『二年目の呪い:狂気の職人が遺した家』
トモさん
第1話:新しい家の、完璧な空気
第1話:新しい家の、完璧な空気
新しい家は、完璧だった。
高校一年生の杉山茜(すぎやま あかね)は、リビングの掃き出し窓から差し込む午後の光を浴びながら、そう確信した。
前の家は築三十年で、廊下の軋み、台所の排水溝から漂う下水管の匂い、そして隣家の子供の癇癪声が日常だった。だが、この家にはそれがない。
今住んでいる家は、築二年。新築とほとんど変わらない。不動産屋の言葉通り、前の住人が急な転勤で手放したという「優良物件」だ。白い壁紙はまだ糊の匂いがするほどで、フローリングは光を反射して眩しい。
「…あかね、ぼーっとしてないで。まだ荷解きが残ってるでしょ」
キッチンでダンボールと格闘していた母、秋乃(あきの)が声を上げた。秋乃もまた、この「完璧な家」に満足しているようだった。何しろ、彼女は前の家の薄暗い台所を心底嫌っていたのだ。
「分かってるよ。でも、なんだか勿体なくて」
茜はそう答えたが、実際には、ただこの家の空気に浸っていたかった。換気扇を回さなくても澱まない、埃一つ落ちていない、冷たいほどに清潔で均質な空気。
父、光一(こういち)が言った。「公務員の俺が、しっかりローンを組んで買ったんだ。思う存分楽しめ。もちろん、綺麗に使えよ。二年で手放すなんてもったいないことをするもんじゃない」
光一は今日も休日出勤で、もうすぐ家を出る。彼は新しい家でも、常に「ルールと秩序」を重んじる。彼の理性的で現実主義的な性格は、この新しい、完璧な家と驚くほど調和していた。
その時だった。
秋乃がキッチンで、急に動きを止めた。
「…あれ?」
秋乃はシンクの隅に顔を近づけ、鼻をひくつかせた。
「どうしたの、お母さん?」
「なんか、変な匂いしない?すごく、薄いんだけど…」
「匂い?」
茜は鼻を鳴らした。無臭だ。新築特有の建材の匂いすら、もうほとんど感じない。
「気のせいだよ、秋乃。新築の建材の匂いが残ってるんじゃないか?それより、俺のワイシャツを出しといてくれ」
光一は腕時計を見ながら苛立たしげに言った。
秋乃は口を噤み、再びシンクに顔を近づけたが、すぐに諦めたように顔を上げた。
「そうね、気のせいかも。ごめんなさい、光一さん」
秋乃は少し俯いた。前の家では、秋乃の「匂いが気になる」という訴えは、光一に「神経質だ」と一蹴されるのが常だった。
茜はふと、リビングとキッチンの間の、白い壁に目をやった。
その壁は、どこまでもフラットで、一切の継ぎ目が見当たらない。
(この家は、本当に完璧なんだ)
そう思った瞬間、茜の背筋に、冷たいものが走った。
それは、空気の冷たさではなかった。
まるで、その壁の中に、誰かがこちらをじっと見ているような、薄い、薄い視線を感じたのだ。
「あ、かね?」
母の声で我に返った。壁には何もいない。いつもの、光を反射するだけの完璧な白い壁だ。
「ううん、なんでもない。荷解きするね」
茜は恐怖を振り払うようにそう言ったが、心臓はまだ、さっき感じた「薄い視線」の残像で、どきどきと音を立てていた。
この新しい、完璧な家で、まだ誰も気づいていない。
異変は、静かに始まっていた。
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