第15話


 眠れない夜がやって来た。

 久し振りの感覚。

 目は睡眠を欲しているが、精神が高揚していて眠れそうにない。

 嵐橘和人は寒いにも関わらず、燃えていない薪ストーブの前のソファーにコートを着たまま身を預け横になっていた。

 時刻は二三時を過ぎた頃。

 天井に向かって大きく息を吐いた。

 一日中肉体労働したかのように身体が重苦しい。

 やった事と言えば、殆ど過去のファイルと睨めっこして夜には廃寺に行ったくらいだ。そんな程度でガタが来てしまうとは、なんとも情けないことだ――と天井を見たまま嘲笑った。

 上半身を億劫そうに起こす。『よっこらしょ』と言わないだけで、肉体年齢は高齢の老人に違いない。

 ふと思い出した和人は一階にある書架の前に立った。

 書架は一階と二階の書斎にある。

 特にジャンルで分けてはいないが一階にある書籍を二階で読んでそのまま二階の書架に並べる――なんてことがよくあり、時折どこにあるのか分からなくなることもあった。

 探していた本は一階の書架で見つけた。

『四季の植物図鑑』

 廃寺に咲いていた異様な赤い花が気になっている。

 夜の懐中電灯に照らされた状態での花の形は正確に覚えていないが、真冬の寒空の下に咲く花はそう多くないはずだ。

 ページを捲る。

 ポインセチア、シクラメン、椿、山茶花、水仙――。

 意外と多くの花の名が羅列しているが、和人たちが見た花の形の写真は載っていない。

「――ないか」

 どんな形だったか、もうすでにあやふやになってしまっている。

 小学校で植えたチューリップやマリーゴールド、校庭の脇に咲いていた桜。そういうポピュラーな植物ばかりを知っているが植物全般の知識はゼロに等しい。

 早々に図鑑のページを閉じ、溜息を吐く。

 やはり集中が出来ない。

 橋本鶴子の行方が気になって仕方ないのだ。

 当然である。

 鶴子のことを考えては答えの出ない渦に飲まれ、堂々巡りを繰り返す。自己嫌悪に陥り胸が締め付けられ、次いで脳裏が真っ白になり虚ろな気持ちになった。

 ――ああ、嫌だ……。

 逃げる訳にはいかない。

 だが――。

 ――役立たず。

「役立たずだ」

 舌唇を噛んだ。

 柱時計の鐘が午前〇時を告げた。

「あ――」

 我に返って、図鑑を両手で持ち表紙を見つめた。

「何考えてんだ、全く」

 図鑑を書架に戻した。

 コートを脱ぐ。洗面所の冷たい水で顔を洗った。

 気持ちがシャキッとする。

 これでいくらか気持ちは晴れて頭の回転も違う筈だ――お約束のように両頬をパシッと叩いた。

 二階の書斎に入ると、ファイルが床を覆いつくしていた。

 ナンバー通りに拾い上げ、段ボールの中に入れていく。

 水城譲の思い入れはあっても、高木誠とは苦い思い出になってしまった探偵時代。当時は本当に楽しかった。その思い出が全て嘘偽りだったとは思いたくない。が、今更悔やんだところで、なのだ。悔やんだところで、どうしようもない。

 もう水城はいないのだ。

 いい加減、前を向かなければ――。

 そう何度も涼太と宗次郎に言われた。

 そういえば――と、黒電話を見やる。己の患者とその親族を亡くした涼太は大丈夫なのだろうか。彼にとって白石信子と夫の晃氏は特別な存在だった。晃も信子に当てられているから彼も診た方がいい、と涼太は和人に語っていたことがある。

 それなのに。

 残念だったろう。

 黒電話が鳴った。時刻は夜の十一時。

「こんな時間に?」

 不審に思いながらも、もしかしたら、という希望はある。

 和人は急いで受話器を取った。

 電話の先の人物は林涼太の母親だった。

《和人君?》

 涼太の母親の声を聞いたのは何年振りであろう。名前すら覚えていない。

「ご無沙汰しております。こんな時間にどうなさったんですか?」

 当然の質問に、涼太の母親、林麗子は口ごもってしまっている。

 不明瞭な単語が続々出て来る中、和人はどうにかして麗子を落ち着かせようとしたが、その口から出てくる単語に息を飲んだ。

「え? 涼太がなんですって?」

《じ、事故に遭って――》

 涼太が事故に遭った。

「それで、涼太は無事なんですか?」

 冷静に努めようとするも心臓が大きく高鳴り、麗子同様混乱してくる。

《今手術室にいるの。宗次郎君とは連絡つかなくて――こんな時間にごめんね》

 宗次郎はほんの十数分前に別れたばかりだから、連絡つかないのは当然だ。

 父親は涼太が小学生に上がったばかりの七歳の時、交通事故で亡くなっている。麗子は過去のことがあるから、かなり動揺してしまっているようだ。

「どこの病院ですか? 今からそちらに行きます」

 一人では心細いだろう。

 電話を切り、もう一度受話器を持つとタクシーを呼んだ。

 一九五〇年代後半以降、車の大衆化により大都市圏を中心に『神風タクシー』と呼ばれる、粗暴運転、乗車拒否、不当運賃請求などが問題になり、交通事故も多発、違法タクシーも横行した。それらを抑制する目的で個人タクシー制度が生まれ、一九五九年(昭和三四年)に東京で初認可、一九六〇年(昭和三五年)には関西でも個人タクシーが認可されると法人タクシーと個人タクシーが競合した。

 和人は苦い顔をした。

 車を所持していない和人の足は電車が殆どだが、どうしても電車で行けない場所にはタクシーを使っている。

 今年タクシー業務適正化臨時措置法が施行され、東京圏・大阪圏ではタクシー運転手を登録制とし、東京・大阪タクシー近代化センターが設置された。

 タクシーは庶民には高価な乗り物であり、しかも真夜中、電車も運行していない時間なのだから仕方ないが、初乗り料金は約二百円後半から三百円程度かかる。新宿までとなると一体いくら掛かるのやら、想像もつかない。

 脱いだばかりのコートに袖を通し、外に出た。雪こそ降っていないが、吹く風は素肌を厳しく刺す。

 少ししてタクシーが来たが、なにやら機嫌が悪そうな運転手である。まあ、誰だってそうなるよな――とタクシーに乗り込み、▲▲総合病院まで、と告げた。

 機嫌の悪い運転手が始終無言を貫いてくれたおかげで、和人は頭の中を整理することが出来た。

 ▲▲総合病院は新宿にある。

 八王子からだと、およそ一時間ほど掛かった。

 詳しい状況は分からないが、この時刻で新宿の病院ということは仕事場から帰路に着いている途中で事故に遭ったのだろうか。涼太は電車通勤だ。

 しかしどうやったら交通事故に見舞われてしまうのか。詳細は病院に着いてから聞くしかない。

 病院に到着して、運転手には運賃に色を付け降車した。

 看護婦の案内で手術室に向かうと、薄暗い廊下の隅に涼太の母親・麗子が所在無げに座っている。静かに呼ぶと、我に返った麗子がこちらを向いたと同時に瞳から涙を溢した。

「仕事から帰る時に歩道を歩いていた涼太に、歩道に乗り上げた乗用車が突っ込んで来たらしいのよ。周りにも歩行者がいたけど、涼太だけが轢かれて――今刑事さんたちが乗用車の持ち主探してくれてるの」

 事故の痕跡がある乗用車は、近くのビルの隙間に乗り捨てられていた。

 目撃者もいることから、犯人はすぐに突き詰められるだろう、と担当の刑事たちは言っているが、それでも――麗子は震える声で言葉を繋いだ。

「涼太どうなるか……分からないらしいのよ……」

 両手で握り締めていたハンカチはもうびしょびしょに濡れてしまっている。

「どうして、涼太なの……どうして――……」

 母親の沈痛な叫びが和人の胸を締め付けた。

 何も言葉が出てこない。出ても気休め程度にもならない。幼い頃からよく知った関係なのに、どうしたら良いのか全く分からなかった。こういう時、涼太ならなんて言うだろう、宗次郎ならなんて励ますだろう――麗子の隣に座ってグルグルと頭の中を回転させた。

 沈黙が続く中、手術室から医師が出て来た。

「ご家族の方ですか?」 

「はい、涼太はっ?」

 和人をチラリと見て、ご友人ですか――と声を掛けてきた。

「ご家族にだけお話をさせていただきます」

 ドクリ、と心臓が鳴った。 

「和人君ごめんなさいね」

「いえ」

 ストレッチャーに寝た涼太が運ばれて出て来た。頭に包帯、酸素マスク、首にはコルセットをしていて意識は無いようだ。

「涼太と一緒にいます」

 ええ、お願いね――後ろ髪を引かれる思いだろう。

 個室に運ばれた涼太はカテーテルが身体のそこら中と繋がり、顔色も相当に悪い。ベット脇にあるスツールに座り、涼太の顔を見詰めた。

 今の今まで幼馴染みの涼太と宗次郎は風邪すら引かない健康体で、こういう形で和人は心配したことなかった。基本和人が二人に心配されるような行動ばかり取っている。だから今、まさに和人のことを心配している幼馴染み二人の気持ちがよく知れた。

 布団から出ている左手を握る。よく見ると傷だらけだ。

「涼太」

 呼んでみた。

 しかし反応はない。

「涼太――……」 

 ――頼む……。

「和人君、ありがとうね」

 いつの間にか麗子が来ていた。

 両目が赤く腫れている。

「あの、涼太は――?」

「うん。あのね、和人君。涼太ね、後遺症が残るかもって――」

「後遺症……」

 右側頭部(右脳)を強く打ちつけたせいで、左半身が麻痺が生じる可能性が高い。特に右側頭葉が損傷すると記憶障害や言語理解の困難、空間認識能力の低下、感情や行動の変化などが現れることがある。実際は涼太が目覚めてからの確認で、そこでリハビリテーション(運動療法、作業療法、言語療法など)をしっかりすれば元のように動けるようになる可能性も残されていた。

 ただ、過酷なリハビリになるのは目に見えている。

「でも――」

 儚げに微笑んだ。

「でも、生きているだけマシよね」

 ええ――和人は頷いた。

 




 


 

  

 

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