流浪

小出岩楽

流浪

 街は夜に沈んでいた。星々は濃い夜空に穴を空け、月が雲のなかを泳いでいる。人家の明かりはとっくに消え、口を閉じたシャッターが風と共に吠え立てる。通りは静まり返り、頭をもたげた街灯だけが、辺りを点々と照らしている。そのいびつな直線上に、小さな影が見える。垂れた耳。黒い鼻。揺れる尻尾。薄汚れた斑模様……一匹の犬である。

 彼――ひょっとすると彼女は頭をもたげ、左の後ろ脚を引きずりながら、とぼとぼと通りを歩いていく。一歩、また一歩と歩みを進めるたびにか細い脚は震え、首にかけられた円形のチャームが揺れる。捨てられたのか、はぐれたのか。行くあてがあるのか、それともただ街を彷徨っているだけなのか。浮き出た肋骨が脇腹に陰影をつくっているから、すくなくとも長いこと食べていないことだけはたしかである。それだけに犬は相当に腹を空かせているはずだが、アパートのゴミ捨て場や路傍に打ち捨てられたファストフードなどには目もくれなかった。犬にはその気力がなかったのかもしれないし、もしかするとそうする勇気がなかったのかもしれない。

 時折、クルマが通った。それは軽自動車だったり、ミニバンだったり、セダンだったりした。ヘッドライトは犬を見受けると一瞬たじろいだが、すぐに迷惑そうな顔をして横に除けていった。また、三人組の若者に出会ったこともあった。彼らはすこし迷ったように顔を見合わせたが、結局ゲラゲラと笑いながら通り過ぎていった。街を滑り降りる北風は冷たく、静けさはどこまでも広がっている。アスファルトは荒涼としていて、酷く硬い。それでも、犬は歩き続ける。道のりは遠く、どこが終着点なのかもわからない。

 湿った鼻先に、冷たいものが触れた。犬は空を仰ぎ、瞳に星空を映した。白い結晶ははらはらと舞い、辺り一面を覆っていく。それはこの年の初雪だったのだが、犬には知る由もなかった。やわらかな肉球は薄く積もる雪を踏みしめ、五本指と四本指の足跡を残していくが、それも次第に消えていく。冷ややかな湿り気と寒々とした空気が、毛皮にしみる。生温かな息は白く、震えている。左の後ろ脚は、雪のなかにふらついた跡を描いている。

 雪は次第に深くなっていった。大粒の塊が降りしきり、分厚い層をつくる。黒々としていたはずの路面は白銀に埋まり、にじんだ水分が薄氷に変わる。街はあっという間に雪景色に染まっていった。通りを静謐が支配している。もはや、牡丹雪が地面に砕ける音以外は、なにも聞こえない。

 なにを思ったのか。犬は突然、クゥーンと鳴き声を挙げた。かすれたような弱々しい声が、雪にぶつかり溶けていった。犬はもう一声、鳴いてみた。喉から絞り出された震えが、風にさらわれる。クゥーン、クゥーン……犬は声を挙げながら歩いた。しかし、街はどこもかしこも寝静まったままだった。

 どれだけの時間が経っただろうか。重々しい雪が身体にのしかかり、内臓の奥にまで浸透していく。犬の歩みはさっきよりも鈍くなっていた。体温は奪われ、凍てつくようなものが忍び寄ってくる。犬はなにかにすがりつくように、声を挙げ続けた。単調な通りはどこまでも、延々と、永遠に続いているようだった。

 あたたかな光が犬に降り注いだのは、そのときだった。犬は立ち止まり、かすむ眼で光源を探した。大きな家だった。建物も、庭も、門も、すべてが大きかった。その家の二階、ひときわ大きな窓に、明かりが灯っている。

 窓が開くと、カーテンが風にゆらめき、陽射しのような光が周囲を切り取った。声がする。なにかに驚いたような、狼狽したような声だった。犬はもう一度だけ、鳴いてみた。明かりの向こうで人影が動き、部屋の奥へと駆けていった。

 門は甲高い音を立てながら開いた。なにかがこちらへ駆け寄ってくる。眼の前に翡翠色の皿が差し出される。そこには縁までたっぷりとミルクがたゆたっているように見える。犬は朦朧とする意識のなか、恐る恐るその白い液体を舐めてみた。それはたしかに、間違いなくミルクだった。

 犬は貪るようにミルクを舐めた。まったり、もったりとした感触が舌先を覆い、喉を流れていく。胃に溜まった液体が、滑らかに揺れる。すこしだけ、脚に気力が湧いてくる。その少女はパジャマに紺色のピー・コートを羽織っていた。艶やかな黒髪は長く、腰にまで届いている。色白の頬はほんのりと染まり、白い息が風に立ち消えていった。

 底に溜まった一滴までミルクを舐め取ると、犬は少女を見上げた。少女の瞳は優しく、まるで黒曜石のように透き通っていた。がさついた毛並みを、ぬくもりが撫でる。犬は眼を細め、気持ちよさそうに尻尾を振った。

 犬は少女を見つめた。少女も犬を見つめた。が、少女は首を振った。

「ごめんね……ウチじゃ飼えないの……」

 もう、このぬくもりから別れなければいけない。

 犬は少女の手から離れた。少女はうつむいたまま、門を閉ざした。街を覆う静寂はより一層、深くなった。犬はまた、歩き出した。降り積もる雪は容赦なく、冷酷で、峻烈だった。左の後ろ脚の感覚がない。足取りは重く、息は冷たかった。

 長い道のりを、果てなく歩く。犬の姿は通りの先の、小さな一点となり、やがて消えていった。

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流浪 小出岩楽 @kanimiso0420

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