そして地球に『平和』が戻った
文屋廿三
第1話 吸血宇宙人デルタ
灰色に
(……へえ、やるじゃん)
デルタは口元に笑みを滲ませながら、スーツの袖口に隠していたウェアラブル端末を操作した。先ほどの爆発で屋根の吹き飛んだ西棟で再び轟音が響き、振動が足元を揺るがす。デルタは踵の高い靴のせいで踏ん張りがきかず、よろめいて尻餅をついた。その拍子に、手摺を握ったままの左手がずるりと抜ける。デルタはそれを回収して上着のポケットに押し込むと、爆風に乗ってこちらにまで降り注ぐ大小の破片を、胸壁に背中をつけてやり過ごした。爆発の振動の合間に、床についた右手の甲を何かが優しく叩く。デルタがそちらへ目を向けると、屋上の壁を這ってきたらしい蜘蛛形のロボットが手の甲に前脚を乗せ、センサーを内蔵した赤い目を点滅させていた。何かをねだるようなその仕草に、デルタはジャケットの内ポケットからアンプルを取り出した。中央のパネルを押すと蜘蛛の腹が左右に開き、ほのかな冷気が指先に触れる。デルタはアンプルをそこに納め、再びロックをかけた。灰色の空の上では、ドローン群の捕獲劇が続いている。さすが製薬会社所有の研究所と工場だ。少し花火を上げただけですぐに燃え広がって火事になる。デルタはロボットを近くの壁に張り付かせ、立ち込める濃い煙の中へとそのまま送り出した。
「
視界を塞ぐ粉塵の向こうから鈍臭そうな男の足音と、裏返った叫び声が近寄ってくる。デルタは倒れた状態のまま投げ出していた両膝を揃えて座り直し、か弱い女を装って煙の向こうに叫んだ。
「シュウジさん! ここです! 助けて!!」
シュウジさん? それともセイジだったか、今となってはもうどうでもいい。デルタは哀れっぽく助けを乞いながら、左腕を体の影に隠して待った。叫びを聞きつけた男が灰色の風の向こうから現れ、デルタを見つけて助け起こす。彼の白衣には砂埃が纏いつき、むき出しの手や顔には無数の細かい切り傷がついていた。ひと月前ならば、この臆病な男にできるはずのなかった振る舞いだ。小さな虫にも怯える臆病者を火災の中に飛び込ませ、爆発のただ中にいる『女』を探すような行動に駆り立てたのは何だったのか。解き明かすのは数日後、彼の死体を解剖する医者の仕事となるだろう。
「捜したぞ! なんでこんなところに」
「ごめんなさい。電話が長引いて、静かな所を探してたら」
「とにかく逃げよう。そっちの非常階段に、はや、く……っ」
デルタの肩を支えて非常階段を振り返った男の動きがふいに止まり、そして
「百……合……っ、なぜ……」
建材の破片と砂に絶え間なく全身を打たれながら、瀕死の男が擦れた声を上げた。白衣に染みた鮮やかな赤は一秒ごとに広がり、反対にその顔は灰白色に変わっていく。デルタは男の傍に膝をつくと、脱力したその体を抱き上げ、愛おしそうにその首を支えた。
「ごめんなさい、シュウジさん。……まあ要するに、こういうことなの」
デルタは左手を改めて男の目の前に翳し、刃先で器用にその髪を掻き上げた。医療用の眼帯で隠していた左目を、彼に見せるのは初めてだった。淡い緑にふちどられた瞼が開き、眼窩いっぱいに嵌めこまれた複眼がゆっくりと瞬く。その薄紫の瞳を目に映した時、男の表情が驚愕にひきつった。
「ばけ、もの……」
「ひどいわ。さんざん綺麗だって言ってくれたのに」
彼の速まった呼吸は、きっと失血のためだけではないだろう。後ずさろうともがく男の体を床に押さえつけて、デルタはその首筋を見下ろした。焦げた建材と燃える火薬の臭いのただ中でも、人間の血の甘いにおいははっきりと香る。デルタは唇に塗った口紅を舌先で軽く舐め取り、その油っぽい味を感じながら、まるで愛撫するように左手の刃先で喉仏の浮き出た頸をなぞった。
「化け物みたいな顔してんのは、そっちじゃねえか」
男が吐き出そうとした悲鳴を聞く間もなく、デルタは彼の頸動脈を切り裂いた。
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