第20話

 警察は赤い花を一部切り採り、鑑識に回した。

 和人の言う通りにこの赤い花がハカマオニゲシだとしたら、国内史上類を見ない事件になる――橋田宗次郎は怪しく揺れる赤い花を凝視した。花は変わらず風に揺れて優雅に漂っている。季節外れの花はまるで自分の価値を強調するかのように。

 赤い花の間にポツポツと古びた墓石が点在し、墓地の奥に寺院の本堂があった。朽ち掛けた本堂の中は伽藍洞で、何年何十年と本尊はなく住職もいなく雨風に晒され続けている。

 午前の晴れた太陽はどこへ行ったのか、今は低く灰色の雲が垂れ雨が降り出しそうだ。もう少し寒くなれば雪になるのかもしれない。

「こりゃ、早めに切り上げた方がいいな」

 宗次郎がぼやき、鑑識班が先に撤収すると若井が伝えに来ると、他の捜査員たちも撤収準備を始めた。

 花と酒瓶のみが成果だ。

 それ以外無い。

 和人と共に訪ねた時のまま、人気はなく時が止まったかのような静けさだ。不気味だ――何度感じただろう、宗次郎は溜息を吐きながら天を仰ぎ見る。

 警察の大半が撤収して暫く経った頃、こんな辺鄙な場所に一台のタクシーが止まった。不審に宗次郎が見ていると降りてきたのは和人だ。

「和、何してんだ。大人しく家に帰ってろ」

「宗次郎、高木さんの居場所が分かったかもしれません」

 黄色の規制線が張ってある前で声を上げた。普段声が小さいが、張れば良く通る声をしている。

「何?」

「俺たちは深く考え過ぎてました」

「どういうことだ? 意味が分からない」

 宗次郎は不機嫌な顔をし若井は首を傾げると、その反応を心得ているのか和人は二人に頷き返した。 

「高木さんがどこを拠点としているのか。鶴子さんはどこへ行ったのか。俺たちは過去のファイルを探したり家を訪ねたりしました」

 規制線を潜る。

 黒い雲が垂れ、雷が遠くで鳴り響いた。

「しかし手掛りはおろか、その影さえ見付けられませんでした」

「ああ、そうだな」

 ポツリ、天から雫が一粒落ちて宗次郎の短い睫毛に当たり、まばたきを数度繰り返す。

 一瞬空を見上げた和人は赤い花の間をゆったりと歩き本堂へ向かうと、コートのポケットから懐中電灯を出した。

「中に入りましょう」

 本堂の中へ二人を促す。

 三人が本堂に入ると、和人は懐中電灯で周囲を照らした。半分朽ち欠けた本堂内は、それでも薄っすらと暗い。

「例の酒瓶も全て鑑識に回している」

 雷が近くで轟き、同時に雨がサァーと音を立て降り注いだ。

「ありがとうございます。石塚晋二郎さんは何か発言しましたか?」

「相変わらず、大した発言はしていない。ここで取り押さえた時と同じ、亡霊がどうの女がどうのってことは言ってるな」

「石塚さんは薬物鑑定をした方がいいですね。酒瓶の中にアヘンが混入している可能性が高いし先刻も酒気を帯びていた今、石塚さんの妄言も薬物中毒によるものかもしれません」

 雷が近くで落ち、外が一気に暗くなった。

「高木さんの話に戻ります」

 和人は更に重点的に懐中電灯で周囲を見回した。

「高木さんの唯一の手掛かりは二通の封書『楽しみたまえ』と『預かっている』という文章のみです」

「ああ、白石晃さん殺害時と橋本鶴子さんが誘拐された時に郵便受けに入っていた封書だな」

「はい、そうです。俺たちの前には一切姿を見せず、二通共に郵便受けに入っていました。どちらも筆跡は同じと思われ、高木さんのものと考えらえます」

 筆跡鑑定をしたわけではないから、こればかりは和人の記憶頼りになってしまっているが、警察らしからぬ宗次郎はそれを信じた。

「そして、その二通に共通するのは俺を挑発している、ということです。十年経った今でも高木さんは執念深く俺を追い詰めようとしている」

 宗次郎は十年前に起きた凄惨な事件の内容は和人から聞いていない。聞くまでもなく、幼馴染みのボロボロになった姿が物語っていた。そして、変わってしまった性格。それを見ただけで何があったのか、宗次郎と涼太は察した。

 それはさておき――和人は咳払いをした。

「通常ならそれだけの封書です。ですが高木さんの場合それだけではなかった」

 懐中電灯は何かを探すように上下左右に動く。

「いくら普通に過去のファイルを手繰っても自宅を訪ねてもヒントすら掴めないわけです。そもそもそこには何もなかった」

 和人の声が雨音に負けそうだ。

 外は土砂降りで半分屋根の崩れた本堂では、三人が立っている場所ですら危うい。寧ろ若井は床の跳ね返りで濡れてしまっている。

 和人は内陣の方へ移動した。自然と宗次郎たちも奥へと動く。

「そこになかったって、どういうことだ?」

「つまり、高木さんの居場所を掴めるヒントはどこにも無い」

「回りくどいな。それじゃ俺らが捜していた意味が無いじゃないか」

「残念ながら。ヒントが無いのがヒントだったんです」

「?」

 床をしきりに懐中電灯で照らしている。

 宗次郎と若井は互いに見やり、和人の謎の行動を訝しんだ。 

「さっきから何してるんだ?」

「話を飛ばしますが。石塚晋二郎さんが突然現れたのを不思議に思いませんでしたか?」

 襲いかかって来た時、和人は外の方を向いていた。いくら朽ち掛けた本堂だろうが、御本尊を安置していたであろう内陣はしっかりと残っている。

「当時若井さんは門前にいて、宗次郎はご本堂の周辺を見て回っていました。それじゃ石塚さんはどこから来たのか?」 

「それは――」

 話ながらも床から目を離さない。

「我々は白石晃氏殺害の容疑者、石塚晋二郎氏を裏で手引しているだろう高木さんがこの廃寺を拠点にしている、と考えました。しかし、いない。そして突如出現した石塚氏――」

 しゃがみ、床を撫でるように触った。

 あった――と小さく呟く。

 床にめり込んだ小さな取っ手を和人は手にしていた。

 なんだ――手元を宗次郎が覗き込むと、和人は取っ手を引っ張り上げた。

「地下、ですよ」

「地下? なんでそんなもんが廃寺に」

 内陣の本尊が置かれていたであろう場所の床に、地下に繋がる入口。取っ手を持ち上げて一部の床が持ち上がると、地下に繋がる真っ暗な空間が現れ階段が下へと伸びている。木製の階段は意外にもしっかりと出来ていて、ここ数年の間に作られたものだろうか、足を下ろしても軋む音はしなかった。

「突然現れた石塚さんは、この地下から出てきたんです。そして高木さんも鶴子さんも地下にいる可能性が高い」

「高木と橋本さんがここに?」

 ええ――和人は頷いた。

「ヒントがないのがヒントと先程言いました。その答えが廃寺の地下です」

「?」

「単純に考えれば良いだけの話です。『楽しみたまえ』も『預かっている』もどちらも挑発してきてはいますが、場所の特定はできません。ですが、最初の封書が届いて数日で石塚晋二郎氏の存在が浮上した。おかしくありませんか? タイミングよくマル暴から情報が流れて来た」

「ああ、確かに向こうから情報が入ったな。まさかリークしたのが高木自らってことか?」

「その可能性は非常に高いですが、確証はありません。もしかしたらですが、高木さんの共犯が警察内部にいることも考えられます」

 宗次郎は低く唸った。

 地下へ続く階段の長さは五メートル程だったが、灯りが和人の持つ懐中電灯一つだけでは心細い。三人は階段を踏み外さないように慎重に降りた。階段を降りた先には細長い手掘りの空洞が長く蛇の如く左右にうねり続いている。上も下も湿った岩肌で地面は所々水溜りが出来ていた。

「石塚氏の居場所を強調することで、居場所を教えてきたんです。どれだけ探しても見つからない、イコールそこにしかいない」

「分からねぇな。なんでそこに行き着くんだ」

「普通の思考ではないのは確かですから――」

 岩肌の天井から音を立てて水が滴り落ちてくる度に、若井が小さく悲鳴を上げている。

 どれくらい歩いたのか、それともたった僅かな数分の時間か。ぬかるみの中、前方に微かに明かりが見えた。

 和人は一度立ち止まり、深呼吸をした。

「本人に聞くのが一番ですね」

「ああ、そうだな」

 三人は意を決して進んだ。

 明かりの大きさが広がっていく。

「久し振りだな、和人」

 その声に三人は一気に張り詰めた。

「高木さん……」

 二本の燭台に火が灯り、土壁に男の影が大きく反映している。影は不気味に揺らめいた。

 男の足元には、橋本鶴子がぐったりと意識を失って倒れている。

「鶴子さん!」

 長い黒髪が顔に掛かり表情が伺い知れない。

「安心しろ、眠っているだけだ」

 真っ白なワイシャツに黒のトレンチコート、白髪が目立つ前髪は後ろに流し、紳士然とした男は和人の知る『高木誠』と印象が違っていた。

 高木誠という人物は、無精髭を伸ばし煙草の臭いが染み付いたヨレヨレのスーツ、ボサボサの髪の毛のうだつの上がらなそうな中年男だ。それが今目の前にいる人物は、和人の知っている『高木誠』とは正反対の姿をしている。

 和人は少なからず動揺をした。

「和人、十年という月日は人を変えるには充分過ぎるんだよ」

 諭すように囁いた高木は両腕を左右に広げた。

「和人、これも合縁奇縁だ。もう一度私と探偵ごっこをしないか?」

「何巫山戯たこと抜かしやがる!」

 宗次郎が怒声を発したが、高木はそれを鼻で嘲笑った。

「お前には言ってない。私は和人と話をしているんだよ。邪魔しないでくれたまえ」

「高木さん、俺は貴方とそんな会話をするつもりはありません。鶴子さんは返してもらいます」

 和人はゆっくりと鶴子に近付くと肩に触れた。

「鶴子さん、鶴子さん」

 肩を揺らして声を掛けたが、反応はない。

「人の心配ばかりするのは相変わらずだな」

 額に何か硬い物が当たった。

「和!」

 ドン――と鈍い音。

 和人は右に上半身を移動させたが、左肩に何かが当たり後方へ吹き飛んだ。

「和!」

 宗次郎が急いで和人を起こした。

 左肩から血が溢れ出ている。

 高木は和人の頭に拳銃を向けた。

「悪運も相変わらずだな」

 くくっ――と喉で嘲笑った。

「運動神経はまぁまぁだな。どうだ? 和人。家に籠もったばかりいないで、もう一度探偵業を再開しないか?」

 それとも――拳銃を鶴子に向けた。

「よせ! 高木さん!」

「水城の時もそうだったな」

 高木は懐かしそうに目を細め、和人に微笑んだ。

「それはもう終わった話です。鶴子さんは関係ない」 

「それは違うぞ、和人。お前が生きている限り――私が生きている限り何度だって繰り返すものだ」 

 高木が何をしたいのか、宗次郎たちはおろか、和人にすら理解ができない。本当に十年前の高木とかなり変わってしまった。

 ――いや……。

 十年前には既に高木の精神は壊れてしまっていたのかも知れない。

 妻と子を殺害された時点で、ボロボロと理性と正義は崩れ、多くの探偵を犠牲にしてきた。そして、和人と助手の水城譲が留めを刺してしまったのだろう。

 和人が精神を病んでいれば、高木も病んでいる。

 しかし、高木の行為は度を超えた。

 高木自らは手を下さないが憎んでいた犯罪者に成り下がってしまったのだ。

「高木さん、銃を下ろしてください」

 刺激しないよう慎重に言った。 

「なんだ、詰まらないことを言うようになったな」

 拳銃の銃口が和人に向いた。

「昔のお前は銃口を向けられても相手に向かって来ていただろう? 今はそんなに臆病になってしまったのか?」

 和人は立ち上がりながら首を横に振った。

「高木さん、銃を下ろしてください」

「フン。それだけか? それだけしか言えないのか?」

「――そうじゃないです、そうじゃない」

 和人は十年前の事件以降に人々の優しさに触れた。ボロボロになった身と心を家族や幼馴染みが癒やし助けてくれたが、高木はどうだろうか。妻と子を殺害され、誰にも頼ることは出来ず、独り憎しみに悶え苦しんだであろう。

 高木が壊れて行くのを誰も気付かず、止めることは出来ない。

 ――誰も……。

 ゆっくりと瞬きをした。

 十年前は思わなかったことが、今になってようやく思うことができた。

 高木は寂しい人なのだ――と。

 寂しくて悲しい。

 俯いた顔を上げた。

 ――今は昔に浸っている場合ではない。

「高木さん、貴方は石塚晋二郎さんを使って、何の罪も無い白石晃さんを死に追いやった。なぜそんなことを?」

「利害が一致しただけだよ」

「一致?」

「白石晃と石塚晋二郎は利害が一致していた。だからほんの少しだけ手助けをしたまで」

 晃は妻の信子を失って自らも死にたがっていた。

「警察が調べた通り、石塚晋二郎は白石信子の実の父親だ。あの男は娘を殺されたと思い込んでいる。いや、実際殺されたようなものだな」

 だから復讐したに過ぎない――高木は続けた。

「住所を教えたら、すぐ様飛んで行ったよ。そして復讐を成し遂げた。素晴らしいだろ?」

「そうは思いません」

 きっぱりと高木を否定した。

 高木の目付きが鋭くなる。

「至極真っ当な意見だと思わないか?」 

「思いません」

 再び否定した。

「犯罪者を成敗したんだぞ。喜ばしい」

「どこがですか? 罪もない人を殺して、どこが喜ばしいんですか?」

 一歩、二歩、前に出る。

「おい、和。危険だ!」

 銃口が和人を捉えた。

「罪がない? そんな人間いないだろ」

「それだけじゃない、涼太を――林涼太の轢き逃げ事件も高木さんが指示を出して石塚さんに実行させたんですよね? 目撃証言と石塚さんの容姿がそっくりそのままです。涼太が罪を持っていると? それでも罪を持たない人間はいないと仰るんですか?」

 血走った目は狂気ささえ感じる。

「それがどうした?」

「――っ!」

 ――これが本性か……。

 ――これが、本性なのか……。

 和人が探偵をしていた時は、頑固ではあるが情に脆く、正義を重んじる警察官の中の警察官であった。

 そんな高木が誇らしかった。

 そんな高木に憧れていた。

 だから――。

 悲しかった。

 悔しかった。

 そして、こんなこと高木のためにも終わらせなければ――。

 

 

 

  

  

  

 








 

 

    



 

 

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