第5話
涼太から電話があったのは白石信子が自殺を図った時以来、一ヶ月振りの十二月の中頃の事だった。
寒さのせいで気分が落ち込みやすい。体調も良くないせいか、電話口の涼太は頻りに大丈夫か、と聞いてきた。
キン――と冷える早朝、十年前に負った古傷が嫌にズクズク疼く。
「本当に大丈夫か? お前は何も言わないから心配なんだよ」
「問題ない。それよりどうした?」
ええと――と涼太には珍しく言い渋っている。
「こちらの体調を心配しての電話ではないだろ? 一体何だ」
「心外だな。心配してるさ。ただ、今更になって和に言うべきか否か迷っているんだ」
「呆れたな、本当に今更なことだ。できれば自分に関係ないことに関わりたくないが――当てようか、白石夫妻のことだろ?」
ああ、そうだ――と涼太は観念したのか、息を吐くように声を溢した。
「巻き込んで済まないと思っている」
「散々言っているが不可抗力だ。涼太が気にすることではない」
救急車で運ばれて行った夫妻を見送った後、涼太は深く反省をし謝罪した。
信子のこともあったが赤の他人の和人を巻き込んでしまったことに大きく悔い、本人にも謝罪をしたのだが先程の通り和人は、自らついて来たのだから涼太に非は全く無い――と述べている。それを再び伝えても、涼太の一人反省会は響かなかった。
「それで、夫妻はその後どうしたんだ?」
「白石さんのことを和から聞いてくるとはな」
ここずっと能動的な様子を見せてこなかっただけに、涼太は驚きを隠せないでいた。
「信子さんが亡くなったのは承知済みだろうけど。実はな、旦那の白石晃さんも昨日亡くなったんだ」
目を見開いて、身体を強張らせた。
「なんだと?」
「自宅で殺害されているのを大家さんに発見されて、俺に連絡が来た」
「殺害」
「ああ――」
涼太の心の痛みを感じた苦しそうな声は初めて聞いた。
「晃さんのことが心配だったから、大家さんに気にしてくれるよう頼んでたんだ。信子さんの葬儀の手配も大家さんが率先して引き受けてくれていたから、頼りになるだろうとは思ってたんだけど。まさかこんな事になるなんて」
言葉が出てこない。身体が硬直し筋肉がミシリと強張る。
「今宗次郎たち警察が捜査している。もしかしたら和にも連絡が行くかもしれないから、先に報告の電話をしたんだ。申し訳ないが事情聴取されるかも」
橋田宗次郎は涼太と同じく小学生の時からの幼馴染みで、現在警視庁刑事部捜査第一課に所属している。最近はあまり会えていないが、涼太と共に和人を心配して何かと面倒を見てくれていた。和人にとって頭の上がらない存在だ。
勿論しっかり感謝は述べているが、頭が上がらないことは内緒にしている。
「捜査協力は構わないが」
構わないが、ほんの一時間にも満たない出会いだ。残念だが何の情報も与えることは出来ない。
「白石夫妻は近所付き合いもない。最近会っているのは俺と大家さん、和くらいなんだ」
「そこに俺が入るのは不服だが」
「立派な容疑者って所だな」
ふぅ――と和人は呆れたように息を吐いた。
「分かった、疑われないように気をつける」
「ははっ、そうしてくれ。本当に済まないな」
それじゃ、と静かに電話は切れた。
平穏に暮らしたかったが、人生とはどれだけ自分が大人しく過ごしていたとしても不穏な気配は容赦なく訪れるものなのだと、よくよく思い知らされる。今がまさにそうなのだろう。
仕方ない、和人は億劫そうに椅子に座った。
警察が来るか来ないかは分からないが、待っていてもしようがない。
次の小説の執筆でもしようか、真っ白な原稿用紙を広げる。
特に何を書くとは決まっていない。
また怪奇ものを書くか、万年筆を握る。
ふいに浮かんだ材料。
ある田舎の豪農一族が巻き込まれる怪奇な事件。
一族には美人姉妹がいる。
石造りの頑丈な蔵が敷地内にあり、その横には厩舎。広い庭には立派な松の木が植わり、その下に石に囲われた池。何匹もの錦鯉や金魚が優雅に泳いでいる。
ありきたりの小説だな――万年筆を原稿用紙の上で転がすとペン先が原稿用紙に一瞬触れ、わずかに黒い線が伸びた。
怪奇で謎めいた物語なら横溝正史や江戸川乱歩が好んで、既にこの世に幾つも出版されている。日本の探偵小説を牽引してきた二代巨頭に敵う筈もない――和人は自分を落ち着かせるために唇を舐め擦った。
原稿から一旦距離を置こうとすると、途端に脳裡から白石夫妻が現れ出る。
信子は美人の類だったろう。それこそ、横溝作品に出てきて、金田一耕助が一目惚れをしそうな。
死のうとする信子をあんなにも必死に止めようとした白石もベタ惚れだったのだろう。
胃に不快感を覚える。本格的に調子が悪くなってきた。
夫妻のことが頭から離れず、脳の中で二人の生気のない顔が湧き上がっては消え湧き上がっては消えを何度となく繰り返す。
信子の白い死に顔。
妻に縋る白石の悲壮な顔。
顔。
かお。
カオ――。
――助けたかった……。
眼の前で白石が泣き叫び、信子に縋り付く様は十年前の自分の姿と重なる。
助けたかった。
忘れたい。
忘れたくない。
鼻をつく血の臭い。
アスファルトの臭い。
耳に残る男の嗤い声。
――温かい、涙……。
水城譲――……。
助手を務めてくれていた年上の女性は元は和人の父親の助手をしていた人だ。
探偵の助手としてだけではなく時折家族のように、姉のように接してくれていた。
言葉にはしなかった。
出来なかった。
最後の最後まで。
――愛している、と。
好きです、と。
言えなかった。
悔いている。
もし――もしも、和人が告白していたら、あの場に水城はいなかったかもしれない。
いなかったら、死なせることもなかった。
かもしれない、かもしれない――。
過去の起きてしまった事を今更自分自身で賛否を天秤にかけた。
天秤にかけた所で過去を変えることは出来ないと何度も言い聞かせ、普段は忘れようと努めている。周りに迷惑が掛からないようにしているが、ドツボに嵌るともうどうしようもない。自分でも制御出来なく、どんどん渦中に飲み込まれてしまう。
参った――頭痛がする。重い。胸が締め付けられる。
内臓が浮遊して静かに沈んでいくように、気が滅入った。
あの人の顔が、あの男の顔が、ぐるぐると頭を廻る。
ぐるぐると。
ぐるぐると――。
「和人!」
「!」
いつの間にか机を挟んだ目の前に、大柄のよく見知った男が立っていた。
「大丈夫か? 酷い汗だ」
太い眉が大袈裟に八の字を描く。
「ああ、宗次郎か」
助かった、ホッと息を吐いた。
どうやらほんの数分だが、意識を彼世界にやってしまっていたらしい。
「相変わらず不用心だな、玄関の鍵開いたままだったぞ」
「予想より早いお出ましだ。そんなに情報が無いのか?」
橋田宗次郎はフン、と鼻息荒く警察手帳を見せた。その後ろには知らない顔がいる。
宗次郎の容姿を筋肉隆々のプロレスラーに例えるなら、後ろの男は前歯が異様に突き出ていて縦にひょろ長い『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する『ねずみ男』といった所か。前歯の出っ張り具合が個性的で、簡単には忘れられない。
「白石晃さんが亡くなったのは涼太から聞いているようだな。だったら話は早い」
「と、言われても白石晃さんとは一月程前に一度お会いしたきりで、涼太に付いて白石さんの住むアパートに伺ったまで」
ねずみ男が手帳に走り書く。
「何か気付いた点はないか? 確か奥さんの信子が自殺した日にお前と涼太はアパートを訪ねているんだよな?」
「そうだが」
当時感じた違和感を伝えても良いものなのか、余計に事件を混乱させるだけではないか、言い倦ねた。
「なんでも良い、ないか何か」
和人の洞察力を信じている。探偵をしていたからではなく、幼い頃から付き合いのある宗次郎だからこそ知っている、和人の生まれ持った鋭い洞察力。
「夫人が亡くなった時、警察も捜査していますよね。そこに不審な点があると?」
親指をペロリと舐め、宗次郎は警察手帳を捲った。
「糸が見つかっているな。赤い刺繍糸。玄関のドアノブから夫人が首を吊った丸電球まで。何か細工がされていて、一応殺人も視野に入れて他に何か物証となるものがないか探してみた」
しかし殺人たる証拠はそれ以上見つからなかったと言う。
「最初こそ糸がドアノブで引っ張られることで首が絞まり、自殺に見せ掛けた他殺かと考えていた」
警察側と同じく、和人も最初は他殺の線を考えた。
ドアノブに結んであった糸は太いロープではなく、細い糸が六本縒り合わさったよく使用される二五番の赤い刺繍糸である。もし他殺ならもっと見つけ難い弦楽器に使用するピアノ線を使用したり、発見される前に回収したりするものだが、そういった形跡は無い。
刺繍糸は信子の私物を使用したと見られているが、それにしても他殺だったとして細い刺繍糸だけでは犯人に何のメリットも無いのだ。
結果、何のための刺繍糸なのか不明のまま、信子は自死として片付けられている。
「宗教的な儀式の線も考えたんだがな。信子は入信していなくても晃の方が何らかの、例えば信子のことで悩んでカルト宗教に入っちまった可能性も捨てきれなかったんだが、どこにも所属していないし今までで宗教絡みで似たような事件は起きていない」
「信子さんの件以降、俺は白石晃さんとは会っていないし、宗教絡みも含めて警察が欲しいだろう情報は何一つ持っていない。残念ながらな」
そうか、宗次郎は簡単に引き下がった。
ねずみ男はそんな宗次郎に驚いていたが、口出ししない所を見るに先輩後輩の間柄なのだろう。
「それで、白石晃さんの死因は?」
「失血死。包丁で滅多刺しだ」
だったらニュースにもなっていようが、今朝はまだ新聞もテレビも見ていなかった。
凶器となった包丁は白石家にあった物と推測されている。
白石は丸電球の真下に血塗れになって死亡していた。
信子の死んだ丸電球の真下で。
見つけたのは大家だった。
残念ながら大家はアパートで暮らしておらず、争った声や不審人物を目撃していない。周辺の聞き込みも空振りに終わっていた。頼みの綱であった信子の主治医、涼太にも昨日事情聴取をしたが、新しい情報は出てこなかった。
近所付き合いは一切なく、生活保護を受給し細々と暮らしていたようだ。
二人に親族はおらず、白石の両親は白石が幼い頃に死別し施設で育っている。信子の母親はこちらも死別しているが、父親は信子が幼い頃に離婚して十数年と会っていない。
どこにいるのか、もうこの世にいないのかも分かっていなかった。
「一応な、離婚後に住んでた場所までは特定出来たんだが、そこから先の足取りは掴めていない」
先輩、とねずみ男が慌てた。
「なんだ?」
「そんなことまで話して良いんですか」
「こいつは良いんだよ」
昔から和人は口は堅い。そこだけは自身も唯一自慢できると思っている。
幼馴染みは、それだけじゃない、とは言ってくれるが、正直に言うとそれだけしかない。
ねずみ男は不審気にジロジロと舐め回すように、和人を足の先から頭の天辺まで見尽くした。
余りに説明もなく、こいつは良いんだよ、だけで終わらせたもんだから仕方ない。
随分不躾な態度に和人は苦笑した。
「そういえば挨拶まだだったな。こいつは若井貴将、今年刑事部に配属された」
どうも、若井は軽い会釈をした。
「嵐橘です。文筆業を営んでいます」
「こいつは俺の小学校時代からの幼馴染みだ」
ほぇぇ、と若井は変な声を出した。そんなに宗次郎の幼馴染みが珍しいのか、更に和人をしげしげ品定めしてくる。
「先輩に文筆業をお仕事されているような幼馴染みさんがいるなんて驚きです。どんなの書かれているんですか?」
「児童文学を、少々――」
「和」
宗次郎を見れば、溜息を吐きながら首を横に振っている。
「警察官に嘘は良くねぇぞ」
「嘘?」
若井の喉からスットンキョンな声が聞こえた。
嘘ではない。怪奇小説が児童文学として出版されることが稀にある。
「こいつは推理小説と、あとはなんだ? ああ、怪奇小説だったか。それを書いていてな、結構売れているそうだ。まぁ俺は読んだことないがな」
「ああ! 思い出しましたよ。嵐橘、嵐橘和人、そうですそうです。名前が難しくて頭に残っています。知ってますよ、何冊か読んだことあります」
読んだことあります、お会いできて嬉しいです、と握手を求めてきた。
こうなるから言いたくなかった。
どうも――和人は宗次郎を睨みながら少し右手を差し出すと、若井に引っ手繰られ大きく上下に振られた。
「いや、まさか先輩の幼馴染みさんがあの超人気の大作家先生だなんて驚きです」
「調子の良い事言いやがって。名前言っても気付かなかったじゃねえか」
それはそれです――訳の分からない言い訳を、さも当然のように断言した。
「まさかご友人が小説家の大先生とは思わないじゃないですか」
やはり若井はねずみ男に似ている。容姿もさることながら、性格もどことなく似ている。
「先輩もお人が悪いな。ご自宅に来る前に仰ってくれれば本用意してサイン書いて貰っていたものを」
ねぇ――と大先生に同意を求めた。
本当に読んだことあるのか怪しい。
和人は作家内でもサインを書かないので有名だ。書いて何になるというのか、ファン心理が全く理解できない。
さておいて――宗次郎が咳払いをした。
大分路線がズレている。
「刺繍糸の件だが、何かトリックとか考え付かないか? あれが自死だとしても刺繍糸に何かあるんじゃないかと考えてるんだが」
「あんなに大雑把な仕掛けでは例え何かしらのトリックを使ったとしても、子供でも簡単に見破れますよ」
「じゃあ、刺繍糸は意味ないのか?」
「さあ、どうでしょう」
警察はそう判断したが、宗次郎は納得出来ていない。
「結果は自死だが後味が悪すぎて良くねぇ」
分からなくもないが、このまま刺繡糸に固執していても捜査の妨げになるだけだ。
「先輩、それはもう終わった捜査でしょ。今は白石晃の犯人を見つけなければですよ」
若井のもっともな発言に宗次郎は拳骨を作って後輩の頭を殴った。
痛い――理不尽な暴力に涙目になっている。
「とにかく、和、何か思い付いたら連絡くれ」
「分かった。できる限り協力するよ」
若井の後頭部を今度は思いっきり叩くと、ほら行くぞ、と和人に背中を見せた。
連絡をくれ、と言うが和人から宗次郎や涼太に電話することは滅多にない。三人の中で一番電話をするのは涼太だ。
一体いつ仕事をしているのか、と疑う程涼太は日中に電話をしてくることが多かった。
心療内科は昭和三八年に講座が九州大学にできたばかりのまだまだ認知度の低い医療科目である。
涼太曰く、これから必ず現代社会に疲弊して必要とする人達が増える、時代が変われば人の心と身体は追いついて行けなくなる日も近い。今のうちに学問を広げておくに越したことはないだろう――と酒の席で朱色を帯びた顔が熱心に語ったのをよく覚えている。
本人は酔った上での口上をどこまで覚えているのか知れないが、適当そうな人間に見えるけれども考えはしっかりと自分の中に定まっているのだろう。
今回の事件では涼太が一番メンタルに来ているに違いない。
近々電話でなく直接土産でも持って会いに行こう――宗次郎達を見送り、ふと郵便受けに何か挟まっているのに気付いた。
郵便受けは殆ど新聞が入れられるだけで、勿論読者からの手紙は出版社を通して担当者が持って来てくれる。それだけに封書が郵便受けに入っていることは稀だ。
白い封筒。
宛先は書いてない。切手も貼っておらず裏面にも表にも送り主の名が記されていない。
陽に照らしてみると、どうやら薄い紙らしき物が一枚入っているようだ。
特に厚みもない。
和人はその場でゆっくり封を切った。
白い便箋が一枚。
慎重に便箋を取り出す。
二つ折りだ。
時折住所を突き詰めた読者からの手紙が届くことは本当に極偶にあることにはあるが、今回のはそういった類の手紙ではないことは直感で悟った。
まさか――肺が締め付けられて呼吸が出来ない。
眩暈がする。
身を守ろうと自然と前屈みになる。
「嘘……だろ……」
喘ぐように言葉を漏らし、和人は世界が大きくうねり歪んでいくのを見た。
『楽しみたまえ』
それだけだった。
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