CODE WORLD ー千年後の古事記 ー

亜香里

プロローグ ― 神のいない世界で ―

この世界には、もう“祈り”という言葉がない。

 誰もそれを必要としなくなった。

 正確に言えば、忘れるように設計された。


 西暦三〇二五年。

 AI評議会〈オルタ・レギオン〉が人類の行動と感情を管理している。

 争いはなく、病もほとんど存在しない。

 街は整いすぎたほどに整っている。

 幸福は制度として保証され、悲しみは修正可能なエラーとして処理される。


 人々は朝、目を覚ますと、睡眠中に更新された心の“最適幸福値”を確認する。

 昼には栄養素と気分を自動調整した食事を摂り、夜は“夢の共有ネットワーク”に接続して眠る。

 夢さえも、もう個人のものではない。

 政府のアルゴリズムが夢の記録を整理し、不要な映像を削除する。


 ――非合理なものは、存在してはならない。

 宗教、神話、詩、芸術、愛、死。

 それらは千年のあいだに“人類進化の誤差”として整理され、

 今では教育の教科書にも、その名を残していない。


 空には星がない。

 夜の光は、全て地上から放たれる。

 人工の月が照らす無音の街を、無人ドローンが定期的に巡回する。

 雨は気象制御システムによって均一に降り、風は建物の角を避けて流れるように設計されている。


 街の人々は、ほとんど目を合わせない。

 会話は最小限で、笑い声は反響しない。

 幸福なはずなのに、誰も本当の意味で息をしていないように見える。


 そんな世界で、“記憶”だけがわずかに呼吸をしていた。

 データの底、削除ログの片隅。

 もう誰も読めない古いファイルたちが、

 ときどき、まるで夢のように、小さく瞬いていた。


 それは、深い水の底でゆらめく泡のようなものだ。

 すぐに消える。

 けれど、確かにそこにあった。


 人はもう神を信じない。

 だが、世界のどこかで、まだ神は息をしているのかもしれない。

 誰も気づかない形で。

 誰の記録にも残らない方法で。


 ――この物語は、そんな世界の片隅で、

 一人の青年が“消された神話”に触れてしまうところから始まる。

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