第2話 復讐
「あなたを信じたかった。でも、もう無理。」
その言葉を残して香織は寝室にこもった。
リビングの時計の針が、静かに夜を刻んでいた。
ドアの向こうから、悠真の小さな声が聞こえる。
「香織・・・本当に何もなかったんだ。ただ──」
「もう、いい。」
香織は枕を抱きしめ、目を閉じた。
何もなかった? なら、どうして嘘をつく必要があるの?
翌朝、悠真は気まずそうに「出張に行ってくる」とだけ言い残し、家を出た。
香織は彼の背中を見送らず、冷えたコーヒーを一口飲んだ。
苦味が胸に沁みる。
その瞬間、心の中で何かが固まった。
“私が苦しんでる間、あの女は普通に笑ってるんだろうな。”
それが復讐の始まりだった。
数日後。
香織はパソコンを開き、紗英の名前を検索した。
プロフィール写真、勤務先、趣味、友人関係。
彼女は広告代理店で働いており、社内でも注目される存在らしい。
SNSには仕事仲間との楽しげな写真が並んでいる。
その笑顔を見た瞬間、香織の指が止まった。
「・・・ずるいね。」
表では完璧なキャリアウーマン、裏では婚約者を奪う女。
その矛盾が許せなかった。
香織は静かに行動を始めた。
匿名のメールを会社に送る。
内容は穏やかだが、十分に疑念を植えつける言葉。
「紗英さんがクライアント情報を他社に流しているという噂を耳にしました。
ご確認ください。」
たったそれだけの文面。
だが、職場に不信感を広げるには十分だった。
香織は翌日も動いた。
SNSの投稿から紗英の交友関係を割り出し、別のアカウントでコメントを残す。
「あの人、他人の彼氏に手出すらしいよ。」
最初は震える指先だった。
だが、二度、三度と繰り返すうちに心は不思議な静けさを取り戻していった。
自分が支配している感覚。
傷つけられた分だけ、世界を少し取り戻せる気がした。
数週間後、紗英のSNSの投稿が途絶えた。
会社で何かあったのだろう。
共通の知人が話すのを偶然聞いた。
「最近、紗英さん元気ないみたい。取引先トラブルだってさ。」
香織は小さく笑った。
まるで何事もないかのように、コーヒーを口にする。
復讐は進んでいた。
だが、同じ頃──悠真との距離は、さらに広がっていた。
「最近、冷たくないか?」
夕食の席で悠真が切り出した。
「そう? 仕事で疲れてるだけ。」
香織は淡々と答える。
目を合わせることもなく、食器の音だけが響いた。
「なあ香織、俺たち・・・大丈夫だよな?」
「何が?」
「結婚のこと。」
香織は箸を止め、微笑んだ。
その笑みには、もう温かさがなかった。
「大丈夫よ。あなたが“ちゃんと終わらせた”ならね。」
悠真は何も言い返せなかった。
沈黙が落ちる。
香織はその沈黙すら、自分の支配下にあるように感じていた。
夜、ひとりになった香織は、机の上に並べた二つの写真を見つめた。
ひとつは結婚式場のパンフレット。
もうひとつは、カフェで笑う悠真と紗英。
「どっちも、壊れた。」
そう呟く声は、どこか他人のようだった。
復讐は確かに成功していた。
けれど、心の奥は冷たく乾いていく。
“勝った”はずなのに、何も満たされない。
そこへ、スマホのバイブ音が響いた。
画面には、知らない差出人からのメール。
件名:「あなたのことを話したい」
本文は短かった。
「悠真さんの婚約者、香織さんですよね。私は紗英です。」
香織の心臓が跳ねた。
復讐の相手からの、初めての直接の連絡。
震える指で続きを読む。
「あなたが何をしたのか、私は知っています。でも責めるつもりはありません。
ただ、一度会って話をしたい。」
香織は画面を見つめたまま、息を呑んだ。
“知っている”──彼女が気づいた? どうして?
恐怖と好奇心が入り混じる。
けれど、その奥で別の感情が生まれていた。
それは、奇妙な安堵。
やっと、すべてが明るみに出るのかもしれない。
香織は返信欄に短く打ち込んだ。
「いいわ。会いましょう」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で何かが動いた。
復讐が終わり、次に来るのは──
真実。
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