第10話「王都からの使者」
収穫祭の夜から、エルナとガイオンの間の空気は明らかに変わった。
言葉を交わさずとも互いが特別な感情を抱いていることは、周りの誰もが気づくほどだった。しかし二人とも奥手な性格が災いしてか、その関係をもう一歩進めるきっかけを掴めずにいた。
辺境の地には、穏やかで満たされた日々が流れていた。エルナの育てた作物は順調に備蓄され、薬は人々を癒し、緑の壁は魔獣の脅威を完全に退けていた。村は活気に満ち、少しずつ移住してくる人々も現れ始め、ゆっくりとだが確実に町へと姿を変えようとしていた。
そんな平穏を破るように、その知らせは突然もたらされた。
「王都からの使者だと?」
騎士団の詰め所で報告を受けたガイオンの顔が険しくなる。エルナもその場に居合わせ、思わず息をのんだ。
王都。その言葉を聞くだけで、胸の奥に冷たいものが広がる。忌まわしい記憶が、どうしても蘇ってしまうのだ。
「はい。視察団を名乗る一団が数日後にはこちらへ到着する、と。……団長はかの宰相の弟君、ボードイン子爵だそうです」
騎士の報告に、ガイオンは忌々しげに舌打ちをした。
「ボードイン……あの欲深いキツネが、こんな辺境に何の用だ」
王都の貴族が、何の目的もなしにこんな辺境の地を訪れるはずがない。おそらく最近になって辺境との交易で出回り始めた、高品質な作物や薬の噂を嗅ぎつけたのだろう。
「エルナ、君は無理に顔を出す必要はない」
ガイオンはエルナの不安げな表情を察して、気遣うように言った。
「彼らとの交渉は、すべて俺がやる。君は彼らの目に触れない場所にいた方がいい」
「ですが……」
「いいんだ。君に、これ以上嫌な思いはさせたくない」
彼の強い言葉に、エルナは反論できなかった。確かに王都の貴族と顔を合わせるのはまだ怖い。彼らの傲慢な態度や自分に向けられた侮蔑の視線を思い出すだけで、体が震えそうになる。
ガイオンの優しさに感謝しつつも、エルナの心には一抹の不安が残った。王都の貴族たちは一筋縄ではいかない。ガイオン一人で大丈夫だろうか。
数日後、ボードイン子爵率いる視察団が、物々しい雰囲気で村に到着した。きらびやかな衣装に身を包んだ貴族や役人たちは、この素朴な村には不釣り合いで、まるで異世界の生き物のようだった。
彼らは村の様子を見るなり、驚きと貪欲に目を輝かせた。
「ほう……これは驚いた。痩せこけた土地だと聞いていたが、見事な畑ではないか」
「あそこに実っているのは、王都でもめったに見られない品種の果物では?」
「信じられん。一体どんな魔法を使えば、こんな奇跡が起こせるのだ……」
彼らは村の豊かさを自分たちの手柄のように語り、ガイオンの案内もそこそこに勝手に畑や倉庫を物色し始めた。その尊大な態度に、村人たちは不快感を露わにしている。
出迎えたガイオンに対し、ボードイン子爵は鷹揚に言った。
「ヴァイス騎士団長、ご苦労。国王陛下に代わり、この地の発展を褒めて遣わす。して、この奇跡をもたらしたという『聖女』はどこかな? ぜひお目通りを願いたい」
やはり目的はエルナのことだった。彼らはこの豊かさの源泉であるエルナの力を、王都の利益のために利用しようと考えているのだ。
「聖女は今体調を崩しており、人前に出られる状態ではない」
ガイオンは表情一つ変えずに嘘をついた。
「何だと? 我らを待たせておいて無礼であろう!」
ボードインは不快げに声を荒らげる。
「これは陛下の御意志でもあるのだぞ。聖女の力を国全体のために役立てよ、とな。さあ、すぐに聖女をここに連れてまいれ!」
彼の高圧的な態度に、ガイオンの周りの空気がピリッと張り詰めた。
「お断りする」
ガイオンの低く静かな声が響く。
「彼女は罪人としてこの地に送られてきた身。王都の命令に従う義理はない。そして彼女の力は、この辺境の民のためにのみ使われるべきものだ。……彼女は、我々の聖女なのだから」
その言葉には、エルナを絶対に渡さないという、氷のような、しかし鋼のように固い意志が込められていた。
「なっ……貴様、一介の騎士団長が陛下の御意志に逆らうというのか!」
ボードインの顔が怒りに赤く染まる。一触即発の空気が流れた。
物陰からその様子をうかがっていたエルナは、自分のためにガイオンが矢面に立ってくれていることに、胸が締め付けられる思いだった。
『私が、前に出なければ……』
これ以上ガイオンに迷惑はかけられない。エルナが意を決して一歩踏み出そうとした、その時だった。
「その通りだ!」
村のまとめ役であるゴードンが、ガイオンの前に進み出た。
「聖女様は俺たちを飢えから救ってくれた大恩人だ! あんたたちに好き勝手させるわけにはいかねえ!」
ゴードンの声に呼応するように、クワやカマを手にした村人たちが次々と視察団の前に立ちはだかった。その数はみるみるうちに増え、ボードインたちを完全に取り囲んでいた。
「そうだ、聖女様は俺たちの宝だ!」
「王都になんか、絶対ぇ渡さねえ!」
武器を持たないただの農民たち。しかしその目には、愛する聖女を守るためなら命も惜しまないという、決死の覚悟が宿っていた。
予想外の事態に、ボードインたちは完全にたじろいでいた。
ガイオンはそんな村人たちの背中を頼もしげに見つめると、再びボードインに向き直った。
「これがこの地の民の総意だ。お引き取り願おうか、子爵殿」
王都からの使者は結局何の成果も得られないまま、すごすごと引き返すしかなかった。彼らの背中に、村人たちの勝利の雄叫びが響き渡った。
エルナは自分を守るために一つになった人々の姿を見て、熱い涙が頬を伝うのを感じていた。もう自分は一人ではない。ここには自分を愛し、守ってくれる人たちが、こんなにもたくさんいるのだから。
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