10話 完治

安っぽい甘さ

 お母さんが怒っちゃう、と言って笑った佐野さんの顔が脳裏に焼き付いて、離れない。

 

 あれは、きっと嘘だ。

 

 彼女は私に嘘をついた。だけど、私の心の中がどうなっているのかわからない。でも確かなのは、私は怒ってなんかないってことだ。佐野さんが嘘をついたのはきっと事実だけど、別にどうだっていい。人間だから嘘はつく。私より世渡りが上手い彼女なら、なおさら。そもそも、嘘をついたら怒るべき、なんてのは正しくはない。


 誰かに噓をつかれたって、それは仕方のないこと。しかも優しい佐野さんの嘘はきっと、刃じゃない。

 

 だから怒りなんかじゃない。わからない。わからないから、動けない。私自身がもっとわかりやすい人間だったのなら、楽だったのに。

 

 モヤついた心を恨んだところで、どうしようもない。どこへもいけない。

 

 私は動けなくなった。さっき入りこんだ冷たい空気に満たされた玄関で、佐野さんが出て行った扉を、見つめた。


 だけど、このままここに居たら凍えてしまいそうだ。外の空気が思ったよりも寒いから。そして、重たいから。

 

 纏わりつく冷気、重圧。指先が凍える。唇が震える。

 

 そんな生理現象で体は軽くなった……わけじゃない。


 ただ、本当に寒くなった。


 だから部屋に戻った。扉を開けると生ぬるい空気と、半端に揺らめく照明が漂い始めた。玄関で冷えた顔の表面が熱を持ち始める。

 

 身体の真ん中はずっと寒いのに。


――気持ちが悪い。

 

 やっぱり冬の温度差は不快だ。外は寒い。それは紛れもない事実。だから皮膚は冷たい。


 家の中は暖かい。それも、事実。だけど、体の芯はずっと冷えたまま。


 お風呂に入っても、きっとすぐに熱が引いていく。寒さから逃れられないのは、冬のせい。冬のせいだ。私のせいでもなければ、佐野さんのせいでもない。だから、階段を上がって私の部屋に戻った。薄暗い部屋に慣れたからもはや電気なんか要らなくて、そのままベッドに横たわる。

 


 そして倒れ込む。柔らかくて反発の弱いマットレスが、私を包み込む。この柔らかさは毎日変わらない。昨日も今日も、寝心地は変わらない。それが物足りないなんて思わない。思わないけど、少しだけ今日は体が軽い。マットレスの沈み込みは変わらないはずだけど、どこか軽い。たぶん、頭が空っぽだからだ。たくさん歩いたから、カロリーを消費したのだろう。少し瘦せたのかもしれない。硬い体が、もっと固くなったのだろうか。

 

  真っ暗な天井を眺めていると、目を閉じているのか開いているのかさえわからなくなってくる。私が起きているのか寝ているのかさえよくわからなくなりそう。だけど、不意に思い出した。


 クリームソーダの控えめな甘さを。安っぽいイルミネーションを。


 ――そして、佐野さんの温度を。


 

 ……佐野さんが欲しくなったような気がした。でもそれは気のせいに過ぎない。

 

 私は、佐野さんには何も望んでいない。


 だってきっと彼女は、私が欲しいものを何1つ持っていないから。


 佐野さんはたくさんの友達がいる。でも私にはいないし、たくさんの友達なんてそもそも要らない。喋り相手は守屋だけで十分だ。 


 それに、夜にコーヒーを飲むセンスもわからないし、私は白い服を着ない。寒い中イルミネーションを見にいくなんて、私1人では絶対にしない。


 しない……けど、佐野さんに誘われたから、私は私がしないようなことをした。


 佐野さんに、貰っている。色んなものを。


 余計なことに気がつきそうになって、考えるのをやめる。

 


 だけど、私の決断を邪魔するかのように、枕元に置いたスマホが鳴る。

 

 振動が頭に響く。


 確認するつもりはなかったけれど、思わず手に取った。何を知らせる通知かなんてわからないのにどうしてか胸がうるさくなって、骨を伝って頭に響く。

 

 たぶん、気付かなければよかった。でももう遅くて、佐野さんの言葉が目に入る。そして、すぐにスマホを裏返してマットレスに押し付けた。文字をはっきり読んでいないのに、彼女の声が聞こえた。


「今日は楽しかった。ありがとう。来てくれて」

 私の前でしか見せない彼女の、静かな声。

 

 遠巻きに聞こえる楽しげな明るい声じゃなくて、少し落ち着いていて大人っぽい、あの声。

 

 ひねくれた答えを用意できるほど、頭が元気じゃなかった。文字を打つ気力はないけど、頭の中を素直な返事が埋め尽くした。


 また会いたい。


 私だけにしか会えない佐野さんにまた会いたい。制服を着た彼女じゃなくて、いつもの、先生にバレない程度の薄いメイクをした彼女じゃなくて。


 私と出会う前の彼女が何者かなんて知らない。大して興味はなかった。ただの同級生。明るくて元気な子。私とは違う世界の人間だ。

 

 今の佐野さんのことも大して知らない。わかったのは彼女の温度と柔らかさと、甘さだけ。

 

だけど、もう――もう、暇つぶしは終わりにしたい。


 私も佐野さんも、同じことを考えている。同じ世界に立っているわけじゃないけれど、同じ光を見た。同じ味を感じた。


 だから、ベッドから飛び起きた。窓を開けて、裸足のままテラスに出ると冷たい風が私を抱きしめた。

 

 寒い。冷たい。だけど、なぜか佐野さんの暖かさは忘れていない。


 ハグセラピーは終わり。もう私は完治した。どんな病気か知らないけど、とにかくもう治った。だって今はもう、靄がない。


 佐野さんにあげた一万円は、形を変えても戻ってきた。甘さと、温度と、光。

 

 それは価値とか意味とか、そういうの全部当てはまらないものだ。

 


 私は本当に、本当に癒されたんだと思う。佐野さんのハグセラピーとやらは、うまくできてる。


 顔を上げて、真上の空を見た。

 

 今までにないくらい――星が煌めいていた。


 夜の風が高く鳴いた。あとは待つだけでいい。佐野さんがきっちり1万円分働いてくれるのが終わるまで。



 

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