第53話 落下を始めた世界

世界が止まった。


――そう理解するまでに、ほんのわずかな遅れがあった。


スクーターを停めた交差点。

青に変わったはずの信号。

アクセルを開けば、当たり前のように流れ出すはずだった車列。


けれど、何も起こらない。


一台も動かず、

一人も歩かず、

音も、風も、時間そのものも――そこには存在していなかった。


空気が、凍りついている。

いや、凍結したのは空気ではなく、世界そのものだった。


私はブレーキをかけたまま、

無意識にハンドルを握りしめていた。


「……え?」


確かに声に出した。

唇も動いた。

喉も震えた。


それなのに、自分の声が“聞こえた”という感覚だけが、どこにも残らなかった。

音が、私の中で消えていく。


周囲を見渡す。


隣の車の運転手は、瞬きをする途中で止まっている。

まぶたは閉じきらず、眼球は半分だけ露出したまま。

歩行者は、片足を宙に浮かせ、次の一歩を踏み出す直前で静止している。


不自然なのに、恐ろしく整っていた。

まるで「停止」という状態そのものが、この世界の正解であるかのように。


唯一、信号機の光だけが異様に鮮明だった。

赤、黄、青。

色は完璧に存在しているのに、それを受け取る“時間”が失われている。


(時間が……止まってる?)


その考えが浮かんだ瞬間、

胸の奥で、ずしりと重たいものが沈んだ。


――やっぱり。


驚きよりも先に、

妙な納得が訪れたことに、私は気づいてしまった。


これまで何度も感じてきた、小さなズレ。

朝の違和感。

誰かの名前が、喉元まで出かかって消える感覚。

覚えているはずなのに、思い出せない記憶。


それらすべてが、

この一点に向かって、静かに集束していた。


私は、ゆっくりとスクーターを降りた。


地面に足をつけた瞬間、

はっきりと分かる。


――重い。


靴底が、アスファルトに沈み込むような錯覚。

いつもより、ほんのわずかに、

身体全体が引き下ろされている。


(……重力?)


そんな馬鹿な、と思うべきなのに、

身体の感覚だけは、決して嘘をつかなかった。


私は歩き出す。


止まった世界の中を、

私だけが、確かに動いている。


一歩踏み出すたび、

空気が粘度を持って押し返してくる。

まるで透明な水の中を進んでいるみたいだった。


ここで、理解してしまった。


これは「特別な出来事」ではない。

偶然でも、異常でもない。

ずっと前から準備されていた結果だ。


――思い出した。


アナザーの世界。

重なり合う街。

篠崎さんの、あの落ち着いた声。


「世界は、均一じゃないの。

 場所によって、

 時間も、重さも、記憶も、

 少しずつ違う」


あれは、理論の説明なんかじゃなかった。

警告だったのだ。


私は自分の胸に手を当てる。


心臓は、確かに鼓動している。

でも、そのリズムは、この世界と合っていない。

拍動が、微妙に早い。

あるいは、遅い。


(……私が、ズレてる)


世界が壊れたんじゃない。

時間が止まったんじゃない。


私が、

“ここ”に適合できなくなっただけだ。


その理解は、

雷のように衝撃的ではなかった。

むしろ、静かで、冷たくて、逃げ場がない。


ふと、空を見上げる。


雲は、途中で引き裂かれたみたいに止まっている。

青空の奥が、わずかに歪み、

現実の向こう側が滲んで見えた。


――落ちている。


空が、ではない。

私が。


見えない何かに、

確実に引き寄せられている。


それは恐怖ではなかった。

抗うべき敵でもなかった。


ただの、必然。


(……重力井戸)


その言葉が、自然に浮かぶ。


どこで知ったのかは分からない。

誰に教わったのかも思い出せない。

けれど、意味だけは完全に理解できた。


一度落ち始めたら、

二度と元の軌道には戻れない場所。


ここから先は、

選択ではない。


時間が止まったのは、終わりの合図じゃない。

切り離しの瞬間だ。


――始まりだ。


私は深く息を吸い、

そして、一歩、踏み出した。


その瞬間、

止まっていたはずの世界が、かすかに軋んだ。


遠くで、何かが崩れ落ちる音がする。

それが建物なのか、

構造なのか、

それとも記憶なのかは、分からない。


ただ一つだけ、はっきりしている。


私はもう、

「思い出さずに生きる」場所には戻れない。


落下は、すでに始まっている。


そしてその先に、

私が向かう場所がある。


重力井戸の底。


――そこで私は、

 すべてを思い出す。


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