5-7. 垢を舐める
翌日、五月四日はみどりの日だった。
午前中、俺は
頭上にはどこまでも澄み渡った晴天の青い空が広がり、吹き抜ける風も五月らしく実に気持ちが良い。ボランティア活動をするには絶好の日和だというのに、俺の気分はどうしても晴れなかった。
「せっかくの連休なのに、朝から手伝ってくれてありがとうな、
トングで空き缶を拾いながら佐々本さんが気さくに声をかけてくれたが、俺は「いえ、暇なんで……」と返すのが精一杯だった。
口ではそう言いながらも、俺の頭の中は昨夜の帰り道にシロさんから告げられた言葉でいっぱいだった。
『今回の件、君にどうするか決めてもらおうと思う』
シロさんは車のシートに体を預けたまま、淡々と言ったのだ。
なぜ俺が決めなきゃいけないのか、その理由を尋ねたけれど、シロさんにはいつものように上手くはぐらかされてしまった。結局、混乱したまま自宅の前へ到着してしまい、そのまま帰宅するしかなかったのだ。
今日の午後、相談所に行ったら、もう一度シロさんに真意を聞き出そう……。
ゴミ袋を片手に、俺はそんなことばかりをぐるぐると考えていた。
俺は佐々本さんや、同じ有志グループのメンバーである
大型連休の真っ最中ということもあって、川沿いの開けた道には、小さな子供を連れて散歩を楽しんでいる家族連れの姿がそれなりに多く見受けられた。
作業中の他愛のない雑談は、自然と「ゴールデンウィークの予定」についての話題になる。
佐々本さんの同僚であるという菊地さんには奥さんと小さなお子さんがいるらしく、連休の前半は県外の観光地へ遊びに行ってきたそうだ。少し疲れたように、けれど嬉しそうに話してくれた。
「子供が喜んじゃってさ、ホテルの大きな温泉に何回も付き合わされたよ」
「いいじゃん、俺も作並あたりで日帰り行ってくるかな」
温泉と聞いた瞬間、脳裏に昨夜の記憶が鮮明に蘇り、思わず口が動いていた。
「あの……俺、昨日、友達と
シロさんのことをいちいち説明するのが面倒だったため、とっさに友達という言葉で濁して話を切り出した。
すると、それまで穏やかにゴミを拾っていた佐々本さんと菊地さんの手がピタリと止まり、ぎょっとしたような顔で俺を見た。
「えっ……? 藤見くん、ガラケーじゃなかったっけ? もしかしてSNSとか始めた?」
佐々本さんが目を丸くして尋ねてくる。
「いえ、俺はそういうのはやってないです。一緒に行った友達から、あそこに銭湯があるって聞いて……」
俺がそう答えると、佐々本さんと菊地さんは何とも言えない複雑な表情で互いに顔を見合わせた。
そのあからさまに妙な反応を不思議に思いながらも、俺は話を続けてみることにした。
「あそこ最近流行ってるらしくて、若いお客さんですごく混んでいました。俺、銭湯って初めて行ったんですけど……お二人は岩之湯に行ったことありますか?」
午後になり、軽い昼食を済ませた俺は、重い足取りで相談所へと向かった。
ドアを開けると、いつものようにシロさんと
俺は到着するや否や、挨拶もそこそこに、気になって仕方がなかった岩之湯の本当の評判について二人へ問いただした。
「あの、今日、川沿いの清掃で佐々本さんたちから聞いたんですけど……。二人は、知ってたんですか?」
岩之湯はSNSで流行っている。
しかし、その実態はレトロな映えスポットなどという綺麗なものではなく、今やほぼ炎上に近い状態なのだという。俺は午前中、佐々本さんのスマホでその現状を見せてもらい、言葉を失った。
ネット上には、純粋に「良い銭湯だった」と投稿している人も僅かにはいたが、大半は批判的な声か、若者がふざけ半分で投稿した悪質なものばかりだった。
『湯船までスマホ持ち込みOK』というルールのせいで、脱衣所や浴場で半裸のままはしゃぐ動画が平然とアップされていて、その画面の隅には困惑した他人の姿が映り込んでいたりする。さらに『必要な物の持ち込みOK』というルールを悪用し、大量のお菓子やシャンプーを脱衣所に持ち込んで、ふざけながら開封して散らかす動画もあった。
……昨日、マナーが悪い客もいるなとは思ったけど、まさかあんなことになっているなんて知らなかった。
それに何より俺が驚いたのは、世間から岩之湯が「バズるためにネットリテラシーを捨てている」と思われていることだった。ルールを定めたのは店側なのだから、あの無法地帯を推奨しているのは岩之湯自身だと見なされているのだ。
佐々本さんも菊地さんも、ネットの映像を見て「そういう店なんだ」と思っていたらしい。だからこそ、俺がそんな場所へ行ったと聞いて、そういうところへ進んで行くタイプだったんだと、心底ぎょっとしたのだという。
俺の言葉に、梨奈さんは少し困ったように眉を下げて頷いた。シロさんもまた、いつもの飄々とした調子のまま「ああ、知っていたよ」と口にした。
「俺は
シロさんは手元にあるスマホを俺に向けて軽く振ってみせる。梨奈さんはどこか言いにくそうに、視線を泳がせた。
「私は先月くらいかなぁ……。一応、市内のネットの情報はなるべくチェックするようにしてるから」
「そう、だったんですか……」
じゃあ、なんで――。
言いかけて、俺はぐっと言葉を飲み込んだ。
岩渕さんに、どうして教えてあげないのか。そう言いそうになったけれど、昨夜「若いお客さんがたくさん来てくれて助かってるんだ」と嬉しそうに汗をかいていた、あの岩渕さんの顔を思い出す。
機械のことが全くわからないという岩渕さんは、
そう思うと、胸が締め付けられるようで何とも言えなかった。
昨日、シロさんは『岩渕さん本人がいいなら、それでいいんだろうとは思うが』と言っていた。
確かに、俺も岩渕さんにとっては知り合い程度、あるいはそれ以下の薄い付き合いでしかない。注意してあげるほどの関係性なのかと言われればそれまでだし、たかが高校生の俺が何か言ったところで……。
それでも、俺はおそるおそるどちらともなく訊ねた。
「……炎上してること、岩渕さんに教えてあげたほうがいいんでしょうか」
「教えてどうする?」
シロさんから、静かに質問が返ってくる。
「どうするって……でも、たぶん岩渕さんは何も分かってないですよね。あんなの……」
佐々本さんに見せてもらった動画には、脱衣所でわざと口からお菓子をこぼしながら食べる若者が映っていた。『持ち込みチャレンジ!』と称して十種類ものシャンプーを並べ、「これ全部必要なんです!」とわざとらしく岩渕さんに懇願し、困惑する表情を面白おかしく撮影しているもの……。自分の知らないところで、晒されているのだ。
シロさんはほんの少しだけ眉を下げると、静かに首を振った。
「あの銭湯から受けている相談がその件についてだったら、言えることは言うんだがな。……俺たちが依頼されているのは深夜に聞こえた音とボロボロになった菖蒲――垢嘗めについてだけだ。SNSのことは何も頼まれていない。相談されてもいない他人の事情に、こちらから勝手に口を突っ込むのは筋違いだろ」
シロさんの言い分は、ぐうの音も出ないほどに正しい。
内心ではどうしても納得がいかなかったが、じゃあ自分が岩渕さんの前に立ってそれを突きつけられるかと言われれば、やはりそれは難しかった。
「……そう、ですね」
俺は眉間に皺を寄せたまま、返事を絞り出した。
そんな俺の様子を見て、シロさんはふっと息を漏らす。
「まぁ、そう気落ちするな。俺にだって思うところはある。だから、伝えるべきことはちゃんと伝えるつもりだよ」
その言葉に、俺はパッと顔を上げてシロさんの顔を見つめた。
するとシロさんは、何事もないように話を切り替えたのだ。
「ところで惟、昨日の垢嘗めの様子を覚えているか?」
「え?」
岩之湯の現状についての話だと思っていたのに、急に妖怪の話に戻されて、少し拍子抜けしてしまう。
けれど、俺は渋々、昨夜見たあの不気味な姿を思い浮かべた。
「……はい、覚えてます。子供くらいの大きさで、けっこう小さくて……とにかく汚かったです。全体的に黒ずんで汚れてて、なんていうか、生まれてから一度もお風呂に入ったことがないみたいな……あと舌が長い」
俺が思い出しながらそう説明すると、そばで聞いていた梨奈さんが「えっ」と、ちょっと顔をしかめて引いたような表情をした。
「そうだ、それが一般的な垢嘗めの特徴だ」
シロさんは満足そうに頷く。
「昔は今ほど街が整備されて綺麗じゃなかったからな。民家や工場、特に垢が発生しやすい風呂場のような場所に現れて、その名の通り垢を舐めとる妖怪だ」
「だから、あの銭湯にいたんですね」
「ああ、そうだ」
なるほど、と納得しかけた俺だったが、ふと脳裏に強烈な違和感が引っかかった。
あれ? でも……昨夜、あの垢嘗めが必死になって舐めていたのは、何だっただろうか。
「……シロさん。あの垢嘗めが舐めていたのって、床の垢じゃなくて菖蒲の葉でしたよ?」
苦しそうに身を震わせ、泥のようなヘドロを何度も吐き散らしながら、それでもしがみついていた。
「菖蒲って……あれって確か、厄除けになるんですよね?」
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