第26話 観測問題

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物理学における『観測問題』とは、悩ましいパラドックスだ。

電子のような、ミクロな世界の住人は、観測されるまでは、様々な可能性が重なり合った、曖昧な「波」として存在する。だが、私たちが「観測」という行為を行った瞬間、その波は収縮し、たった一つの、確定的な「粒子」としての姿を現す。

つまり、観測するという行為そのものが、観測対象の、ありのままの姿を、変えてしまうのだ。


そして、私たちの、始まったばかりの、この、名前のない関係もまた、この、厄介な法則の、支配下に置かれることになった。


学園祭の、二日後。

理学都市で最も読まれている、ウェブジャーナル『理学都市ジャーナル』に、一本の記事が掲載された。

その見出しは、あまりにも、センセーショナルだった。


『奇跡の学園祭『パラダイムシフト』成功の鍵は、二人の天才にあった! 秩序の《フィジカ》と、混沌の《エコン》。対極の才能が織りなす、美しき協奏曲(コンチェルト)!』


記事は、私たちの『パラダイムシフト・ミッション』の成功を、絶賛するものだった。

だが、その焦点は、いつの間にか、私たち個人の、関係性に、すり替わっていた。

事実と、憶測が、巧みに織り交ぜられ、私と蘭の関係は、まるで、運命に導かれた、宿命のライバルの物語のように、ドラマチックに、脚色されていたのだ。

昨日の、蘭の、あの「共同研究の真っ最中」という、思わせぶりな発言が、完全に、裏目に出ていた。


この記事は、瞬く間に、学内SNSで拡散された。

廊下を歩けば、あちこちから、ひそひそと、囁き声が聞こえてくる。

「読んだ? あの記事」

「読んだ! なんだか、すごいわよね、会長と副会長……」

「まるで、少女小説の主人公みたい……」


私は、自分の、整然としていたはずの世界が、他人の、勝手な解釈によって、土足で踏み荒らされていくような、不快感と、焦燥感に、襲われていた。

私は、小説の主人公なんかじゃない。

ただの、物理学を愛する、人間だ。

私たちの関係は、そんな、ロマンチックで、美しいものではない。もっと、ぐちゃぐちゃで、不確定で、始まったばかりの、実験なのだ。

だが、一度、世に出てしまった「物語」の力は、あまりにも、強かった。

私たちは、観測され、そして、定義されてしまったのだ。

『フィジカとエコン』という、一つの、記号として。


**2**


「……まあ、面白いじゃない。私たちの、ブランド価値が、上がったってことよ」


評議会室。

蘭は、その問題の記事を、プリントアウトすると、こともなげに、壁の掲示板に、ピンで貼り付けた。

その、あまりにも、無神経な行動に、私は、声を荒らげずにはいられなかった。


「……面白いわけ、ないでしょう!」

「あら、どうして? 事実も、書かれているわ。私たちの、才能が、素晴らしいってね」

「問題は、そこじゃないわ! 私たちの、プライベートな関係が、まるで、見世物のように消費されているのよ! こんなの、耐えられない!」


私の、悲痛な叫びに、蘭は、きょとんとした顔をした。

彼女には、本気で、私が、なぜ、こんなに怒っているのかが、分からないらしい。


「見世物? 消費? 大げさね、フィジカ」

彼女は、肩をすくめた。

「これは、私たちの『共同研究』にとって、絶好の実験材料じゃない。外部からの『観測』というパラメータが、私たちの関係性にどんな影響を与えるのか。……こんなに、面白いデータ、滅多に手に入らないわよ?」


データ。実験材料。

彼女の口から、当たり前のように出てくる、その言葉が私の心を逆撫でした。

私たちの、この繊細で不確かで、私にとっては、とても大切なこの気持ちを。

彼女はやはり、ただの研究対象としてしか、見ていないのではないか。

あの、冷徹な『費用便益分析』の延長線上でしか。


「……あなたには、分からないのね」

私は、冷たく、言い放った。

「私の、この気持ちが」


「……ええ。分からないわ」

蘭もまた静かに、しかし、きっぱりと言い返した。

「だから、『研究』しているんじゃない。分かるために。……違うの、理乃?」


その、あまりにも真っ直ぐな問い。

そして、初めて、二人きりの時以外で呼ばれた、私の名前。

その、二つの衝撃に、私はぐっと言葉に詰まってしまった。

そうだ。

私たちは、まだ、何も分かり合えてなど、いないのだ。

この、すれ違いも苛立ちも、全ては私たちの研究のプロセスの一部でしかない。

そう、頭では分かっているのに。

私の心は、どうしても、納得ができなかった。


**3**


その日の放課後。

私たちの「共同研究」の、第二回ミーティングが、半ば強制的に開かれた。

テーマは、蘭が一方的に決めた。

『社会的交換理論に基づく、贈与行動の最適化に関する実験』。

……要するに、決められた予算の中で、お互いのためのプレゼントを買いに行こうという、ただの買い物デートだった。


「ルールは、簡単よ」

理学都市の、中心街にある、デパートの前で、蘭は、楽しそうに、説明した。

「予算は、一人、三千円。制限時間は、一時間。それぞれ、相手が、最も『効用(満足度)』を感じるであろう、プレゼントを、選ぶこと。いいわね?」


「……分かったわ」

私は、しぶしぶ、頷いた。

気は、進まない。

だが、これも、研究のためだ。

私は、自分の思考を、完全に、科学モードへと、切り替えた。


相手の、満足度を、最大化する。

そのためには、まず、相手の、嗜好を、正確に分析する必要がある。

宇沢蘭。

彼女が、好むものは、何か。

紅茶、ハーブ、古い哲学書、そして、美しいもの。

だが、同時に、彼女は、極めて、合理主義者でもある。

ただ、美しいだけの、無駄なものは、好まないはずだ。

『費用便益分析』。彼女自身の、言葉だ。

ならば、私が選ぶべきは、美しさと、実用性を、兼ね備えた、最も、費用対効果の高い、商品。


結論は、すぐに出た。

私は、デパートの、高級文具売り場へと、直行した。

そして、数ある商品の中から、ドイツ製の、美しいデザインの、しかし、極めて、実用的な、万年筆を、選んだ。

値段は、二千九百八十円。予算、ギリギリ。

これならば、彼女の、知的好奇心と、実利を、同時に満たすことができるはずだ。

完璧な、選択。

私は、自分の、論理的な判断に、満足した。


**4**


一時間後。

私たちは、デパートの屋上庭園で、落ち合った。

お互いの、プレゼントを、交換する。


「……はい」

私は、少しだけ、緊張しながら、ラッピングされた、万年筆の箱を、彼女に、手渡した。

蘭は、それを受け取ると、器用な手つきで、リボンを解いた。


「……へえ。万年筆」

箱の中身を見た、彼女の表情は、少しだけ、意外そうだったが、決して、悪くはなさそうだった。

「……なるほどね。私が、いつも、安物のボールペンを使っているのを、見ていたわけね。合理的で、実用的。いかにも、あなたらしい、選択だわ。……ありがとう、フィジカ。大切に、使わせてもらうわ」


よかった。

私の、分析は、間違っていなかった。

私は、ほっと、胸を撫で下ろした。

そして、今度は、彼女の番だった。


「はい、理乃。これは、私から」

蘭が、私に、手渡してきたのは、手のひらに、収まるくらいの、小さな、ビロードの袋だった。

中には、何か、硬くて、角張ったものが、入っている。

なんだろう。最新の、USBメモリか? あるいは、小型の、電子辞書だろうか。


私は、期待に、胸を膨らませながら、袋の、紐を解いた。

そして、中から、出てきたものを見て、完全に、固まってしまった。


それは、ただの、ガラスの塊だった。

手のひらに、収まるくらいの、何の変哲もない、透明な、三角柱。

……文鎮? いや、それにしては、軽すぎる。

一体、これは、なんだ?


「……なに、これ」

私のあまりにも素直な疑問に、蘭は心底楽しそうに、くすくすと笑った。

「プリズムよ」

「……プリズム?」

「ええ。太陽の光を七色に分解する、魔法の道具」


彼女は、私の手から、そのガラスの塊を取り上げると、夕暮れの、西日に、かざしてみせた。

その瞬間。

奇跡が、起きた。

プリズムを通り抜けた光が、私たちの足元に、鮮やかな虹色のスペクトルを描き出したのだ。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。

それは、あまりにも美しく、幻想的な光景だった。


「……綺麗」

私は、思わず、呟いていた。


「でしょう?」と、蘭は、満足げに微笑んだ。

「……何の、役にも立たないけどね」

「え……?」

「だから、何の実用性もないってこと。ただ、部屋に置いておけば、天気のいい日には壁に虹を作ってくれる。……それだけ。でも、素敵じゃない?」


私は、言葉に、詰まった。

素敵、か。

確かに、綺麗だ。

でも、何の役にも立たない。

私の、論理的な、頭脳は、このプレゼントの価値をどう計ればいいのか、全く理解できなかった。


「……どうして、これを?」

「ん? なんとなく、よ」と、蘭は、肩をすくめた。

「あなたの、その、白と黒の、モノクロの世界に、少しだけ、色を、足してあげたくなったの。……それだけじゃ、ダメかしら?」


ダメか、と問われれば、ダメではない。

ダメでは、ないのだが。

私たちの、「共同研究」は、どこへ、行ってしまったのだろう。

相手の満足度を、最大化する、という、課題は。


私は、足元に広がる、儚い、虹の欠片を、ただ黙って見つめていた。

それは、私が蘭に贈った万年筆のように、役に立つものでも、形として残るものではない。

太陽が雲に隠れれば、あっという間に消えてしまう、束の間の幻。


観測されることによって、変わってしまう、私たちの関係のように。

美しくて不確かで、そして、何の役にも立たない。

宇沢蘭という、人間そのもののような、贈り物。

その価値を、私はまだ計ることができないでいた。


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