#京都精霊備忘録

シャグマ

#京都精霊備忘録



———そうだ、京都に行こう。



暇だな。

今日は講義もないし、シフトも入っていない。六畳一間でごろごろしていると、空気がぬるく胸の奥に溜まっていく。やることはいくらでもあるのに、手が動かない。輪郭のない焦燥に駆らる。私はバッグにカメラと小さなノート、メガネケースだけ放り込み、ドアを閉めた。


電車に揺られて三十分。京都駅の風は思ったより涼しく、灰色の雲は薄く裂けていた。私は地図を開かず、東へなんとなく足の向くほうへ歩く。鴨川の水面を覗き、アスファルトの割れ目から出た草の先を見て、猫の足跡を探す。昔から私は観察癖がある。猫やカラスを見ると、つい追ってしまうのだ。ふと風が止み、遠くの影が二重に揺れた。私はメガネを押し上げ、その揺れを目で追う。


人混みが濃くなると、私は路地へ逃げた。音が、急に遠くなりホッとする。古い家並みの間を縫い、理屈のない奥行きに引かれて歩く。ペルシャ絨毯の店、レコード屋、間口の狭い喫茶と骨董。京都の家は細長く、奥へ入るほど静かで、何かに包まれる。カチャ、とメガネを上げた瞬間、視界の隅を黒い影が走った。


黒猫が路地の真ん中を我がもの顔で歩いていた。首輪はなく、耳も欠けていない。目が合う。猫はゆっくり瞬きをしてから、背を向けて歩き出し、角で立ち止まってこちらを振り返る。ついてきて、と言っているみたいだ。私は昔からの癖に従って、あとを追った。


猫は鴨川へ出て、北へしばらく進むと、また路地へ戻った。家と家のあいだの、人一人ぶんの細い小路へ身を滑らせる。私は肩をすぼめて続く。十メートルほど、くねる影を追い抜けた先に、古びたカフェが現れた。


木の扉に色あせた文字で「灯台」。窓の奥は薄明かりで、壁一面に本が詰まっている。ドアベルが鳴り、紅茶の香りが鼻に抜けた。カウンターの向こうに、無口そうな青年が一人。髪は少しボサボサで、眠たげな目なのに、どこか遠いものを見ている。


「席、どうぞ」


短くそう言って、彼はメニューを置いた。私は紅茶と、素朴そうなサンドイッチを頼む。木のトレイがテーブルに置かれ、湯気が立つ。パンはやわらかく、辛子の匂いが少し刺さる。カップを持ち上げる指先から、息がほどけていく。


食べ終えて本棚を眺める。背表紙はどれも古び、文字はところどころ擦れていた。ひとつだけ、背筋を撫でるように私を呼ぶ本がある。理由は分からない。でも手は伸び、私はメガネを指で少し下げて焦点を合わせる――癖みたいな儀式。次の瞬間、頁の隙間から黒い影が流れ、視界がかすみ、体の芯がふっと軽くなった。


目を開けると、世界が低い。テーブルの天板が空のように遠く、前足――前足? 頬を擦ると黒い毛が視界を横切る。尻尾が、私の意思と少しずれて動いた。言葉が喉の奥で形にならず、空気だけが鳴る。紅茶はさっきより深い色をしていた。


カウンターの向こうで青年がこちらを見た。驚かない。わずかに口角が下がる、溜息の前の形。


「また、迷い込んだのか」


彼はそう言って扉の鍵を回した。途端に外の気配が遠ざかる。


「君には、見えてしまうんだね」


彼は床に膝をつき、猫になった私の額に手をかざした。掌は少し冷たい。瞼の裏で薄い膜が剥がれ、カップの輪染みみたいな界面が浮かび、そこから細い光が零れて宙に漂う。光は文字の形をしていて、たしかに頁からこぼれたものだ、と私は直感した。


「この店は境界に立ってる。人の世界と、向こう側のちょうど真ん中。たまに“迷霊”が本のすきまから漏れる。僕はそれを、送り返している」


声は耳ではなく骨を伝って届いた。猫の体は、人のときより世界のしわに敏感だ。私は彼の手の動きに合わせ、浮かぶ文字の尾を追う。体は軽く、梁へひらりと飛び移れる。光の文字たちは鼻先をかすめ、鳴き砂みたいにチリチリと音を立てる。彼は指先で輪を描き、私に頷いた。そこが出口だ、と分かる。


私はぴたりと止まり、尾をゆっくり左右に振る。視界の端で彼の眼に微かな翳り。「急がないと、君まで薄くなる」静かな声に、緊張の糸が美しく張られる。私は梁から飛び、光の輪へ前足を差し入れた。冷たい。けれど怖くない。湿った紙と遠い朝霧の匂いが混ざり合う。


数行ぶんの光が指先から吸い込まれ、輪は小さくなる。見送るたび、店の空気が重みを取り戻す。最後の一字がためらうように震え、私の鼻先でくるりと回って輪に溶けた。その瞬間、私の輪郭が紙の端みたいに毛羽立つのを感じた。焦りの形は掴めない。ただ彼の手の温度だけを信じる。


「戻すよ」


彼は私の首筋にそっと触れた。世界がひっくり返り、木目がぐにゃりと曲がる。扉のベルが遠く鳴り、紅茶の湯気が逆さに立ちのぼる。私は、頁に差し込まれた栞のように、ある層から別の層へ滑っていった。


目を覚ますと、私はテーブルに突っ伏していた。指先にパンの粉。紅茶は少しぬるい。店内は元の静けさ。カウンターを見ると、彼の姿はない。レジの横に古い日記が一冊、表紙に「送りの記録」と手書き。開けば、墨の薄い短い行が並んでいる。


――黒猫の迷霊、還送。


ページをめくる。日付はなく、紙の匂いがやけに懐かしい。最後のページに小さな書き添え。


――境界で会う者ほど、よく見える。


店を出ると、曇り空がわずかに明るい。路地の入口で、さっきの黒猫がこちらを見る。ゆっくり瞬き。私は同じ速度で瞬きを返す。約束の暗号みたいだ。




― ― —

電車に揺られながら、私は窓の外を見てメガネをそっと下げた。焦点の縁がやわらかくほどけ、ホームの端に薄い影が立つのが見えた気がする。人でも精霊でもない、。メガネを鼻に戻す。世界は今日もきちんとこちらに傾いている。けれど、ほんのわずか先にある境界。


世界の奥で、言葉にならないものたちが、今日も静かに往来している。


つぎに京都へ行くとき、あのカフェが見つかるかは分からない。けれど、たぶんそれでいい。境界はいつも動いている。見える者は、ただ見送って、歩いていく。


ノートを膝にのせ、表紙の手触りを確かめる。息を吸い、角にゆっくりと書いた。




――京都精霊備忘録。


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