死が二人を結ぶまで

妄荘枝葉

第1話 初恋

——僕の初恋は冷たい霊安室にあった。


まだ恋愛の「れ」の字も知らない小学生だった頃、クラスの女の子が事故にあった。


特に話す間柄でもなく、名前を言われても何となくとしか顔も思い出せない、そんな印象の女の子。


正直な話、亡くなったと連絡があった際も悲しみなど微塵も感じなかったし、親が親戚同士だったという理由だけで付き添った霊安室。


冷たい空気が流れる中、氷のように冷たくなった彼女を見て初めて、心の中に歪な炎が灯るのを感じた。


彼女の死体が、こんなにも美しいと思うなんて。青白い肌がくっきりとした目鼻を際立たせる。ひんやりとした体に指先が触れるとまるで命という熱を奪われるかのようで、心臓が跳ね上がる。



もっと触れたい。——もっと、もっともっともっと、彼女の全てが欲しい!



気がつけば親に引っ叩かれていた。強く握りしめた手首が変色してしまっている。気味の悪い存在を見るかのように蔑んだ親の瞳は今でも覚えている。そうして同時に、僕が他の人に向ける眼差しが同じであることを理解した。


怒り狂ったように怒鳴りつけて霊安室から連れ出される。何を怒っているのか聞き取れず、ただただ僕の視線は彼女という魅力的な存在に向けられていた。


その日から僕の世界は崩れ去っていった。僅かに残った理性と倫理が世界を繋ぎ止める。人として生きる為の命綱とも言えるソレは、あるいは僕にとってこれ以上にない枷となっていた。


テレビに映るアイドルや人気女優を見ても何も感じない。ただ彼女達の“在るべき姿”を想うと激しく心が掻き乱されて呼吸が浅くなる。


早鐘のように打ち鳴らす心臓を理性と倫理が握り潰す。忘れていた呼吸を思い出して肺から空気を搾り出す。滲んだ額を拭って、壁に掛けられた時計を見やると短針が2時を指していた。良い子は寝る時間だ。


布団から這い出て着替えを済ませる。月明かりだけが照らす、自分だけの道をゆっくりと散歩する。冷え切った空気が身体を巡る熱を奪い取ってくれる。誰も僕を否定する者は居なく、僕もまたこの時間だけに、自分という化け物の心を癒すことができた。



夜を闊歩する姿が日常になってから久しくなっていた。あの日の記憶は鮮明に脳を傷つけて、剥がせない瘡蓋となって蟠りを残す。

歳を重ねる毎に自分と世間のズレが大きくなっていく。高校生になった今、クラスメイトの話題は色恋沙汰がもっぱらだが、僕にとっては血の通った人間に奪われる心など持ち合わせていなかった。


「なぁ修司はどんな子が好みなんだ?お前いっつも自分については何も言わないじゃん」


クラスメイトの談話を聞き流した僕に声を掛けて来たこの物好きは、小学校の頃から付き合いがある長崎諒という男。恋バナが好きなくせして彼女を作ろうともしない変わった奴。


「好み……ねぇ。可愛い、もしくは綺麗な人」


「大雑把過ぎるだろ!もっと無いのかよ、こう……髪の長さとかさ!」


「気にしたことないよ。けど……」


「けど?なんだよ、気になるじゃん」


「冷たい人が好みかな」


「もしかしてドMかお前?」


馬鹿な事を抜かす諒に眉を顰めて無言で返事をする。どうせ言っても理解されないし、本来持つべき感情ではないのは明らかだ。


そんな会話を聞いていた別のクラスメイトが、まだ登校して来ていない人の席を引きながら背もたれに腕を乗せて混ざり込んでくる。


「なに?修司の恋バナって珍しくね?」


「こいつ、ドMなんだってさ」


「言ってない。そんな趣味はない」


僕たちのやり取りを茶化しながら談笑するクラスメイトを咎めるように予鈴が鳴り響く。他人の席から自分の席へと戻っていくクラスメイトだが、肝心の席の所有者は登校してこない。


「全員席につけー」


50代半ばの男性が教室に入って来て着席を促す。担任の鈴木邦彦、現代語教師だ。


「今日は野田、大前、東野が休みか。体調管理には気を付けるように」


隣の席は休みらしい。まぁ自分にとっては関心が向かない相手だからどうでもよいのだが。


午前の授業は基本的に寝て過ごす。夜に出歩く事が日常になった今、昼夜は完全に逆転しつつあった。幸い進学校でも無いから寝ていようが授業を妨害しない限りは何も言われない。


加えて学校のテストだけは点数が良かった。塾に通っているわけでは無いが、いい点を取れば親の機嫌を損なうことはない。それなりに自主勉強をして、分からない部分は教師に聞くだけの積極性を持ち合わせている。


だから教師からの評判も、『寝てはいるけど最低限はやっている奴』という扱いだった。

このぐらいの評価が自分にとって一番丁度良いのだ。


昼時になると諒が机を引きずって向かい合わせにくっつける。鞄の中から弁当箱を取り出して机に広げながら僕の睡眠の邪魔をする。


「起きろー、飯だぞー」


「後でもいいだろ」


「そう言って放置するとお前ずっと寝てるじゃん。飯食わねーでさ」


弁当の中に入った唐揚げを口に頬張りながら、箸でこちらを指さしてくる。


「行儀悪いな」


「んなことよりお前も食えって」


言われて弁当箱を取り出す。なんの変哲もない、冷凍食品をレンジで温めたものを詰め込んだ弁当箱。ご飯の上には何も乗っていなく真っ白だ。


「今日、放課後カラオケ行くけどどうする?」


弁当箱に入ったおかずを突っつきながら今日の予定を聞いてくる。特に予定など無いがカラオケに行く気分でもない。


「パス。人前で歌うの好きじゃないし」


「知ってるけどさー、歌わなくてもいいから来ないか?楽しいぜ?」


「それでお前に連れられて終始どんな目をしてたか忘れたか?」


「あったなー、そんなこと!」


思い出したかのように手を打ってケラケラと笑う。せめて飲み込んでからにして欲しい。


「じゃー俺も行かねー」


「珍しいな……別に僕に合わせる必要ないぞ?」


「カラオケよりもやりたい事あるし。つーか新作のゲーム買った?」


「買ったよ。クリアもした」


「早くね!?面白かった?あ、ネタバレは無しな!」


ネタバレをしない程度に感想を伝える。肝心な部分はネタバレになってしまうから伝えられないのが少しもどかしい。


「なら帰ったら一緒にゲームやろうぜ」


「新作やらないのかよ」


「やるけどそれは一人でやるよ。せっかくなんだから二人でなんかやろうぜ」


まぁゲームなら自分も好きだしと承諾。ゲームをやっていると現実を忘れられるからついのめり込んでしまう。


放課後の約束をした後、予鈴がなって午後を告げる。眠気は完全に飛んでいて授業はしっかりとノートを取る事が出来た。教科書の片隅に落書きばっかりしていたのは内緒だが。


二人並んで下校する姿は小学生の頃から変わっていない。諒が少し前を歩いて、僕はその後ろからついて歩く。


ふと諒の足が止まった。なんだと思い隣に立って諒の向ける視線の先を見る。ダンボール箱が置いてあり、『拾ってください』の文字が書かれていたが、雨に濡れた後なのか、文字が滲んでしまっていた。


諒が駆け寄ってダンボール箱を覗き込む。しばらく中を除いていた彼はゆっくりと立ち上がって顔を逸らした。


「……遅かったみたいだ」


そう呟きを漏らした諒の近くに腰を下ろして中を見る。冷たくなった子猫が横たわっていた。



——嗚呼、とても可愛らしい。



猫にそっと手を伸ばして湿った毛先を優しく愛撫する。固まった関節が時間を止めているようで現実離れしているように感じる。

頭を撫でて見開いた目をそっと閉じてあげる。安らかな顔がとても愛らしい。


「……修司は優しいな」


的外れな感想を寄越す諒を横に、子猫の遺体を担ぎ上げて腕の中に包み込む。


「おい、どうするつもりだ?」


「埋めてあげるんだよ」


「あぁ……。でもどこに?」


「うちの畑。今は誰も使ってないし、問題ないだろ」


「そっか……なら手伝うよ」


そう言って二人で畑に向かう。時折両手で抱えた子猫をまるで生きているかのように撫でる。


一度うちに帰った後、持って来たスコップで畑に子猫を埋めると諒が切り出した。


「お前、怖くねーの?」


「何がだよ?」


「遺体を触るの。俺には無理だ」


たぶん、これが普通の感想だ。だけど僕は違う。むしろ生きた証であり、それは美しいものであるはずだ。


「死んだから別の何かに変わるわけじゃ無いだろ?」


そう返されて諒は少し困った顔をしていた。分かるような、分からないような、難しい哲学に触れた時のような表情を浮かべては答えを出せないでいた。


「今日どうするんだ?」


埋めた後、僕の家の前で会話する。こんな事があった後の諒は気持ちの整理がつかない様子だった。


「ごめん、今日は無しで」


「了解。ゆっくり休めよ」


そう言って離れていく諒を見送った後、扉を閉めて、夜の日課まで時間を潰す。何気ない日常に戻っていく。

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