ベーコンバニラ
ドアラ
第一話
6月。県大会が終わり、室内競技のバスケ部やバレー部なんかは普段よりゆったりメニューを楽しんでる。でも、僕たち陸上部には…
「ミニョガ、見て。こりゃ整備大変だ」
「うわ、マジ無理…」
地獄の6月である。
「今日も整備かな」
「でも午後雨らしいよ」
「ええ?!じゃあ意味ないじゃん」
「まあでも整備楽しいし…」
陸部で唯一同じクラスのキヒョンは練習より整備に燃える整備オタクだ。僕には全く気持ちがわからない。ぐしょぐしょの土グラウンドときゅうりがこの世で一番嫌い。
「筋トレも嫌だしな~」
「そんなんだからベストでないんだろ」
「キヒョンだってマイルのメンバー外されてたじゃん」
「それ言わない約束なんだけど…」
「お~い。ミニョガ~」
呼ばれて顔を上げる。廊下側の窓から顔を出してるあの肩ヤクザが僕らの部長。噂では中学時代は水泳界でかなり有名だったらしい。のに、水泳部のない高校に入学したパワフルな天然。
「今日整備って一年に伝えてくれ~」
「ショヌヒョン~今日夕方雨だよ~!」
「あ?あ~。でもやるから~」
要件を短く伝えて肩ヤクザは退場。筋トレメニュー考えるのがめんどい、って顔にかいてあった。
「キヒョナ、放課後ゲーセンいかない?」
「やだよ。雨だってば。早く帰って飯作らないと」
「主婦じゃん」
チャイムが鳴って適当に教科書を突っ込んでグラウンドに向かう。せっかく新しいスパイクピン買ったのに、日の目を浴びないままで可哀そうな僕のスパイクピンたち。
「だるいな~さぼっちゃう?」
「早くいくぞ」
サッカー部が土を固めるために撒いたカルシウムの粉みたいなやつの嫌なにおいが鼻に抜けてますます気乗りしない。わざと時間をかけてランシューのひもを結んでいると、ふわっと甘い匂いがした。
「こんにちは」
「…?」
なんだこの人…
「ヒョンウォナ、いますか?」
顔を上げると賢そうな固いブレザーの人が立ってた。うちの制服じゃない。体つきはがっしりしてるのに顔のラインはふわふわで、しかもいいにおいがする。
「あ、あいつならあっちに…」
「ありがとう」
どこの人だろう。制服ってことは高校生?あんな高校生いるのか?
「キヒョナ、あの人だれ?」
「え?あ~しらないの?高跳びで地区大優勝してる…」
「そんなすごい人なの?!」
「うん。ソウル大付属高とかの…。ヒョンウォンと中学一緒らしいけど、確か名前が…」
なんだろう、僕はしばらくその人から目が離せなかった。その人が歩いた軌道だけ色が変わる気がする。オーラっていうのかな。
「確か名前が…ウォノさんだよ」
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「キヒョンの言った通りだ…」
あいにく、ゲーセンから出ると外は土砂降りだった。厚くて黒い雲がじっと空を覆っていてしばらくやみそうにない。
「傘持ってないし…」
なんか帰る気分でもないな。なんかムシャクシャする。でもゲームするお金もないし、キヒョンもいないし、傘もないし、なんもないし…
「ん?」
途方に暮れて小さくなっていると、ザァザァとゲーセンの軒に打ち付けていた雨の音が突然弱まるのを感じた。
「入る?」
「わ、ウォ、ウォノさん?!」
「あれ?おれの名前知ってるの?」
首を上げた先に傘を広げて立っていたのは紛れもなくさっきのオーラを放っていた人だった。
「ヒョンウォンの友達、だよね?」
「は、はい!」
立ち上がってお辞儀するとウォノさんもフワフワ笑ってペコっと頭を下げた。傘の中いっぱいに広がるさっきの甘い香りにまた変な気持ちになる。これって香水なのかな。はたまた体臭?
「駅まで行くから、方向一緒なら入っていく?」
「入りたいです!」
「わあ、びっくりした」
勢いよく立ち上がって、僕の前髪からウォノさんに水滴が飛ぶ。
「あ、すみません僕ベタベタ」
「ん?いいよおれもだし」
肩を縮めて傘の中に入る。柄を掴んでスッと近づくと甘い匂いで頭がどうにかなりそうだった。
「あのー」
「ん?」
「これって体臭なんですか?」
「は?」
なんか失礼な質問をした気がする、と心の中であたふたしていたのも束の間、あっという間に駅に着いてしまった。ウォノさんはなんちゃらなんちゃらバニラっていう〜…って香水の名前を丁寧に教えてくれたけど、ふわふわ笑う横顔に気を取られていたから覚えられなかった。
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「ジュホナ、香水とか詳しい?」
「え?香水?」
今日もあいにくの雨。梅雨時期の陸上部はほぼ内職部である。
「ねり消しの話ですか?」
「違うよ、瓶に入ってるやつ」
「瓶に入ってるのは….シーブリーズみたいな?」
「それプラスチックじゃん」
ウォノさんに教えてもらった香水をどうしても思い出したい僕はあれから必死で周りに聞いているが、公立高校の陸上部男子、香水の知識なんて皆無である。
「あ〜ーー、どうせキヒョンは知らないしなあ」
「なんでだよ、聞けよ」
「じゃあわかるの?ほにゃららバニラ」
「…ヒント少なすぎない?」
「ほらわかんないじゃん」
机に突っ伏せてなんとか捻り出そうと頭を抱えるけど最初の文字も出てこない。僕記憶力は良い方なのに……
「アンバーバニラ」
「え?」
そう言うとダルそうに椅子を引いて左隣に座ったのはヒョンウォンだった。
「なに?」
「ローラメルシエのアンバーバニラ」
「な、なにシエ?」
「女性モノだよ」
ペラペラ続けて喋るヒョンウォンの言葉をとっさにメモに取る。
「おいしそー」
「ジュホナ、香水は飲めないよ」
「ベーコンバニラ?なのに?」
「アンバーバニラだよ…」
適当に取り出した数学のノートの端っこにぐちゃぐちゃメモした「アンバーバニラ」の文字、目でなぞるだけでもあの甘い香りを思い出す。
「ヒョンウォナ、ありが……え、でもなんでわかったの?」
「ん?知り合いが使ってるから、それかなって」
そうか、そういえばヒョンウォナはウォノさんと仲良いんだっけ
「ねえねえヒョンウォナ、あ…」
「おーい、2年ー聞いてるかーー」
教卓に頬杖をついたショヌヒョンが目線をこっちに向ける。黒板にはぐちゃぐちゃに書かれた「日曜、練習試合」の文字。
「もう一回言うぞー、日曜は練習試合だから、タータン用のスパイク忘れるなよ」
「ん?タータン用…?」
「珍しいね」
この辺ではタータンを敷いている公立高校はない。そこまで力を入れてる強豪校もないし何より維持費が高い。
「ショヌヒョン、どこでやるんですか?」
「それもさっき言ったんだけど、ソウル大附属高…………」
「ソウル大附属?!!!?!!」
急に立ち上がった僕に部員たちが一斉に視線を向ける。
「ど、どうしたミニョガ…」
「いや、あ、なんでも…」
キヒョンが目をまんまるにさせて僕の代わりにすみませーんって謝りながら笑う。
日曜、また会える!僕はもうあのベーコンバニラの香りで頭がいっぱいだった。
つづく
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