第6話 不完全な均衡点
**1**
甘利藍(アルゴ)が提示したデータは、私たちに冷静になる時間を与えてくれた。
だがそれは、問題の解決を意味しない。ただ、破局という名の断崖絶壁から、一歩だけ後退したに過ぎない。
私たちの前には、依然として、深く、暗い亀裂が横たわっていた。
「議題を再設定する――『この学園にとって、最も重要な価値は何か』」
評議会室のホワイトボードに、私は自らの手で、その言葉を書き記した。
書記である藍ではなく、会長である私が。それは、この議論から逃げないという、私自身の決意表明でもあった。
だが、その問いは、あまりにも壮大で、哲学的すぎた。
「そんなの、決まってるじゃない。『挑戦』よ。現状維持なんて、退化と同じだわ」
宇沢蘭が、腕を組みながら、退屈そうに言う。
「いいえ、まずは『安定』した基盤がなければ、挑戦すらできません。全ての生徒が安心して学べる環境こそが、最優先です」
私が反論する。
「その安定を守るために、公正なルールが必要なのです。『公正』なくして、信頼関係は成り立ちません」
袴田瑞穂が、毅然とした態度で付け加える。
「しかし、そのルールも、財政的な裏付けがなければ絵に描いた餅に過ぎないわ。『現実』から目を背けては、何も始まらない」
新井結衣が、冷徹に指摘する。
結局、私たちは、同じ場所をぐるぐると回り続けていた。
それぞれの信じる「正義」を、別の言葉で言い換えているだけ。
議題を再設定したところで、それぞれの価値観の根っこにある対立構造は、何も変わっていなかったのだ。
重苦しい沈黙が、評議会室を支配する。
せっかくアルゴが示してくれた第三の道も、このままでは幻に終わってしまう。
(どうすれば……)
私は、ホワイトボードに書き出した、四つの価値を睨みつけた。
『挑戦』『安定』『公正』『現実』。
これらは、本当に、互いに相容れないものなのだろうか。
物理学の世界では、相反する力が働くことで、一つの系が均衡を保つことがある。引力と斥力。遠心力と求心力。
もしかしたら、私たちのこの対立も……。
その時だった。
「……あの、よろしいでしょうか」
おずおずと手を挙げたのは、ずっと議論の行方を見守っていた、庶務の長谷川華奈さんだった。
「セクレ? どうかしたの?」
「いえ、その……。皆さまの仰ることは、どれもとても大切で、素晴らしいことだと思うんです。ただ、その……」
彼女は、少しだけ言い淀んだ後、ふわりと、花が綻ぶような笑顔で、こう言った。
「なんだか、とても難しくて……。もっと、シンプルに考えてみては、いかがでしょう?」
**2**
「シンプルに、ですか?」
瑞穂が、怪訝そうに聞き返す。
「はい」と、華奈さんは頷いた。
「例えば、ですけれど。この学園は、一体『誰』のためにあるのでしょう?」
その、あまりにも素朴で、根本的な問いに、私たちは一瞬、言葉を失った。
学園は、誰のために?
そんなの、決まっている。生徒のためだ。
「もちろん、生徒のためよ」と、蘭が少し苛立ったように答えた。
「だからこそ、生徒の才能を最大限に引き出すための『挑戦』が必要だと言っているの」
「ええ、そうですわよね」
華奈さんは、にこやかに蘭の言葉を肯定する。
「では、宇沢副会長。あなたのプランで、もしコンペに敗れて、活動資金がなくなってしまった生徒がいたら……その子は、どうなってしまうのでしょう? その子のための学園では、なくなってしまうのでしょうか?」
「それは……」
蘭が、ぐっと言葉に詰まる。
「……自己責任よ。競争とは、そういうものだわ」
「そうですか……」
華奈さんは、悲しそうに眉を寄せると、今度は私の方に向き直った。
「では、桜井会長。会長の『安定』した世界では、もしかしたら、宇沢副会長のような、常識の枠に収まらない素晴らしい才能が、生まれるチャンスを失ってしまうかもしれません。それは、その才能を持った子にとって、本当に幸せなことなのでしょうか?」
「……っ」
私もまた、胸を突かれた。
私の守ろうとしている均衡は、もしかしたら、誰かの可能性を縛る、優しい檻に過ぎないのかもしれない。
華奈さんは、さらに結衣と瑞穂にも、同じように問いかけた。
現実を重視するあまり、夢を諦めさせてしまうことの残酷さ。
公正を求めるあまり、個人の特別な事情を切り捨ててしまうことの冷たさ。
彼女の言葉は、ナイフのように鋭くはない。むしろ、春の陽だまりのように、穏やかで、優しい。
だが、その優しさ故に、私たちの心の最も柔らかい部分に、深く、静かに染み込んでくる。
私たちは、学園全体という大きな主語で物事を語るあまり、そこにいる「一人ひとり」の生徒の顔を、忘れかけていたのではないか。
「私が思うに」
と、華奈さんは、少しだけ恥ずかしそうに、自分の意見を述べ始めた。
「この学園にとって一番大切なのは、『ここにいる誰もが、自分のままでいられること』なんじゃないかなって……思うんです」
挑戦したい子は、挑戦できる。
静かに研究したい子は、それができる。
失敗してしまった子は、安心して休める。
ルールを守れない子には、なぜそれが必要なのかを、一緒に考えてあげる。
「それぞれの違いを、無理に一つの正しさにまとめるのではなくて、その違いを、そのまま受け入れられるような……。そんな場所が、私たちの目指すべき学園の姿なんじゃないでしょうか」
彼女の言葉は、まるで魔法のようだった。
あれほど硬直していた私たちの思考が、ふっと軽くなるのを感じた。
そうか。私たちは、難しく考えすぎていたのかもしれない。
目指すべきは、完璧な一つの数式ではない。
無数の異なる価値観が、それぞれに居場所を見つけられるような、もっと柔軟で、もっと懐の深い「場」そのものを作ることだったのだ。
**3-**
「……面白いわね」
最初に口を開いたのは、宇沢蘭だった。彼女は、腕を組んでいたのを解くと、興味深そうに華奈さんを見つめている。
「違いを、そのまま受け入れる、か。まるで出来の悪い多様性(ダイバーシティ)の標語みたいだけど……。まあ、悪くないわ。私の『自己利益の最大化』も、その中なら居場所がありそうだし」
「ええ。私も、賛成です」
瑞穂も、硬い表情を緩めていた。
「法とは、本来、弱者を守り、多様な価値観が共存するためにあるべきです。個人の事情を無視した、画一的な公正は、真の公正ではない。……セクレ、あなたの言葉で、目が覚める思いがしました」
結衣もまた、静かに頷いていた。
「……確かに。一人ひとりの生徒という『個別具体的な案件』に立ち返って考えるべき、か。会計の原則にも通じるわね。全体の数字だけを見ていては、本質を見誤る」
そして、私は。
私は、ホワイトボードに向き直ると、今まで書き連ねてきた、たくさんの難しい言葉たちを、全て消した。
そして、新しく、こう書き記した。
『誰もが、自分のままでいられる学園』
「……これが、私たちの新しいゴールよ」
私は、評議会のメンバーを見渡して、宣言した。
「このゴールを達成するために、私たちのそれぞれの価値観を、どう組み合わせればいいか。もう一度、考えてみましょう」
そこからの議論は、驚くほど、建設的に進んだ。
「挑戦」と「安定」。
この二つを、対立ではなく、両立させることはできないか。
「……例えば、こうはどうだろう」
口火を切ったのは、意外にも、蘭だった。
「私のコンペ案は、規模を縮小して、学内ベンチャー支援施設『LaunchPad』の内部プロジェクトとして実施する。成功すれば大きなリターンがあるけれど、失敗しても、学園全体の財政を揺るがすことはない。リスクを限定した、いわば『実験区』を作るのよ」
「なるほど」と、結衣が即座に反応する。
「その上で、桜井会長の言う『基礎予算』は、全団体に保証する。それが、セーフティネットになるわけね。財政的にも、十分に実現可能だわ」
「それならば、法的な問題もクリアできます」
瑞穂も、付け加えた。
「挑戦の機会を一部で提供しつつ、全ての生徒の活動の権利は保証される。機会の均等は、守られます」
パズルのピースが、一つ、また一つと、あるべき場所にはまっていくような、不思議な感覚。
あれほど反発し合っていた私たちの理論が、華奈さんの示した新しいゴールのもとで、見事に融合していく。
挑戦したい者は、リスクを取ってコンペに参加する。
安定を求める者は、保証された基礎予算の中で、着実に活動を続ける。
失敗した者は、セーフティネットに守られ、次の機会を待つことができる。
それは、私が最初に考えた「完璧な均衡」ではなかった。
そして、蘭が夢見た「創造的破壊」でもない。
様々な矛盾や、不完全さを抱えながらも、なんとかして全体のバランスを保とうとする、いびつで、人間臭い、不完全な均衡点。
――ナッシュ均衡。
ゲーム理論において、どのプレイヤーも、自分だけが戦略を変更することによって、より良い結果を得ることができない状態。
誰もが完全に満足しているわけではない。
でも、誰もが、今の状況を「受け入れてはいる」。
**4**
「……決まり、かしらね」
長い議論の末、蘭が、どこか満足げに、それでいて少しだけ名残惜しそうに言った。
ホワイトボードには、私たちの新しい予算案の骨子が、箇条書きで記されていた。
それは、誰か一人の天才が生み出した完璧な設計図ではない。
私たち五人(……そして、データを提供してくれた藍も含めて六人)の、異なる知性と価値観が、ぶつかり合い、削り合い、そして溶け合うことで生まれた、一つの共同作品だった。
「異議、ありません」と瑞穂。
「会計としても、承認します」と結衣。
「素晴らしい着地点だと思います」と、華奈さんが嬉しそうに微笑んだ。
私は、評議会のメンバー全員の顔を見渡した。
そこにはもう、最初の会議の時のような、刺々しい緊張感はなかった。
嵐は、過ぎ去ったのだ。
「それでは……」
私が、議長として、最終的な採決を宣言しようとした、その時。
カタカタカタ……。
それまで、ずっと沈黙を守り、私たちの議論の全てを記録し続けていた甘利藍が、不意にタイピングを止めた。
そして、ディスプレイに、一つの最終的なシミュレーション結果を、ポップアップさせた。
『新・予算案実行時における、五年後の学園満足度予測』
そこに映し出されたグラフは、美しい曲線を描いていた。
私の案のような、低空飛行の安定ではない。
蘭の案のような、乱高下の激しいギャンブルでもない。
緩やかに、しかし着実に、右肩上がりに成長していく、理想的な成長曲線。
そして、グラフの最終地点に、一つの予測値が、力強く示されていた。
『予測満足度:98.2%』
それは、私たちが、誰一人として想像していなかった、驚異的な数字だった。
不完全な私たちが、不完全なままに手を取り合うことで、初めてたどり着ける、奇跡のような未来。
データは、時として、詩よりも雄弁に、希望を語ることがあるのだと、私はその時、初めて知った。
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