腕を組んで、じっと見つめた。

 それは、病巣の位置を示す地図だった。あるいは、奇跡が起きた聖地を示す地図だったのかもしれない。

 彼女には、そのどちらであるか、まだ判断がつかなかった。


「……ホームズ氏のような探偵なら、これを『犯罪』の証拠として見るのでしょう」

 彼女は、静かに呟いた。

「ですが、私の目には、これは、新しい『摂理』が生まれようとしている徴候のようにも見える。歪で、危険で、しかし、無視することのできない、新しい神の設計図」


 彼女の視線は、赤い点が奇妙に集中している、ある一点―――シティでも、ウェストミンスターでもない、学術と文化の街、ブルームズベリー地区へと、吸い寄せられていた。

 まだ、確証はない。だが、彼女の、数字によって鍛え上げられた直感が、告げていた。

 この都市の、新しい心臓は、そこに隠されている、と。


 彼女は、ペンを置くと、窓の外に広がる、灰色のロンドンの空を見上げた。

 その見えざる「摂理」に向かって、彼女は、心の中で静かに、しかし強く、問いかけた。


(あなたはいったい、何者です? あなたが救う命と、あなたが踏み躙る魂と……その貸借対照表は、本当に、プラスだと断言できるのですか?)


 その問いに、答えはなかった。

 ただ、病院の廊下から、遠く、患者の苦しそうな咳の音だけが、聞こえてきていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る