第2話 襲撃

侵略宇宙人たちの宇宙船だという白い光は、今日も空の奥に小さく居座っている。この一年間変わらない光景が雨雲に覆われていくのを、シグマは塀に凭れた体勢のまま眺めた。爆発が始まって十分が経ち、正門の辺りからは消防やパトカーのサイレンと人の声がひっきりなしに聞こえる。反対に、避難経路としても使い道のないこの辺りは静かなものだ。正面の立体道路を通過していく車から見咎められないよう、スマートフォンを操作する芝居などを時おり挟みつつ、彼は静かに待った。背負ったデイパックに遮断されて塀の冷たさが背中に伝わることはないが、代わりに吹きつけてくる冷たい風は、容赦なくパーカーの襟元から忍び込んできた。端末を保持する指先が冷たい。根負けしたシグマはいちどスマートフォンから顔を上げ、冷え切った右手を端末ごとポケットに突っ込んだ。その直後、彼の頭頂部に何かが飛び乗ってくる。シグマは驚いて首を竦め、それから空いた左手を恐る恐る頭の上へやった。火災の熱を帯びたプラスティックの脚が彼の手を掴まえ、胴体を撫でるよう誘導してくる。シグマはここで正体に気づき、頭に乗っている蜘蛛型ロボットを両手で目線の高さまで抱え下ろした。少しばかり煤に汚れたロボットは脚の一本を背中に回し、グルーミングのような動作でボディの汚れを落とそうとしている。シグマは着古したパーカーの袖でアームの届かない部分を拭いてやり、あらかた元の艶を取り戻した蜘蛛から『腹』をそのまま抜き取った。寸詰まりの蜘蛛を壁に貼り付かせて頭を撫でると、ロボットはまた元気にどこかへと這っていく。シグマはその姿に小さく手を振り、おにぎり型の小さな構造物を腹のポケットに滑り込ませた。 

 シグマがスマートフォンで連絡を入れていると、どこか間の抜けたヒールの足音がした。リズムを外した合いの手が混ざっているような音だ。振り返った彼の鼻を鉄臭いにおいが突く。高さ数メートルの塀を乗り越えてきたらしい人影は、女物のスーツに点々と血の痕をつけ、裂けた左の袖から刀を思わせる刃の先端を覗かせていた。一歩踏み出すと、パンプスの折れた踵がずれて人影の頭が揺れ、髪で隠れていた顔があらわになった。口元に残る擦れた赤は口紅かそれとも犠牲者の血か、シグマには分からない。長身の女にも、中背の男にも見えるその人影は、彼を捉えると壁に肘をつき、かすかに笑った。


「お前、手乗りサイズなら何でも可愛がるのな」

「……見てたんですか」

「でかいから目立つんだよ」


眼帯を外した左目も、コンタクトを外した右目も、紫の複眼に戻っている。最近ようやく見慣れたその顔から目を背け、シグマはこめかみを掻いた。デルタは腕に張り付くジャケットを脱ぎ、ポケットから『左手』を抜き取りながら彼に問いかけた。


「ワクチンは回収したか」

「はい」


シグマがポケットから蜘蛛の『腹』を取り出して見せると、デルタは小さく頷き、脱いだ上着で刃に残る血と脂を拭った。ポリエステルの生地に擦り付けられた血が誰のものかシグマは知っていたが、デルタを咎める言葉は心の片隅にさえ湧いてこなかった。この半年で大流行した謎のウイルス性肺炎の試作ワクチンが盗まれ、主任研究員が殺害。明日のニュースではそう報じられるだろう。血まみれの上着を地面に放ったデルタは、つぎに脚の可動域を妨げる膝丈のスカートを刃先で切り裂きにかかった。裂け目から覗いた腿の白さにぎょっとして、シグマは背負っていたデイパックを前に回しながらデルタの動きを押しとどめた。


「ちょ、ちょっと、デルタ! こんなところで脱がないでください」

「ええ? もう良いだろ。いま車通ってねえし」

「そういう問題じゃないです。着替えと靴は買ってきましたから、せめてそっちで」


シグマは急いで上着を拾うと、脇に挟んでファスナーを開けた。取り出した薄手のコートをデルタに着せ掛け、その手を引いて近くの公園のトイレに駆け込む。着替えを持たせて個室に押し込むと、薄いベニヤの扉に何度か肘をぶつけたような音がした。しばらくすると音は止み、代わりに血の飛んだ女物の衣服が次々と扉の上から落ちてくる。床に滑り落ちた一枚を屈んで拾ったシグマは、ふと違和感を覚えてそれを目の前に広げてみた。ブラウスのボタンを外すのが面倒になったのか、薄手の衣服は袷が縦に切り下ろされていた。彼は呆れ笑いを吐息に滲ませ、それもデイパックに押し込んだ。扉越しに、デルタの問いかけが淡く反響した。


「何か通ったか」

「車はしょっちゅう通りましたが、路肩に寄せてきたのは一時間前の三台だけです。一台があそこの社員の送迎で、残りはお婆ちゃんを近くの整骨院に下ろしてました」

「まあ、来るならここじゃねえよな。人目につきすぎる。次のポイントどこだっけ」

「そこの角から県道につながる狭い道です。カイの予想ですけど」

「当たったらサイダーおごってやんないとな。あ、やべ。ティッシュ取って」


急に扉が開き、そこから細身の腕が伸ばされた。柔らかそうなやや色白の右腕は人間と殆ど変わらなかったが、よくよく見れば奇妙なところがあった。公衆トイレの照明を受けて、肌にうっすらと境目が浮かび上がっている。まるで和紙を重ねて貼り付けたようだった。その継ぎ接ぎはふくらみのない胸と滑らかな背中、そして今は男物のスラックスに覆われた下肢にも続いていることを、シグマは知っていた。差し入れたウェットティッシュで、デルタは自分の左腕に飛んだ返り血を拭ったが、肘の数センチ上で終わった人間の肌に繋げられているのは、蜥蜴とかげを思わせる硬い鱗のついた薄緑の表皮だった。人間のものより後方に飛び出した肘から先は、わずかに緑味を帯びた刃渡り三十センチほどの銀の刃に変わっている。その腕に男物のシャツを通し、袖口をまくり上げたデルタは、個室の扉を開ききって顔を出し、からかうような笑みを湛えてシグマを見上げた。


「どう? きれい?」

「ああ、はいはい。それより足こっちにください」


女物を着れば女に見え、男物を着れば男に見える。それがデルタの容姿の特徴だった。上目遣いの視線を遮断するようにフェイスシートをその顔に押し付け、シグマは床にかがんだ。蓋を閉めた便座に座るデルタの足を取ると、男物の靴を手早く履かせていく。手と同じく爪の模様が切ってあるだけの爪先を靴下で覆い、靴紐を程よく引き締めて結ぶ彼の両手を、乱れた口紅と血の名残を拭ったデルタは、黙って見下ろしてきた。シグマは床に残っているかもしれない血の跡を踏まないようにデルタの腕を取り、自分の腿を足場にさせて外へと引っ張り出した。千切れたボタンや糸屑を拾いながらシグマがふと手洗い場を覗くと、デルタは呑気に足首を回している。いい気なものだと溜め息をついたシグマは、最後に取り残されていたパンプスを摘まんだ。半ばまで剥がれた靴底が、踵ごと垂れ下がっている。もう使い物にならないそれをデイパックに押し込んだシグマは、荷物を背負い直して再び外に出た。


「車はコインパーキングに停めたそうです」

「オーケー。にしてもその踵の高い靴、すっげえ痛かったわ。地球人の女ってなんでこんなもん履くの? 護身用?」

「さあ……、俺に聞かれても」


シグマの背負ったデイパックの中身を指して、デルタは恨めしげに尋ねてきたが、男には答えようもない問いだった。百メートルは遠ざかったはずの製薬会社の方からまた爆発音が聞こえ、消防車らしいサイレンが響き渡る。二人は無駄口を閉じ、さらに歩調を速めた。いつもならばデルタは通行人に見られることを考慮して、左手を接電義手せつでんぎしゅつきの鞘に収めてしまうのだが、今は刃を剥き出しにしたままだ。シグマはそれを横目に、高まってくる緊張をほぐそうと何度も深呼吸をした。冷静さを失った方が負けだと、デルタに言われた言葉を頭の中で繰り返す。逃げ出したい衝動を紛らわせるべく、シグマは少し歩調を速めると、上官に別件の報告を囁いた。


「さっきのニュースで、この間のホテルから女の死体出たって言ってました。帰ったら身分証は捨てましょう」

「分かった。踵の高い靴は俺もしばらく遠慮したいしな」


デルタは冗談混じりに答えたが、両目は油断なく前後左右を窺っている。再び半歩後ろに下がったシグマはデイパックのストラップを握りしめ、周囲のわずかな変化も聞き逃すまいと耳を澄ませた。角を一つ曲がると立ち並ぶビルの高さはとたんに低くなり、テナントを募集する張り紙が目立ってくる。唐突にデルタが足を止め、シグマの腕を強く引いた。自分より頭半分以上背の高い部下の肩を掴んで屈ませ、デルタは小声で命じた。


「……合図したら車まで走れ。絶対に後ろを見るな」

「はい」


何を見つけたのか、これから何が起こるのか、訊いても無駄だということはこの半年でよく分かっていた。シグマは息を殺し、パーカーの服地ごとワクチンの保冷ケースをきつく押さえた。一拍おいてデルタの左手の峰が、彼の肩を二度ほど軽く叩いた。


「行け」


飛び出したシグマは頭を庇うようにやや前傾姿勢をとり、全速力で走った。ほとんど人気のない午後の街並みに、一人分の足音がかすかな反響を残す。『貸店舗』の貼り紙のついたシャッターの前を通り過ぎた直後、蹴り上げた靴の踵に小さな衝撃が走り、薬品じみた苦い臭いが立ち上った。つんのめったシグマは思わず立ち止まり、反射的な動作で背後を振り返る。右目の端が滑空する翼の形状を捉える前に、デルタの声が聞こえた。


「止まんな!!」


その叫びに背を突き飛ばされて、シグマは再び走りだした。右足の爪先を掠めた弾道の先端がアスファルトを瞬間的に溶かし、異臭混じりの煙が背後に流れていく。シグマは服の上から脇腹の肉をきつく鷲掴み、崩れ落ちそうな体に喝を入れてさらに走った。三発目がデイパックを斜めに貫通し、溝蓋みぞぶたのコンクリートに黒い焦げを残した。レーザー銃は発射音がほぼ無い上に射程が長く、後ろから撃たれれば避けようがない。無傷で済むかどうかは運と味方の援護しだいだ。再び足元の一点が沸騰した瞬間、肚に響く地鳴りと振動が後方から伝わってきた。角を曲がる視界の端に、地面に倒れた翼のある人影と、そこへ左手の刃先を振り下ろすデルタの姿が掠めた。

 シグマが角を曲がると、正面のパーキングから白いワゴン車がゆっくりと進み出て彼の前方に停まった。ナンバーを確かめた彼はわずかに肩の力を抜き、車まで二十歩ほどの距離を一気に走り抜けようとした。ふとその背後に影が差し、かすかに風が唸る。気づいたシグマが振り返るより早く、背後から重い衝撃が叩きつけられた。


「ぐぅ……っ!」

「ワクチンはどこだ!」


アスファルトに倒れ込んだシグマの手足の付け根に、重い質量がのしかかる。何とか後ろに目を向けると、四つに割れた顎をぎちぎちと鳴らしながら見下ろしてくる昆虫の黄色い顔が見えた。喉元に取り付けられた翻訳機のスピーカーからは、低くひび割れた威圧的な声が飛び出す。こちらを踏みつける四本の黒い脚と、その先についた鋭い鈎爪を睨んで、シグマは唇を噛みしめた。周囲の建物から人の出てくる気配はない。前方のワゴン車がゆっくりと動き、怪物の注意が外れているうちに彼らから遠ざかるそぶりを見せた。察したシグマは時間稼ぎのため、不自由な体を無理に捩じって襲撃者を振り返った。


「ベータ、っ、あんたの負けだ。本物のワクチンはラムダがドローンに積んで飛ばした。今ごろ司令に届く頃だ」

「嘘つけ。デルタにそう言えと脅かされたんだろう。だがな、今は正直になった方が身のためだぜ? 今お前の心臓の近くにあるのは、俺の爪か、デルタの左腕か、馬鹿な地球人にもそれくらい分かるよな」


ベータは空いた二本の腕のうち一本をこちらに伸ばして、シグマの首の付け根を鈎爪でなぞった。恐竜めいた爪の鋭い先端は彼の首の皮膚、そしてその下にうっすらと浮き出た発信機と毒のカプセルをからかうように突いてくる。首の後ろを刃物でなぞられる恐怖に耐えて、シグマは奥歯を噛み締めた。


「おやおや、こんなもんまで付けられて可哀想に。まあ、俺だって地球人を飼うならそうするがな。弱っちい上にすぐ逃げやがる。生かしといてもらった恩も忘れてよ」


四つの顎がかちかちと震えている。それが嘲笑だと、ここしばらく宇宙人ばかり見てきたシグマには分かった。四肢を押さえつける鈎爪に力がこもり、肩の関節を握り潰される激痛に息が止まる。喉の間から漏れ出た悲鳴まじりの呻きを聞きつけたベータが、目を細めてさらに嗤った。


「シグマ!」


デルタの声が虚空に反響し、直後に人間のものではない叫びが轟いた。ベータの表皮の光沢にわずかばかり反射されたレーザー光が曇天へと消える前に、胴体を支えようと力の込もった前脚を淡い緑の刃がまとめて斬り飛ばす。道路に突っ込んだ怪物の下から、尖った爪のついた指がシグマを掴み、引っ張り出した。彼はよろよろと立ち上がり、自分を助け出した人物の薄緑の顔へ、ぎこちなく笑いかけた。


「えっと、ごめん。ラムダ」

「マジで地球人使えねえ。引っ込んでろ愚図ぐず


そう吐き捨てたラムダはシグマを手近な自販機の影へ押しやり、自分はそのままベータに突っ込んだ。残り二本の脚で体勢を立て直したベータはすでにデルタに斬りかかっており、デルタはバッテリー切れのレーザー銃でそれを受けた。五十センチほどの銃身に残った血の手形は小さく、親指と他の四指の区別がつかない。シグマを襲った蝙蝠こうもり人間の手形だった。ベータの怪力を胴に受けたレーザー銃はくの字に曲がり、プラスチック製のカバーが割れて基盤が覗く。デルタがそれを放り捨てる間に、ラムダはベータの背後に回り、デルタのものより長い左腕の刃を首と肩の継ぎ目に叩きつけた。砕けた外骨格の破片が飛び散り、ちぎれかけたベータの頭がぐらりと傾く。仰け反って反撃しようとした敵の首をデルタが切り飛ばし、心臓をラムダがほぼ同時に刺し貫いていた。六本脚の宇宙人は横倒しになり、赤い血と黄色い内臓を垂れ流しながら鉤爪を痙攣けいれんさせる。物陰に隠れていたシグマの正面で落ちてきた首が跳ね、血の滴がアスファルトを汚した。横向きに倒れた生首の縦長瞳孔が、まるで嗤っているように彼には見えた。


「シグマ、どけ!」


いきなり突き飛ばされたシグマはアスファルトに肩から突っ込み、息を詰まらせて咳き込んだ。手をついて何とか身を起こした彼の上に、一拍おいてデルタの体が倒れかかってくる。とっさに抱きとめたシグマはデルタの背に手を回し、熱い液体の感触が指を浸すのを感じた。体勢を立て直しながら掌をかざすと、そこには人間と同じ赤い血がべったりと付いている。シグマは不自然に脱力したデルタの体を自分にもたせ掛け、その背を確かめた。そこには不気味な返しのついた三十センチほどの針が、半ばまで突き刺さっていた。


「デルタ……、デルタ!」

「っ、う、大丈夫。大丈夫、だから、っ、でかい声だすな」


デルタはシグマの肩を叩き、そのまま体を起こそうとした。だが右腕にはすでに力が入らなくなっており、バランスを崩した体は冷たい道路の上に投げ出された。デルタは喘鳴を繰り返しながら苦痛に顔を歪め、無意識に背中の針を掴んで引き抜こうとする。針の全面に隙間なく生えた返しが掌を傷つけ、また血が滲み出した。シグマはとっさにその手を掴まえ、自分より十五センチほど小柄な体に肩を貸して立ち上がらせた。


「抜いちゃ駄目です! しっかりして、すぐに手当てしますから。ラムダ、車どこに停め」


助けを求めて同僚を振り返ったシグマは、だがラムダの顔を見て続く言葉を飲み込んだ。道路に広がるベータの血と、デルタの背中から溢れた血。それを凝視するラムダは全身を震わせ、何かを堪えるように蹲っている。味方を視界に入れないようにするためか、形の違う左右の腕で頭を抱えながら、ラムダはこちらに向けて叫んだ。


「はあっ、あ……、車、車は十字路を曲がって右だ! 早く行け!」


叫ぶ間も、ラムダは膝で血だまりを這い、ベータの死骸の方へと近づいていく。瞬きも忘れた両目には、獲物の他に何も映っていない。シグマは言われた通りの方向に走り出しながら、一度だけ同僚を振り返った。ベータの胴体をひっくり返したラムダはいきなりその傷に顔を埋め、まだ温かい血を一心不乱に啜り始めた。淡い緑を帯びた白い手も、地球人をまねて身につけた衣服も、瞬く間にどす黒く染まる。上官が重傷を負ったことも、ここで地球人に発見されればただでは済まないことも、その行為を止める理由にはならないようだ。シグマはデルタを支える腕に力を込め、脱力した大人の重みに息を乱しながら再び必死に走った。マジで宇宙人使えねえ、という悪態は、ラムダに面と向かって言う勇気はないので、心の中だけに留めておいた。


◆◆◆


「ロー、部屋まですぐに戻ってくれ。デルタが刺された」


斬り合いの現場から離脱したワゴン車は、突き当りの十字路を右に曲がった路肩にあった。シグマはデルタを抱えたまま後部座席に乗り込み、早口に運転席へと声をかける。振り返ったローは金色の眼にデルタの傷を映した途端、インカム型の翻訳機から悲鳴を上げかけ、何とかそれをこらえた。


「……ベータね」

「ごめん、俺のせいだ。首が目の前に落ちてきたのに、反応できなくて」


会話しながら差し出された止血帯を受け取り、シグマは唇を噛んだ。デルタの背中から飛び出した針状の物体を避けて、少し上の位置をきつく縛る。時おり小さく呻くデルタの横顔を見つめて、ローは憎々しげに吐き捨てた。


「あんたのせいじゃないわ。ヴェスパ人は根っからの卑怯者だもの。これアドレナリンの注射、そのまま太腿に刺して。飛ばすからシートベルトを」

「……っ、基地が先だ」


身を乗り出して運転席の背凭れを掴み、デルタが掠れ声で命じた。一言発しただけで呼吸が引きつり、肩が大きく上下する。シグマはデルタの体を引き戻し、思わず声を荒らげた。


「何言ってんですか! ヴェスパ人の針には毒があるんでしょ、血もこんなに」

「っつ、でかい声出すな。頭痛えんだよ」


目が回るのか、デルタは右手で頭を支えて歯を食いしばった。黙り込んだ部下たちが縋るように見つめてくる視線に気づいているのか居ないのか、デルタは何度か呼吸を整えた後、青ざめた顔を上げて運転席のローを見た。


「ベータの襲撃は想定内だったが、他が大人しくしてる保証なんてない。だろ? 何しろ俺たちはだ。……っ、俺が動けるうちに、終わらせるぞ」

「でも毒が」

「俺たちラミナ人の場合、ショック症状が出るかどうかは半々だ。っう、鎮痛剤打ってくれ。それで三十分は誤魔化せる」

「……了解」


ローの長い人差し指と中指が助手席に伸び、広げた医療キットをさぐる。シグマは仲間の信じられない対応に絶句し、息切れを起こしながらも辛うじて抗議の声を上げた。


「ロー! デルタも、何言って」

「シグマ、この鎮痛剤は傷の近くに打って。それから毒針の飛び出してる部分これで切っちゃって。上着で隠れればいいわ。ぶつかられて傷が広がったら大変だもの」


ローは新たに鎮痛剤の注射器とボルトカッターをシグマに押し付け、そのまま車を急発進させた。ドアハンドルを握って遠心力に耐えたシグマは、腕に抱えたデルタの苦しそうな声を聞いて、何とか自分を奮い立たせた。毒消しと鎮痛剤を打ち、カッターの刃をデルタの背中の皮膚ぎりぎりにあてがう。そこに刺さった針は鉄筋と同じくらいには太く、素人が一度で切れるかどうかは分からなかった。だが、怪我人に刺さったままの物体に何度も切りつければ、大量出血は免れない。彼はデルタの胴に抱きつくようにして左手をその背中に回し、カッターを握る右手に添えた。弱々しい呼吸音が耳元で聞こえ、シグマはわななく唇を噛みした。


「……シグマ」


デルタの左腕の峰が、脇腹をごく優しく叩く。シグマに抱き込まれたこの体勢では、たとえ暴れても刃が彼に届くことはないと、思い出させるような仕草だった。シグマの肩に顎を乗せたデルタは、首筋に押し付けられた肌の震えを感じ取ったのか、かすかに笑った。


「鎮痛剤、効いてきたから。っ、三回までなら、失敗していい」


直後にこぼれた小さな呻き声に、シグマはその言葉が嘘だと悟った。ラミナ人は毒に強い代わりに、薬も効きづらい。彼は深呼吸し、刃から遠い方のグリップの端を両手で握り込んだ。バックミラー越しに、キャップとマスクで顔を隠したローと目が合う。濃色のサングラスを透かして見える金の瞳に、シグマは一度頷き返した。


「……二回で終わらせます」


シグマはそう告げた直後に息を止め、両手に渾身の力を込めた。

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