第10話
目覚めると視界の全てを赤が支配した。
赤い――花が咲いている。
風が吹き。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
まるで海の中の海藻が揺れているよう。
意識が朦朧としているが、赤い花は晴天の青に映えて一際美しく見える。
花の名は知らない。
こんな冬に咲く花は知らない。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆらと――。
岩のように重い体をゆっくり起こすと、板張り床がギシギシと悲鳴を上げた。
――ここはどこ?
自分が置かれた十畳ばかりの広さの室内には家具一つない。
薄闇の室内を背後に見るは赤い花の絨毯――いや、異質な存在があった。
「お墓――?」
赤い花の間にポツポツと、角が欠け古びた墓が生えていた。
墓が生えていたではない、花が墓場に生えている。
認識を改めてよくよく凝視すれば、なんてことはない。ただ単に墓場が目の前に広がっているだけなのだ。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
ああ、しかしどうしてこんな所にいるのだろうか――橋本鶴子は額を手で抑え、首を数度振る。
こんな所に何をしに来たのか。
――違う。
――違う。
自ら赴いた記憶はない。
「ここ、どこ?」
辺りを見回す。
建物の中にも、見える範囲の墓地にも人らしき姿はない。
ここは――墓地があることを見るに寺か。
鶴子がいる本殿内とおぼしき建屋には何も無い。
ズキズキと痛む頭を抱え立ち上がり、本殿の外へ出た。
ザザザ――聞こえなかった風の音が機能していなかった耳と皮膚を刺激する。
古ぼけた墓地だ。
何十年何百年と風雨に晒され訪れる者は無い、全ての人間たちに忘れられた空間。
赤い花が異様な艶めかしさを醸し出す。
「これは――」
近くで見たらなるほど、虞美人草ではないか。
昔、中国の奏末、楚漢戦争期。
楚の武将・項羽の愛妾で絶世の美女として知られる虞美人(虞妃)が項羽の敗戦後、項羽の足手まといになるまいと自害した。その翌夏、虞美人が自害した場所に赤い花が咲いたことから『虞美人草』と呼ばれるようになったという。
学生時分習った記憶が呼び起された。
赤い花が――虞美人草が風に揺られている。
――この空間に自分しかいない。
墓地と虞美人草、と。
自分一人しかいない、その恐怖で頭がどうにかなりそうだ。
早くこの空間から抜け出さなければ――。
一歩二歩と踏み出した時、墓と墓の間をぬるりと男が現れた。
余りに唐突で短い悲鳴を上げてしまった。
みすぼらしい、腰の曲がった禿頭の老人だ。
年齢は七十代後半から八十代前半か。ボロボロの色の抜けた黒い袈裟を纏っている。
ここの住職なのだろうか。
「あの――」
恐る恐る声を掛けた。
しかし老人は声が聞こえないのか、目が見えないのか、目の前を横切るとそのまま去って行った。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆら――。
赤い花が揺れている。
老人の曲がった背は束の間、赤い花に隠れ見えなくなってしまった。
ポツリと、また独り。
敷地内を出れば何かしら情報は得られるに違いない、そう信じることしか出来ない。
自分を攫ったと思しき男は、嵐橘和人の知人だ、と言っていた。ならば、鶴子なんかよりもっと相応しい相手がいるではないか。
例えば、そう――財閥家の幼い孫、とか。
和人以外の四人の兄姉はそれぞれの子を生している。使用人らしからぬ思考だが、そう考えて当然ではないか。
誘拐犯は鶴子相手では身代金を要求もできないだろう。だのに、現実こうして鶴子が連れ去られてしまっている。
だから、何が目的なのか。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆら――。
赤い花は鶴子の焦燥とは裏腹に、虞美人が舞を踊るように優雅に揺れている。
空は青く、赤がよく映えた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます