〈9〉ニョマンは働いています

ニョマンは働いています


それは彼女がボクの隣で

眠るようになってからも変わりません

今朝も、いつものようにフルーツを配ったり

神様に供える花を集めたり、していました

その間にボクはブラブラしたり

ひとり出掛けたり

しています


今日は

“レギャン”に行ってきました

というか、今日も行ってきました

“レギャン”は、このところのボクのお気に入りです


“レギャン”はどちらかというと、ヨーロッパのツーリストに好まれるビーチです

買い物やレクリエーションには不向きなロケーションですが

ロングステイ用のログハウスなんかが点在していて

日がな一日、ぼんやり過ごすには最適な

ビーチと言えるのではないでしょうか


レギャンとクタは隣り合っていましたので

歩いてもカトキチ号でも行き来する事が出来ました

ところが、サンセットの時間になっても、レギャンはクタほど

混み合う事はありません、何故、混み合う事がないのか?それは

ガイドブックに載っているか、いないか位の差では無いかと、思われるのでした


そして、日のある内はフカフカなビーチも、日が翳ると締まりだして、サンセットの頃には

カトキチ号でも走れるくらいの硬さになってしまうのでした、何故、そうなるのか?

それも誰にも分からないのですが、夕暮れ時の波打ち際をクタから

レギャンまで、駆け抜けて行くボクとカトキチ号は、きっと

ルパン三世のシルエットに見えたことでしょう


ついでに言うとレギャンは

ヌーディスト・ビーチでもありました


ヌードになるもならないも、それは自由でしたが

映るもの全てをシャンパンゴールドに輝かせてしまう

マジックアワーは、日焼けした肌のお披露目には最適の時間帯でも

ありましたので、ボクとカトキチ号は全裸のマーメードたちが

笑顔で手を振るサンセットのビーチを、8の字ターンで

駆け抜けて行くことになるのでした


この場所をボクに

教えてくれたのはニョマンでしたが

彼女はここに来たことは無いと言います


「行かないの?」と、聞くと『ソノウチ』と、応えます


どうやら、ニョマンはヌーディスト・ビーチが好きではないようです

だったら、どうしてボクにレギャンを勧めたのか?

女心とヌーディスト・ビーチ、どちらも

ボクの理解の外にあるのでした


コテージに戻ると

プールが賑わっていました

賑わっていると言っても3人でしたが

しかし、日没後のプールには珍しい人の数です


「グッド・イーブニング」

“ハァーイ”


その人たちは、フランク・フルトからのツーリストで、レギャンを拠点に

バリを巡っていると言います、仕事の出来そうなビジネスマンと

その奥さん、そしてビジネスマンのお母さんの3人組でした


「ドイツの人でもバケーションするのですね」

と、ボクが言うと

“アナタも日本人なのにバケーションなのでは?”

と、言いわれ、そうだなと思いました


“今夜はこちらのカフェで食事をしました”

「そうでしたか、楽しめました?」

“はい、彼のおかげで”

と、そのビジネスマンは

カウンターのカトキチにウインクしました

カトキチはそれを受け、サムズアップしました


“プールは久しぶりです”

「そうですか、ゆっくりして下さい」

ここではヌードにならないでね


“もう、こちらは長いのですか?”

ビジネスマンがボクに聞きました

「エ~と、2週間くらいですかね」


そうです、気がつけばボクはもう、2週間もこのコテージにいるのでした


“私たちと同じくらいですね”

「そうですか」

“おかしなものですね”

「何が、です?」

“我々は三国同盟だったのに、英語で話している”

そう言って、彼は微笑むのでした

「オオ」

と、ボクも声を上げました


“次はイタリア抜きでやりましょう”

「まだ、ヤリますか?」

“勝つまでは”

「ハハハ」


それぞれに別れを告げ、部屋に戻ったボクを、ニョマンが迎えてくれました


「ただいま、戻りました」

『おカエリなさい』

「プールでドイツの人に会いました」

『ワタシもアイました』

「親孝行のビジネスマンでしたね」

『ウラヤマシイです』

「そうか、ごめんなさい」

『アナタがアヤマルことではありません』

「そうでした」


お気づきでしょうか

ニョマンの日本語が上達しています

バリニーズの若者たちをボクの部屋に長居させない為の

“ボクとニョマンのマンツーマン日本語会話教室”は

ふたつの成果を上げつつありました


ひとつは、ボクの

インドネシア語の上達です

それは奇しくも、フロントに置いてあった

テレビの子供番組にニョマンがハマってしまい

それに、つられて見ているうちにボクのインドネシア語

までもが、上達してしまったと言うワケです


もうひとつは、ニョマンの識字です

驚かれるかも知れませんが当初

彼女は文字を読みませんでした


アルファベットもカタカナも

およそ、義務教育と子供の権利から

遠く育ってしまった彼女にとって“文字”と“絵”は

どちらも見るモノであって読むモノでは無かったようです


“なんとなく分かる”


それが、彼女の“文字”に対する

イメージであったように思われます


しかし、彼女は

近隣の方々の愛情と、神様の庇護のもと

こんなにも素直で美しい女性に育つことが出来ました、それなら

ボクも“文字”の無い世界で教育を受ければ良かったのではないのか

そうすれば、も少し、素直で賢いオトコ前になれたのではないのか

なんて、思ってしまう今日この頃なのでした


それは、さて置き、ニョマンの

“アナタと日本語で話したい”という

当初の課題目標は、ほぼ完遂されつつありました

それほど、彼女はこの一週間、頑張りました、頑張って

言語が、一週間で習得できるのなら誰も苦労はしませんよと

思われるかも知れませんが、そこが言語学習の面白いところでして


“赤ちゃんはいつの間にか話せるようになります”


これは、わが師イスマイル・ナジールの言葉です、つまり、言語に於いてはその様な

現象が起こり得る素地があるのでは無いかと言うことです、しかし今回の

ニョマンの言語学習の成果を、彼女が持っていた言語適正だけを

もって評価するのは不適切な判断のようにも思われました

それほど彼女はこの一週間“頑張った”のでした


因みにボクは

“頑張る”と言う言葉は好きではありません

“頑張る”という言葉は本来、自分の能力を超えても

成長せんとする場合においてのみ使って良い言葉だと思っているのです

当たり前に為すべきことを成しているのに、与えられた責務をこなしているだけなのに

“頑張ります”とか“頑張りました”とか軽々しく口にして良い単語ではないと思っているのです

“頑張る”が頻発される会話は、まるで“自分は頑張らないと出来ないバカなのです”

と、自分を落としめて発表しているようにさえ、聞こえてならないのでした


しかし、今回のニョマンの一週間は、本来の単語の意味としての

“頑張った”を実践した一週間であったと思っています


何も、カトキチが頑張っていなかったと

言っているのではありません、そこは、ニョマンの能力が

突出していましたので、比較してはカトキチが可哀想だと言っているのです


(ナンダッテ!)


「ねえ、ニョマン」

『はい』

「日本語学習は、楽しいですか?」

『ガクシュウ?“タノシイ?”のカンジはどうカキます?』

「漢字?」

『タノシイに“クサカンムリ”は、いりますか?』

「大丈夫です」

『そのダイジョウブはどっちのダイジョウブです?』


なんと、もう、ニョマンの学習意欲は“漢字”と

そのニュアンスの理解にまで及ぼうとしているのでした


「大丈夫と、言うのは、ですね」

『あの、ちょっと』

「はい」

『マエからキになっていたのですが』

「はい」

『そのテにモッテいるホンはナンですか?』

「コレですか?」

『はい』

「コレは、辞典です」

『ジテン?』


ニョマンがボクの愛蔵書である“日英インドネシア語辞典”にその目をロックオンしました


『ジテンて、ナニです?』

「言葉を並べて説明している本です」

『コトバをナラベテ、セツメイしているホン?』


ニョマンが瞳をキラキラさせました


『そんなホンがあるのですか』

「見ます?」

『いいですか?』

「どうぞ」


ボクから受け取った“辞典”を、ニョマンはペラペラと捲りました


「どうですか?」

『おもしろいです』

「そうですか」

『こんなホンがあるのですね』

「良ければ」

『エッ』

「差し上げます」

『いえ、いえ、それは』


そう、言いながらもニョマンは“辞典”から手を放さないのでした


「大丈夫です」

『それはどっちのダイジョウブです?』

「大丈夫の大丈夫です」


ニョマンが口角を上げました


「では、貸します」

『カシマス?』

「しばらく、使っていて下さい」

『ツカッテ?』

「貸します」

『では、カシます』

「ボクは貸します、ニョマンは借ります」

『ニョマンはカリます』

どうぞ


それから、辞典の使い方を説明しました


「まずは、単語の調べ方から」

『タンゴ?』

「文字が意味を持つ最小の集まりです」

『モジ、イミ、サイショウ、アツマリ?』

「何か、ひとつ“辞書”から選んでください」

『タンゴを、ですか?』

「はい」


ニョマンが“辞典”を開いて最初の単語を指差しました


「それは“空”と言う“単語”ですね」

『ソラは、どういうイミですか?』


ボクは自分の指を上に向け


「アノ、雲の先の青いところです」と、言いました


『ランギットですか?』

「そうです、ちなみにインドネシア語の“キラキラ”は日本語にもあります、調べて下さい」


ニョマンが辞典のページを捲りました


「アルファベット順に並んでいますから」

『アルファベット?』

「アッ、五十音順でした」

『ゴジュウオンジュン?』

「どちらも言葉の並ぶ順番ですね」

『コトバにジュンバンがあるのですか?』

「分類上はあります」

『ブンルイジョウ?』

て、顔をニョマンがしました


『ありましたニホンゴの“キラキラ”はインドネシアの“ギラッ”ですね』

「そうです、インドネシア語の“キラキラ”は日本語では“おそらく”と言う意味です」

『オモシロイですね』

「面白いですか」


だいたい、それくらいでニョマンは辞典の使い方をマスターしたのでした

“言葉”が“文字”で表せるという概念を得たニョマンは

“耳”が音を覚えるように“目”で文字を覚えるのでした


『シツモン、いいですか?』

「どうぞ」

『バリにきた、リユウは?』

「おお」


そっちの質問でしたか


『コタエたくなければ、コタエなくていいです』

「これと言った理由があった訳ではありませんが、いろいろと」

『どんないろいろと?』

「そうですね、まぁ、色々と」

『タトエば?』

「例えば?」

『コイとか?』

「おお、どうしてそう思いました?」

『ワカモノのナヤミとイエバ、コイです』


ニョマン、スルドイ


『シッパイしましたか?』

「しました」

『どんなシッパイしましたか?』

「イッパイ、失敗しました」

『どんなイッパイ?』

「フフッ」


笑って、誤魔化しました


『シゴトはナニをしていましたか』

「質問が、かわりましたね」

『コタエたくなければ、コタエなくていいです』

「ヘアー・メイクです」

『ヘアー・メイク?』

「髪を切ったり、メイクをしたり」

『キッタリ?』

「髪を切る仕事です」

『そうですか』

「はい」

『オンナのヒトの?』

「どちらも切ります」

『どちらも?』


ニョマンが困惑した顔をしました


「予約が入ればどちらも切ります、仕事ですから」

『そういうおシゴトだったのですか』

「そう言うって、どう言う?」

『そういう、です』

「ああ、そう言う事ですか」

『どうイウことです?』


おそらく、ニョマンはバリ島の女の子が

“初めて髪を切る”という事を言っているのだと思います

それを、仕事として日本でしていたのかと、ニョマンはボクに聞いているのです


「髪を切ると言っても、それは仕事で髪を切っているのですから」

『エッ、シゴトでカミをキッテいたのですか?』

「そうですよ、いや、違いますよ」

『ドッチです?』


ですから、仕事で髪を切ると言っても


「それは、バリで女の人が結婚の証として切るのとは違いますから」

『それは、つまり?』

「それは、つまり、もう何度も髪を切っている人の髪を切ると言う事です」

『シゴトとして?』

「ワザと言っているでしょう」

『フフッ』


『つまり、ニホンのヘアー・メイクと、バリのケッコンはチガウのですね』

「そういう事です、日本では結婚の証に髪を切ることはありません」

『なるほど、アナタはニホンでカミをキリすぎてバリにキタノですね』

「アラ、まあ、ニョマンは“いやみ”を言えるようになったのですね」

『イヤミ?』

調べなくていいです

『イヤミ、イヤミ』

ニョマンの辞典を引く速度が上がりました


そうです、いつの間にかボクはこちらに来た理由を

忘れかけていました、まあ、今となっては

どうでもいい、理由ではありますが


『ありました“イヤミ”は、ヒトのイヤがるコトをチョクセツいう、です』

「直接、言う?」

『カンセツテキにいうのは“ヒニク”だそうです』

「そうなんだ」

『ジテンはベンリです』

「ホントですね」


ニョマンが優しくて良かったと思うボクでした


『それで、ワタシのカミはいつキッテくれます?』

「何時って、それはどういう意味の?」

『ソレがアナタのおシゴトでしょう』

「仕事ですけど、バリで髪を切るのは結婚の“証”になるのでしょう?」

『アカシでなくても、アナタはカミをキルでしょう?』


前言の“ニョマンが優しい”は、撤回させて頂きます


『キッテくれないのですか?』

「何を言っているのか、イミが分かりません」

『コンナニのばしたのに、ヨヤクすればいいですか?』

「ハイッ!」

『ハイッ?』

「本日の授業はこれにて終了!」

『シュウリョウ?』

「今夜も日本語が上手になりましたねぇ~」

『イヤ、まだ、ハナシのトチュウですから』

「今夜の晩御飯が楽しみですねぇ~」

『オイオイ』

「何にします?」


『カラクするぞ』

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