聖女の背徳と贖罪— 祭壇の上で捧げた、最も清らかなる罪 —
舞夢宜人
第1話 罪悪感の種、聖女と悪癖の邂逅
コンクリートの打ちっぱなしの壁は、まるで墓標のように冷たかった。
黒須遼太は、がらんとしたリビングの中央で、ただ一人、虚空を見つめていた。窓の外で降り始めた雨が、灰色の景色をさらに色褪せさせている。それはまるで、遼太自身の心の風景を映し出しているかのようだった。数ヶ月前までこの部屋を満たしていた、甘く背徳的な熱気はもうどこにもない。残っているのは、吸い殻の山が作る無機質なオブジェと、底なしの絶望だけだった。
心の中で、何度も彼女の名前を呼ぶ。美咲、と。しかし、その声に応える者はもういない。彼女はこの世を去った。遼太の歪んだ欲望の、最も残酷な犠牲者として。脳裏に焼き付いて離れないのは、警察から連絡を受けた時の、親友だった男の、感情の抜け落ちた声。そして、その数週間前に見た、美咲の最後の表情。信じていたもの全てに裏切られた、か弱く、壊れそうな笑顔だった。
全ての始まりは、親友である和也の、些細な一言だった。「美咲が、最近なんだか元気なくてさ。俺、何かしたかな」。その潤んだ瞳を見た瞬間、遼太の内に棲む醜悪な獣が、ゆっくりと鎌首をもたげた。清らかなものを汚したい。固い絆で結ばれていると信じきっている人間関係を、根底から覆してやりたい。その抗いがたい衝動が、じわじわと彼の理性を蝕んでいった。
遼太は、完璧な「善き相談相手」を演じた。和也の信頼を利用し、美咲に近づいた。彼女が抱える、将来への漠然とした不安、和也の少し鈍感な優しさへの小さな不満。遼太はそれらを一つ一つ丁寧に掬い上げ、共感という名の毒を注ぎ込んでいった。「辛かったな」「俺だけは、お前の気持ちを分かってやる」。その言葉は、美咲の心の隙間に深く、甘く染み渡っていった。
献身的な相談相手から、唯一の理解者へ。そして、禁断の関係へ。その一線を越えるのに、時間はかからなかった。「和也には、言えない……」。そう言って遼太の胸で泣きじゃくる美咲を抱きしめながら、彼は底知れない征服欲に打ち震えていた。美咲は、和也と結ばれるその日まで守り抜くと誓った純潔を、いとも容易く遼太に捧げた。それは、彼女にとって救いを求めるための献身であり、遼太にとっては、背徳の儀式の完成を意味していた。
しかし、その蜜月は、あまりにも唐突な終わりを迎える。遼太のマンションのベッドで裸で抱き合う二人を、和也が目撃してしまったのだ。言葉を失い、ただ震える親友の姿。隣で、声にならない悲鳴を上げて泣き崩れる美咲。遼太の心を満たしたのは、一瞬の優越感。そして、その直後に訪れたのは、全てが色褪せて見える、いつもの虚無感だった。
関係は、終わった。いや、遼太が一方的に終わらせた。目的を達成した彼にとって、美咲はもはや何の価値も持たない抜け殻に過ぎなかったからだ。数日後、遼太は和也から震える声で電話を受けた。「美咲が、死んだ」。手首を切ったのだという。部屋には、遼太と和也、二人に宛てた遺書が残されていた。「ごめんなさい」。ただ、その一言だけが、何度も、何度も、かき乱れた文字で綴られていた。
その瞬間、遼太の世界から、音が消えた。
彼のゲームは、常に「関係の破壊」で終わるはずだった。征服し、壊し、そして虚無感と共に次の獲物を探す。そのサイクルに、「死」という結果が入り込む余地など、あるはずがなかった。人の命を奪ってしまった。そのどうしようもない事実が、彼の精神を根底から破壊した。征服欲も、優越感も、すべてが罪悪感という名の巨大な墓石の下に塗り込められた。
雨脚が、次第に強くなっていく。窓ガラスを叩く雨音は、まるで美咲のすすり泣きのようにも聞こえた。遼太はソファから立ち上がると、無意識に、街を彷徨い歩いていた。救いを求めているわけではない。そもそも、自分のような人間に救われる資格などない。ただ、この罪を、この絶望を、終わらせてくれる何かを探していた。
どれくらい歩いただろうか。気づけば、彼は古い教会の前に佇んでいた。吸い寄せられるように重厚な扉を開けると、ひんやりとした空気が遼太の肌を撫でた。ステンドグラスを通して差し込む淡い光が、堂内を荘厳な雰囲気で満たしている。その静寂の中で、彼は一人のシスターの姿を見つけた。祭壇の前で、静かに祈りを捧げている。腰まで届く滑らかな黄金色の髪。修道服の白さが、彼女の存在をこの世のものとは思えないほど、清らかに見せていた。
その姿を見た瞬間、遼太の心に、これまで感じたことのない、強烈な衝動が突き上げた。
あれを、汚したい。
いや、違う。この感情は、いつもの背徳的な欲望とは、どこか異質だった。あれならば、あるいは。あの絶対的な清らかさならば、この醜い俺の魂を、この拭いきれない罪を、根こそぎ浄化してくれるのではないか。俺のこの呪われた悪癖を、その身をもって受け止め、消滅させてくれるのではないか。
それは、贖罪を求める祈りであり、同時に、最も冒涜的な欲望の告白でもあった。遼太は、吸い寄せられるように、ゆっくりと彼女の方へ歩みを進めた。祈りを終え、こちらを振り返った彼女の瞳は、どこまでも澄み渡っていた。その慈愛に満ちた眼差しに、彼は自分の醜い全てを見透かされているような気がした。
「何か、お悩みですか」
鈴を転がすような、優しい声だった。その声が、遼太の最後の理性の楔を打ち砕いた。彼は、まるで悪魔に憑かれたように、その場に膝をつくと、震える声で告白を始めた。自分の内に巣食う、歪んだ寝取りの性癖を。そして、それによって親友の恋人を死に追いやってしまった、その許されざる罪の全てを。
シスターは、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。その表情からは、侮蔑も、同情も、何一つ読み取ることはできない。全てを話し終えた遼太が、顔を上げた。彼は、これから投げかけられるであろう、拒絶と軽蔑の言葉を覚悟していた。しかし、彼女の口から発せられたのは、彼の想像を遥かに超えるものだった。
「分かりました。その、あまりにも重い苦しみ、私がお引き受けします」
彼女は、天宮恵と名乗った。そして、その透き通るような瞳で、まっすぐに遼太を見つめ、こう続けたのだ。
「あなたのその悪癖が消え去り、あなたの魂が完全に救われるまで。私のこの体を、あなたに捧げましょう」
それは、絶望の淵に立つ罪人へ差し伸べられた、聖女による、最も清らかで、そして最も背徳的な、救済の提案だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます