第5話 共犯の設計図

 アイリーン・アドラーがエイダ・ラブレスの孤独な王国を訪れたのは、博物館での邂逅から三日後の、月さえも霧に姿を隠した夜だった。

 予告も、ノックの音もなく、彼女は現れた。まるで、エイダの思考が生み出した幻影が、扉という物理法則を無視して実体化したかのように。


 エイダは、解析機関の前に座り、呆然と一枚の穿孔カードを見つめていた。

 それは、あの日アイリーンが言った「ハノーヴァー王家の婚約」という変数を仮に入力し、機械が弾き出したシミュレーションの結果だった。

 結果は、現実の市場が示した動きと、不気味なほど正確に一致していた。論理の機械が、非論理(ゴシップ)を組み込むことで、初めて現実を正確に模倣したのだ。それは、彼女の信仰を根底から揺るがす、冒涜的な証明だった。


「美しいでしょう? あなたの機械」


 その声に、エイダは弾かれたように顔を上げた。部屋の入り口に、アイリーンが佇んでいた。今宵の彼女は、夜の闇に溶け込むような、深い森色のドレスを纏っている。その手には、何も持っていない。彼女の武器は、その存在そのものだった。


「……どうやって入ってきたの?」


 エイダの声は、驚きよりも先に、自らの領域を侵された獣のような低い警戒心を含んでいた。


「鍵を開けたのよ。簡単なことだわ」

 アイリーンは微笑み、ゆっくりと部屋の中へ歩みを進めた。

「物理的な鍵ではないわ。あなたの心の扉の、ね。あなたは、ずっと誰かがこの数式を理解してくれるのを待っていた。違うかしら?」


 アイリーンは、エイダの返事を待たずに、巨大な解析機関へと近づいた。彼女は、畏れもせず、その冷たい真鍮の歯車に、白い手袋をはめた指先でそっと触れた。


「眠れる真鍮の神様。世界を計算する力を持っているのに、この部屋から一歩も出られない。可哀想に」

 彼女は、機械にではなく、エイダに向かって囁いた。

「あなたは、この神様に心臓を与えた。でも、血を流してあげるのを忘れているわ。現実という名の、熱い血を」

「世界は、論理で動くべきだよ」

 エイダは、自分に言い聞かせるように反論した。

「感情は、システムの安定性を損なう欠陥(フロー)に過ぎないもの」

「欠陥ですって?」

 アイリーンは、心底おかしそうに喉を鳴らした。

「いいえ、エイダ。欠陥は、あなたがまだ使い方を知らない機能のことよ。わたくしたちは、その欠陥を修正したりしない。その欠陥そのものを、この機械の新しい燃料にするの」


 その言葉は、雷光のようにエイダの脳を撃ち抜いた。感情を排除するのではない。感情を、エネルギー源としてシステムに組み込む。それは、コペルニクス的転回だった。これまでノイズとして切り捨ててきたすべてが、意味のあるデータとして立ち上がってくる。


 アイリーンは、エイダのデスクに歩み寄り、そこに置かれていたシミュレーション結果のカードを指先で弾いた。


「これは、ほんの始まりに過ぎないわ。考えてみて。ロンドンの隅々まで、この機械の神経を張り巡らせるの。電信局、取引所、新聞社、果ては貴族の寝室まで……。すべての情報を、リアルタイムでこの心臓部に集める」


 彼女の目は、狂信者のように、それでいてどこまでも冷静に輝いていた。


「そして、集めた情報を解析し、次の手を打つのよ。ある株を暴落させるための、小さな噂。政敵を失脚させるための、絶妙なタイミングのスキャンダル。戦争を回避するための、偽りの外交電報。それは、もはや市場操作や陰謀ではないわ。ロンドンという巨大な生命体の、神経系そのものを設計し、制御することよ」


 エイダは、息を飲んだ。彼女の頭脳は、アイリーンの言葉を、恐ろしい速度で具体的なシステム設計図へと変換していく。無数の情報ノード、それらを繋ぐ通信経路、データの暗号化プロトコル、そして、そのすべてを統括する中央解析機関……。

 それは、彼女が夢見てきた、世界の論理的再構築。だが、アイリーンの設計図は、もっと有機的で、ずっと残酷で、そして何よりも、生々しく脈打っていた。


「あなたの知性で、世界を動かすのよ」


 アイリーンは、最後の一撃を放つように、静かに、しかし抗いがたい力強さで言った。


「霧とガス灯に隠された、このロンドンの本当の支配者になるの。わたくしと、あなたで。二人でなければ、この神様は永遠に目覚めない」


 沈黙が、部屋を支配した。解析機関の、時折響く冷却水の微かな音が、まるで巨人の寝息のように聞こえる。

 エイダは、ゆっくりと立ち上がった。彼女はアイリーンの目を見つめ返した。その瞳の奥には、もはや警戒心はなかった。あるのは、自分と同じ知性を持つ存在に初めて出会えたことへの、静かな戦慄と、抗いがたい歓喜だった。


 彼女は、何も言わなかった。ただ、製図用の大きな羊皮紙が広げられたテーブルへと歩み寄り、一本の羽根ペンをインクに浸した。そして、躊躇うことなく、その白い平面に、一本の線を引いた。それは、新しい世界の、最初の骨格だった。


 その線から、エイダの指は魔法のように動き始めた。中央に解析機関を表す複雑な円を描き、そこから放射状に伸びる無数のノードを配置していく。彼女の思考が、インクの染みとなって、現実の世界に形を成していく。


 アイリーンは、その隣に静かに立った。彼女は、エイダが描いた無機質な円の一つを、指でそっと示した。


「ここのノードは、機械では駄目よ」

「……なぜ」

「ここは、陸軍省の通信司令室。ここの責任者、マクファーソン大佐は、安物のウイスキーと、赤毛の若い踊り子に目がないの。だから、このノードは機械ではなくて、その踊り子にするべきだわ。彼女のさえずりが、どんな暗号よりも正確に、大佐の金庫を開ける鍵になる」


 エイダのペンが、一瞬止まった。そして、彼女は頷き、そのノードの横に、機械の記号ではなく、小さく『踊り子』と書き加えた。

 論理が、構造を組み上げる。

 感情が、その構造に、血を通わせる。

 完璧な共犯関係が生まれた瞬間だった。


 夜が更けるのも忘れ、二人は羊皮紙の上に、世界の新しい神経網を描き続けた。

 一人は数式と記号で、もう一人は人の名と欲望で。蝋燭の光に照らされた二つの頭脳は、もはや別々の存在ではなかった。

 そうして彼女たちは、という、一つの思考する精神と化していた。


 部屋の壁には、二人の影が寄り添い、揺らめき、やがて一つに重なっていた。

 それは、これからロンドンを覆うことになる、巨大で優雅で美しい、影の誕生を告げていた。

 静かに眠る真鍮の神は、主(あるじ)たちの契約を、沈黙のうちに祝福しているかのようだった。

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