〈8〉クタの朝は極楽鳥に起こされますが

クタの朝は極楽鳥に起こされますが


今朝はニョマンに起こされました

『スラマ・パギ』

「スラマ・パギ、あれっ?」

『アレッ?』

「日本語で話すのでは」

『そうでした、日本語の“スラマ・パギ”は何と言います?』

「おはようございます、です」

『オハヨウゴザイマス、デス』

「です、は要りません」

『デス、ワイリマセン』


なかなか、新鮮な目覚めとなりました


カフェで朝食を食べている間に

ウルワツまでの道程をカトキチに聞きました

チュルックと反対方向にクタから一時間ほど

カトキチ号を走らせると着くようです


これは「ミズ」これは「チヅ」

指を差しながらテーブルにある単語を

声に出しました、彼女は一度聞くとだいたい覚えます

耳が良いのでしょう、日差しが強くなる前に着ければと、早めの

出発にしました、後部座席のニョマンにもだいぶ慣れてきました


ウルワツに着くまでの間に彼女は

『ドウシテ?』『ホントニ』

『マタ、マタ』『ハイ、ハイ』

なんて、日本語を話すようになりました


末恐ろしい女性です、少女です、いや、女の人です

と言うのも実のところ、ニョマンの年齢が不詳です、彼女も

自分自身の年齢を、正しくは把握していないようです、それは

現在のバリには“ウク暦”“サカ暦”“太陽暦”アンド・モアな“暦”が

混在していて、同時進行的に日常と人々の生活に関わっているからです


日本にも、旧暦、五節句、盆暮れ正月なんて暦が、今もそれなりに

機能しているでしょう、それのもう少し重い感じに、それぞれの

暦がバリでは機能しているのでした


一年が250日だったり

一週間が5日だったり、3日だったり

やっぱり7日だったりして、勿論、外交的には

太陽暦で応じていますが、ニョマン的には

太陽暦が一番馴染みの薄い

暦だったりするのでした


それで、彼女の年齢は

16歳18歳27歳、アンドモアからの

選択が可能になるのでした、しかし、そんなのは

彼女の発育状況を見れば、だいたい分かることで


フム、フム


『ナニカ?』

「はい?」

『ミテイマシタね』

「なにを?」

『ジロジロと』

「いえ」


うん、微妙です


ウルワツは断崖絶壁に建つ、荘厳なヒンドゥー教寺院と

サンセットの美しい岬として有名な景勝の地でしたが

今回のニョマンの求めているところは

他にありました


「知り合いを探すのですね」

『ハイ』

ニョマンは昨夜

『チュルックでは、お墓を探していました』

と、教えてくれました


「お墓?」

『はい、家族のお墓が見つかりません』

「それは、どういう?」

『その時、ワタシはまだ幼くて』

「その時と言うのは内戦の?」

『はい、今となっては誰にその場所を聞けば良いのかも分かりません』

「そうでしたか」

『なので明日のウルワツでも、分からないかもしれません』

「楽しみですね」

『楽しみ?』

「分からないかもと言う事は、分かるかもと言う事でしょう」

『ポジティブ』


岬に着くとニョマンが質問を、ボクが

移動を担当して調査を進めました、太陽暦で

10数年前の出来事でしたが、覚えていてくれる人は少なく

覚えていてくれたとしても、ニョマンの求める情報は得られないのでした

内乱の記憶というのは思い出したくない記憶なのかも知れません、ただ

時間だけが過ぎて行きました、岬の茶屋でお昼を食べている間も

彼女は尋ね歩きましたが、手掛かりを得る事は

出来ないのでした


茶屋の隅っこに

土産物屋さんがありました

そこに、店番のお爺さんがいて

お爺さんは椅子に座り、海を眺めていました


ボクはそのお爺さんの事が気になり、気になるともう

どうしようもなくなり、じっと、見つめてしまいました

気が付くとお爺さんもボクを見ていて

ボクもお爺さんを見ているので

気不味くなりました


お爺さんが自分の方へ

来るよう手招きしましたので、ボクはそうしました


⦅日本人かッ?⦆


目の前にやって来たボクに土産物屋のお爺さんが

言いました、何故か“ドス”の効いた日本語でした


「は、はい」

⦅アレを見てみよッ⦆

「ハイ?」


お爺さんの指差す方向に、波頭に洗われた残磯がありました


⦅アレは、九七中戦車“チハ”だッ⦆

「チハ?」

⦅ソノ、横に有るのが“紫電改”ッ⦆

「カイ?」

⦅みんな、沈んでしまったッ⦆


そう言われて見ると、なんだかそんな形に見える磯の姿でした


⦅ワシは、国民学校の出身だッ⦆

「日本の人ですか?」

⦅違うッ⦆


表情からお爺さんの意図は、見て取れませんでした


陸軍と違い、日本海軍が占領していたバリ・ジャカルタ方面には

不思議と、親日派のインドネシア人が多い、そんな嘘とも誠ともつかない

噂話を思い出しました、しかし、そんなのは加害者が被害者に都合良く描いた

希望的観測に過ぎないとボクは思うのでした、如何なる理由があれども

戦時下における日本軍がアジアの人々と地域に行った

行為は、許されるものではありません


どんな理由があっても

自分で作れないものを

壊してはいけないのです


「ミンタ・マア・アフ」

“申し訳ありません”

⦅アパ?⦆

⦅なんだ⦆

「ミンタ・マア・アフ・ドゥンガ・トゥルース」

“心よりお詫びします”

⦅ムンガパ・ウンカウ・ビチャラ・バハサ・インドネシア?⦆

⦅どうして、アンタがインドネシア語を喋っている?⦆

「サヤ・ブラジャール・バハサ・インドネシア」

“勉強しました”

⦅ディ・マナ?⦆

⦅何処でだァ⦆

「ウニフェルシタス・ディ・キョウト・ジュパン」

“京都の大学です”

⦅アッディウ!⦆

⦅何と言う事だ⦆


何とも言えない顔でお爺さんがボクを見つめました


⦅アンタは日本でインドネシア語を学んだと言うのかッ?⦆

「はい」

⦅日本の大学ではインドネシア語を教えるのかッ?⦆

「教える大学もあります」

⦅そんで、今、アンタはワシにインドネシア語で謝ってくれたんかッ⦆

「申し訳ありませんでした」

⦅なんでアンタが謝る?⦆

「イスマイル・ナジールは言いました」

⦅誰だ、それはッ?⦆

「ボクの“師”です」

⦅その先生はインドネシア人かッ?⦆

「はい、ジョクジャカルタ生まれと聞いています」

⦅そうか、それでその先生は何と言ったッ?⦆

「わが師は“いろいろありましたが、私達は仲良くしましょう”と、言いました」

⦅その先生がかッ?⦆

「はい、ボクもそれがいいと思いました」

⦅今日は、なんと良い日だ⦆

「はい?」

⦅ワシは国民学校で“日本語を話せ”と言われたッ⦆

「そうだったんですか」

⦅アンタは誰からも言われずに、インドネシア語を話しているッ⦆

「まあ、それは、たまたまです」

⦅それでいい、今日でワシの戦争を終わらせることにするッ⦆


エエ~


⦅サヤ・ムマアフカン・ジュパン・ハリ・イニ⦆

⦅今日で、日本を許す⦆

「ブトゥルカ?」

“本当に?”

⦅トゥントゥ・サジャ!⦆

⦅許すと言ったら許す!⦆

「ありがとうございます」

⦅どういたしまして⦆


戦争とか歴史の部分は

ボクにはどうすることも出来ません

けれどボクは今日、ウルワツで許されました

先に、岬のお爺さんが許してくれました、だったら

ボクはこれから、どうすれば良いのでしょう?

どうやってバリの人と接していくのが

良いのでしょう?先ずはお礼から

始めるのが良いのでしょうか


「ありがとうございました」

⦅シン・ケン・ケン⦆


「そうだ、お土産を買おうかな」

て、お爺さんに言ったら

⦅無駄遣いするなッ⦆

って、叱られました


⦅今日からオマエはワシの“友”だッ⦆

「トモダチですか」

⦅何だ、厭かッ⦆

「いえ、大丈夫です」

⦅ダイジョウブって、なんだッ⦆

「フフッ」

お爺さんがボクの“トモ”になりました

“トモ”にニョマンを引き合わせると

⦅ワシの知り合いにも聞いておこう⦆

と、言ってくれました

⦅まあ、そうガッカリするな、生きていれば良い事もある⦆

ボクの“トモ”は良い事を言います

⦅そうだ、代わりと言ってはなんだがッ⦆

「はい」

⦅ワシの“とっておき”を教えよう⦆

「とっておき?」


そう言うと“トモ”は

ニョマンにだけコッソリ、耳打ちをしました

それがくすぐったかったのかニョマンは、身をよじらせ聞いていました


⦅覚えたかッ⦆

『今から、行っても?』

⦅おお、行ってこい⦆


ニョマンが岬の突端に向かい歩き出しました

彼女に手を引かれ、ボクもついて行きました、振り返ると

⦅見送らんッ⦆と、言っていた“トモ”が手を振ってくれています

「また、来ます」と、言おうとしましたが⦅噓をつくなッ⦆

って、叱られそうで、ヤメました


その間にもニョマンは

ずんずん進んで行きます

もう、崖の端が切れようとしていますが

それでも、ニョマンは膝まで伸びた草丈の

何かが潜んでいそうな草原を、まだまだ進んで行くのでした


「アノ~」

『ハイ』

「蛇とか」

『ヘビッて、ナンです?』

「長くてニョロニョロした生き物です」

『ニョロニョロ?』

「いませんか?」

『ダイジョウブです』


とても大丈夫に、思えそうにない草原を

ニョマンはまだまだ進んで行くのでした、そして

突然『アリマシタ』と、言ったのでした


「アリマシタ?」

『アナです』

「アナデス?」


彼女が見つけたのは

草原にポツンと開いた“アナ”でした

一年で一番大きなスーパームーンくらいの

なんだか光って見える“アナ”がそこには開いていたのでした


「探していたのは、それですか?」

『はい、ミツカって、ヨカッタですね』

躊躇いもなくニョマンはその“アナ”に顔を突っ込むのでした

「ナニをしているの?」

『アッディウ!』

「どうしました?」

『ブルシラッ』

「綺麗なの?」


顔を上げたニョマンは、その手に紐の様なものを掴んでいました


「ヘビッ?」

『ロープですね』

「ヘビでしょう」

『ハイ・ハイ』


ニョマンはそのヘビの様なものを“アナ”に戻すと

今度はもう一度、足からその“アナ”へ入って行ったのでした


「だから、ナニをしているの?」

『サア、イッショに』

「ヤですよ」

『ホントに?』


草原に顔だけ出したニョマンが、ボクを“アナ”の中へ引きずり込もうとしています


「アブナイでしょう」

『ダイジョウブです、サァ、サァ』

「行きませんよ」

『ドウシテ?』


尻込みするボクを尻目に、ニョマンが

どんどん“アナ”に入って行きます、もうニョマンが

“アナ”に消えようとしています、ボクは急いで駆け寄り

ニョマンが消えてしまった“アナ”を覗き込みました、するとニョマンが


『キャアー、オチルー』


とか、叫びながら“アナ”に吊るされた縄梯子に掴まっているではありませんか


『タスケテ~』


嬉々として叫ぶその姿は、落ちるというよりは縄梯子を

エンジョイしている、そんな姿にしか見えないのでした


『サァ、イッショに!』

「ヤ、ですって」

『マタ・マタ』


“アナ”に見えていた“ソレ”は“アナ”ではなく

逆に、その下の空洞の床から見上げているのだとすると

天井に開いた“開口部”と言った方が正しいのではないかと思える“アナ”でした

つまり、ここから見下ろしている“アナ”は、空洞へ降りて行く“イリグチ”に見えていますが

逆に空洞の底から“アナ”を見上げているとするなら“ソレ”は空洞の天井に空いた

“デグチ”に見えているのではないかと言う事です、要するにボクが、今

うつ伏せているこの場所は、その天井の“アナ”近くの、とても

脆くて薄い場所である可能性があると言う事です

そう思うとなんだか“ゾワゾワ”してきて、ボクは

ゆっくり後ずさりを始めたのでした


『ドウゾ~』

ニョマンがボクを、熱心に誘います

『ハヤクゥ~』

しかし、その時点でボクはもう、かなり後ずさりをしていましたので

『タノシーデスヨ~』

彼女が今、どれくらい縄梯子を進んでいるのかの、見当もつかないのでした

『キテ~』

ところで、あの縄梯子は人の重さに耐える品質が保証されているのですか?


『コワクないデスヨ~』


いや、やはりここはニョマンが

“アナ”の底に降り立つのを待ってから

行動するのが賢明でないかと思うのでした

その間にボクの気持ちも落ち着くかも知れませんし

落ち着かないかも知れません、なんてやっているうちにニョマンの

声が聞こえなくなってしまいました、いやいや、こうなると分かっていたなら

合図を決めておけば良かったのではないかと思うのです、でも、しかし

例え今、その合図が聞こえたとしても、ボクは行きませんが、だって

縄梯子で垂直降下なんて、レスキュー隊でもあるまいし


しかし、もし、ボクがここで行かなければ

ボクは、穴の底にニョマンを置き去りにした男として

未来永劫この地にその名を刻んでしまう事になってしまいます

そんなのはやはり、いけませんので「い、行きます」と、言いました


『ドウゾ~』


もう、ニョマンの声は聞こえていませんでしたが“アナ”に向った

ボクは前向きな気持ちで縄梯子に足を掛けたのでした

踏み替え、踏み替え、降りていきます

ついでに両端の縄も掴みます

ちょっと手のひらがチクチク

するのはロープがまだ新しいからですか?でも

ヌルヌルよりは良いので、しっかり握り締めて降りて行きます


縄梯子はボクがイメージした通りの縄梯子でした

グラグラもユラユラも、およそ予想通りの

不安定さです


『モスコシですよ~』


ニョマンの声が聞こえてきました、しかし

決して下を見ないと決めていたボクには

縄梯子があと、どれくらい続いているのか、見当が

つきません、ただ、ニョマンの“コエ”を頼りに降りて行くのみです


『モスコシです』


それ、さっきも言わなかった?

地面に足が着いたのを確認してからボクは目を開けました


『ミテ』


すると、汗ばんだボクの手が握りしめていた縄梯子の長さは、中々のものでした


『ホラッ』


顔を上げると降りてきた天井の“アナ”が、丸く青く空を切り取っているのが見えました


『ネッ』


その青以外の部分は、天井も壁も床も全てが漆喰で塗り固めたかのような白い世界でした


『アオイ、シロイ、キラキラしている』

「鍾乳洞」

『ショウニュウドウ?』

「鍾乳洞だよ、ニョマン」


上から見た時は気づきませんでしたが

ウルワツの断崖は石灰岩で出来ているようです

長い時をかけ堆積した石灰質の層が地表へ隆起し、その

一部が風雨に晒され浸食を受け、健やかにこの白い空洞を穿ったの

でした、ふたりは今、その悠久の時の流れを下から見上げているのです


よく見ると天井には鍾乳石が、足元には育ちかけの石筍が見えます

そのどれもがこれだけの白さを保てているのはこの鍾乳洞が

人に見つかってまだ日が浅いからでしょうか?サイズ

的にはマディソン・スクウェア・ガーデンくらい?

そこにスッポリ収まる白い楕円の繭玉みたい?

少し海側へ、傾いているようにも見えます


そして、この鍾乳洞には、ふたつの

方向から光りが差し込んでいるのでした

ひとつは天井の“アナ”からの白い光、もうひとつは

“アナ”と反対に傾いた繭玉が、岩壁にギザギザと作った

裂け目からの青い光、白い光はキラキラと、青い光はユラユラと

互いを補い合いながら、この鍾乳洞の全景を輝かせているのでした

もしかすると、あのユラユラの正体は“海”かも知れません

裂け目の向こうの浅瀬で水面に反射した赤道の陽光が

青く揺れながらこの空間に差し込んでいるのです

空の“アナ”と海の“裂け目”からの光を

取り込んだこの白い繭玉は

いつまでも自らの輝きを

止めないのでした


『インダッ・スカリ!』

ニョマンも同じ感想のようです

『チャンティ・チャンティ!』


キラキラはまるでひとつの生き物のように

ユラユラと止まらない時間の中で

何時までも消えない奇跡を

輝かせ続けるのでした


その姿にボクとニョマンの

視線は追いつく事が出来ません


『サヤ・スナン・ビサ・ヒドップ』

「生きていて良かった、ですか?」

『バグース』


鍾乳洞の美しさに、ニョマンが日本語を忘れてしまいました


『ワタシ、ずっと思っていたのですよ』

「何を、です?」

『不公平は神様が作っているのだと』

「オヤ、オヤ」

『でも、神様はこんなに美しい物も作れるのですね』

「そのようです」


ニョマンが目を閉じ、胸に手を当てました、神様と何か話しているのかも知れません

今日までのこと?これからのこと?いっぱい沢山、話して下さい

出来れば仲直りとか、して下さい


しばらくして海のギザギザから

潮が満ちてくると、鍾乳洞が半分青く

染まってしまいました、その様子を縄梯子につかまりながら

見守ったふたりは“こんな綺麗はやはり、神様にしか作れないね”と

思うのでした、そして、地上に戻ったボクとニョマンは“アナ”に蓋をしました


『この鍾乳洞は、これからのワタシ達の過ちの原因です』

『あと少しワタシ達が賢くなる迄、隠しておきましょう』


“トモ”には申し訳ありませんが、ボクも同じ意見でした

この美しさにボクらはまだ、幼過ぎるのです


サヨウナラ、ウルワツ

また逢う日まで

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