深淵

@fuzimasa_

生まれ落ちた。――妖怪の姿で。(短編)

私は生まれ落ちた。――妖怪の姿で。

部屋は光に満ちているはずだった。

だが目に映るのは、濁った影、裂けた輪郭、ひび割れた白壁。

空気は湿り、どこか腐った匂いが鼻腔を刺す。

床に響く自分の産声が、かすれた叫びに変わった。

皮膚の感覚は異常で、腕を振るたび空気が微かに震え、温度や湿度の微細な変化まで察知する。

耳は空気の揺らぎを拾い、遠くの時計の針や壁に染みた呼吸の震えまで聞き取る。

誰かに抱き上げられたい。

温もりを、安堵を。

だが返ってきたのは、悲鳴と吐き捨てる声。

「見せるな」「触るな」

言葉は刃となり、胸を刺し、鼓膜を震わせる。

光は腐り、空気はねっとりと降り注ぎ、部屋は一瞬、法廷と化した。

指先に残る液体の冷たさ、皮膚を這う異様な感覚、嗅ぎ取れる微かな血の匂い――世界の拒絶を、すべて教えられた。

生まれ落ちた瞬間から、私は孤独だった。

――

「……私の……赤ちゃんは……?」

母の声。低く震える声が、骨を締め上げる。

見られれば、母は逃げ去るだろう。

あるいは異物として解体されるかもしれない。

だが母は迷わず私を抱き上げた。

温もりと血の匂いが混ざり、胸に押し付けられる感覚は痛くもあり、心地よくもある。

私の耳は母の心音の微細なリズムや息遣いを読み取り、胸に秘められた不安と優しさを瞬時に感知する。

異形の体は母の腕に収まるたびわずかに重く、空気の流れを歪める。

母の目は揺れず、ただ私を見つめていた。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

その一言で、世界の暗雲は裂けた。

耳に残る母の声が、胸の奥の凍った部分を溶かしていく。

――

祖父母の皺は深く割れ、祖父の低く震える怒声が壁に跳ね返る。

「なんだこのバケモノは」

母は繰り返す。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

祖父母は「その子を殺せ」と迫り、祖母は口元に血の匂いを滲ませ、

「呪いよ、祟りよ」と囁く。

その表情は、まるでムンクの叫びを切り取ったかのようだった。

父は沈黙して去った。

廊下に残る足音が、母を追い詰める。

それでも母は退かなかった。

親も、夫も、世界すらも敵に回しても、母はただ一人で私を愛した。

その背中は聖なる灯火であり、汗ばんだ肌も、疲労に震える指先も、すべてが愛の証だった。

誰も触れられぬ光。

三人が去った後、看護師の白い手袋が小刻みに震える。

距離と緊張がそのまま判決だった。

――

月日は流れ、私は五歳になった。

人々の視線は冷たく、背を向け、手を引きながら囁く。

足音や小さな吐息までが拒絶の音に聞こえる。

胸の奥の柔らかい部分を削ぐその視線に、皮膚がぞくりと震える。

母は笑った。

「差別する方がおかしいのよ」

私は母の胸の奥の思いまで瞬時に感知する。

罵声や拒絶に怒りを放つことはない。

自分が「異質な存在」であることを受け止め、共感する――それが私の異形の感受性だった。

昼は運送業、夜はスナック。

ぼろ家に灯るのは、疲れた背中と崩れない笑顔。

油の匂い、グラスがぶつかる乾いた音、木の床のひんやり感、夜風に混じる酒の匂い。

疲労で震える指先を通じ、母の孤独と愛の重さを肌で感じる。

私の体は異形であり、空気の微細な流れを押し分け、存在そのものが周囲に影響を及ぼす。

――

やがて母は、ただの人間として死んだ。

その前、私は嗅覚で死臭の微細な変化を察知し、耳で心音の異常を感知した。

母の呼吸は浅く、不規則になり、微かな震えが胸壁を伝わる。

私は瞬時に理解した――母の体は限界に近い。

最期に微笑み、かすれた声で呟く。

「……ごめんね。普通の子として産めなくて。

……でも、あなたは優しい子。そして強い子。

辛くなったら……死んでもいいのよ。お母さん、怒らないから」

母の心の奥にある赦し、優しさ、恐れ、すべてを瞬時に感知する。

柱を失った私は、廃墟の中に取り残されたように立ち尽くす。

床に落ちる微かな埃、夜風に揺れるカーテン、母の香り、手のひらに残る

温もり、胸の脈打ちまでが現実を教える。

妖怪の体は異質で重く、歩くたびに空気がわずかに歪み、周囲に微細な影を落とす。

けれど――だからこそ、生きようと思った。

醜悪であろうと、みじめであろうと。

世界が私を拒み続けても、母の声は胸の奥で炎を燃やす。

その火を絶やさぬために、私は歩く。

歩き続ける。

母の手の温もりと、声の余韻、夜風に混じる床のひんやり感を胸に。

歩き続ける。

世界がどんなに冷たくても、妖怪の感覚と共に胸に灯る炎を抱きながら。

歩き続ける――

母の声が、私の背を押す限り。

その炎が消えぬ限り、私は歩き続ける。

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