第7話 毒喰らわば
翌朝。
養生用のクッションマット(あて布団)の上で目覚めた俺は、少しだけ体力の回復を感じていた。
石畳の冷気も遮断されており、予想以上に快適な目覚めだった。やはり、日本の現場資材は優秀だ。
「……さて」
俺は起き上がり、L字シールドのカマドに残っていた炭を確認する。まだ種火が残っている。
昨日の残りの炭を足し、草焼きバーナーで一気に火力を復活させる。
問題は朝食だ。
俺はビニール袋に入った、残りのボア肉を見つめる。
昨日はレベルアップによる回復があったから助かったが、今日はもう、あの回復は見込めない。同一個体からは経験値が入らない法則は確認済みだ。
正直、昨日のあの痺れと不味さを思い出すだけで、胃が拒絶反応を示す。
だが……これを捨てたら、俺に何が残る?
ショッピング機能で「種芋」を買って、農薬まみれかもしれないそれを齧るか?
果樹の苗を買って、栄養のない葉っぱをむしって食うか?
それとも……「ペット用品」カテゴリにある、ドッグフードでも食うか?
人間としての尊厳を捨てて?
「……嫌だ。それだけは、勘弁だ」
俺は首を振った。
この肉に問題があると思いたくなかった。
これが食料として成立しなければ、俺のサバイバルは詰む。
だから、俺はすがりつくような思いで一つの仮説を立てた。
『毒なのは肉そのものではなく、血ではないか?』
俺は確認のために、ビニール袋の底に溜まっている赤黒いドリップ(血)を指先に少しだけつけた。
覚悟を決めて、舐める。
「……ッ! ぺっ、ぺっ!」
走る痺れ。舌先がピリピリと麻痺していく。
肉そのものを噛んだ時より、液体の方が反応がダイレクトだ。
確定だ。原因は血だ。
つまり、強力に血抜きをすれば、この肉は上等なタンパク源になる!
「アルコールだ……アルコールで洗って、焼いて飛ばすんだ」
俺はショッピング画面を開き、「燃料」カテゴリを検索する。
あった。二つの商品が並んでいる。
A. 『燃料用アルコール(メタノール)』
B. 『燃料用アルコール(エタノール)』
「……よし、Bのエタノールだな」
俺は指を伸ばした。
だが、昨日の毒の影響か、寝起きで頭が働いていなかったのか。
ふっと視界が滲み、指先の距離感が狂った。
指が吸い込まれるように隣の A(メタノール) をタップしてしまったことに、俺は全く気づかなかった。
ドスン、と現れたガラス瓶。
俺はすぐに肉をアルコール漬けにし、揉み込んだ。
そして、熱した円形盾(ラウンドシールド)の上に肉を並べた。
本来なら、ここで「専用の鍋」を買うべきだった。
だが、焦っていた俺は「盾で焼けたんだから、フランベも盾でいいだろう」と短絡的に考えてしまった。
円形盾は、緩やかに湾曲しているだけの鉄板だ。縁が浅い。
俺は瓶から追加のアルコールを注ぎ、ロングライターで着火した。
ボッ!!!
「うおっ!?」
予想以上の爆発的な炎上。
そして、最悪なことに、注ぎすぎたアルコールが盾の浅い縁から溢れ出した。
燃える液体が、滝のように俺の足元へ流れ落ちる。
「熱ッ!? やばっ、引火する!!」
俺は慌てて後ろに飛び退いた。
だが、前髪に熱風が当たる。ジジッ、という嫌な音と、髪の焦げる臭いが鼻をついた。
「あつッ! くそっ、馬鹿か俺は!!」
足元の火を慌てて踏み消す。養生布団に燃え移らなくてよかった。
心臓が早鐘を打っている。
不安全行動。KY(危険予知)不足。
髪がチリチリに焦げただけで済んだのは奇跡だ。
だが、盾の上では、炎が収まり、肉が良い色に焼けている。
獣臭さも消えている。
「……食うぞ」
俺は焦げた前髪を払い、肉を口に運んだ。
舌先の痺れは昨日よりマシだ。これなら食える。
やはり血抜きは正解だった。
(※実際には、昨日のレベルアップで得た『毒耐性(微)』が、ボアの毒に対して仕事をしているだけなのだが、俺はそれを「調理の成果」だと信じ込んでいた)
俺は安堵し、肉を数切れ腹に収めた。
しかし、30分後。
「……ん?」
胃の奥から、鉛のような重苦しさがせり上がってきた。
視界が、チカチカする。
白い霧がかかったように、ぼやけて見える。
直後、頭の中に赤い警告ウィンドウが点滅した。
『警告:致死性毒物(メチルアルコール)の摂取を確認』
『臓器への深刻なダメージを検出』
「……は?」
ボアの毒じゃない。別の毒だ。
無機質なアナウンスが続く。
『スキル:毒耐性(微)が発動しました』
『毒性を完全には中和できません。緊急排出プロセスへ移行します』
『※警告:耐性がなければ、あなたは既に死亡していました』
「……し、ぼう……?」
思考が凍りつく間もなかった。
ギリュルルルルッ!!!
腹の中で、爆弾が破裂したような激痛。
内臓が雑巾絞りにされている。
「ぐ、あぁぁぁぁぁッ!!!」
俺はその場に転げ回った。
吐き気と便意が、同時に、しかも最大級の波で襲ってくる。
トイレだ。トイレに行かなければ。
だが、ここはダンジョンだ。トイレなんてない。
岩陰でするか?
いや、ダメだ。ここは俺の「拠点」だ。
換気も悪い地下空間で、野垂れ死ぬような真似をすれば、衛生環境が悪化する。感染症のリスクもある。品証部のプライドがそれを許さない。
「くそっ……買えばいいんだろ、買えば!」
俺は脂汗を流しながら、半狂乱でショッピング画面を操作した。
検索ワード:『災害用 トイレ』
あった。防災用品コーナーだ。
『災害用簡易トイレセット(ダンボール組立式・凝固剤付)』:800 PT
『トイレットペーパー(12ロール)』:300 PT
「購入ッ!!!」
ドサドサッと荷物が落ちてくる。
俺は震える手でダンボールのパッケージを引き裂いた。
組み立て式? 知るか!
俺はダンボールの枠を無理やり広げ、付属の黒いビニール袋をセットし、凝固剤をぶちまけた。
完成まで10秒。火事場の馬鹿力だ。
俺はトイレットペーパーをひっ掴み、その簡易トイレへと座り込んだ。
「おぇぇぇぇッ!!!」
「あがぁぁ……ッ!!」
地獄だった。
上から、下から。身体中の水分と、胃の中身が強制的に排出されていく。
メタノールの毒を、身体が全力で拒絶しているのだ。
耐性が毒の進行を食い止めている間に、身体が全力で異物を外へ出そうとしている。
すべてを出し切り、俺はその場に崩れ落ちた。
だが、まだ終われない。
俺は震える手で、汚物が入った処理袋の口を固く縛った。
凝固剤で固まっているとはいえ、これは「汚染物質」だ。
換気のないこの閉鎖空間に放置すれば、悪臭だけでなく、菌の温床になる。
不適合品(汚物)の残留は許されない。
「……捨て、なきゃ……」
俺は這々の体(ほうほうのてい)で、重い処理袋を引きずり出した。
足に力が入らない。地面を這うように進む。
目指すは、あの「幻影の壁」だ。
「はぁ……はぁ……」
わずか数十メートルの距離が、数キロに感じる。
ようやく壁にたどり着いた俺は、袋を抱えて上半身だけを壁の外へ突き出した。
通路に魔物がいないことを確認する余裕すらない。
ただ、腕を振る。
「……廃棄ッ!」
ドサッ。
処理袋を通路に放り投げた。
ダンジョンの自浄作用が働けば、あの袋ごと消滅するはずだ。
俺はすぐに壁の内側へ引っ込んだ。
「……処理、完了……」
最低限の衛生環境は守られた。
這々の体で拠点に戻る。
俺の目は、床に転がった瓶のラベルを捉えた。
『成分:メタノール 95%』
『注意:毒性あり。飲用不可』
「……押し間違えたのか……!」
昨日の毒で目が霞んで、隣のメタノールを買ってしまったらしい。
なんてことだ。
髪を焦がし、ボヤ騒ぎを起こし、その結果食ったものが猛毒。
俺は激しい頭痛と自己嫌悪に苛まれながら、養生布団の上で丸まった。
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