盾の間違った使い方

鍵弓

第1話 プロローグ・石橋を叩く前に落ちた男

 俺、佐東 柾(さとう まさき)は、五十歳のしがないサラリーマンだ。

 中堅の製造メーカーで『品質保証部(品証部)』に勤めている。

「品証部」と言っても中高生にはピンとこないだろう。

 簡単に言えば――不具合の原因を突き止め、再発しないように設計や製造へフィードバックする部署。

 要するに、トラブルの尻ぬぐいだ。

 常に最悪を想定し、石橋を叩いて渡る……いや、叩きすぎて割る前に、別の橋を探す。

 そんな仕事を、もう二十年以上も続けている。

 妻と娘は、三年前に交通事故で先立った。

 飲酒運転の車に突っ込まれたのだ。相手も死んだから、怒りをぶつける先すらなかった。

 それからは、ただ働くだけの日々。

 仕事をしていれば、余計なことを考えずに済む。

 いつの間にか職場では「ベテラン」だの「頼れるオジサン」だのと呼ばれるようになっていた。

 ……まあ、それでも、生きていれば慣れるもんだ。

 不具合も、人の欠陥も、原因を突き止めて対策を打てば、なんとかなる。

 そう信じてやってきた――まさか、この歳で異世界に行くことになるとは思わなかったが。

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 その日、俺はホームセンターにいた。

 休日に、自宅の物置で「オフグリッド電源」のDIYをしていたのだ。

 電線を加工しようと数年ぶりに電工ナイフを取り出したが――保管が悪かったのか、錆びついて使い物にならなかった。

 そこで、代わりのナイフを買いに来た、というわけだ。

 屋根にソーラーパネルを設置する予定もあったので、ついでに安全のためのヘルメットも購入した。

 買い物を終え、帰路についても、俺の不運は続いた。

 自宅へ通じる唯一の道が、陥没で通行止めになっていたのだ。仕方なく車を少し離れた場所に停め、五百メートルほどの距離をとぼとぼと歩く。

 秋晴れの空が白く輝き、まさに絶好のDIY日和だった。

 古びたマンションの横を通りかかった――その時だった。

「キャアアアアアアアッ!」

 頭上から、若い女性が甲高い悲鳴と共に降ってきた。

 反射的に見上げると、マンションの屋上から何かが――いや、誰かが落ちてくる。

 立ち止まったのが良くなかった。

 俺の真上。

 俺の頭めがけて、まっすぐに人が落ちてくる。

(あ、死んだ)

 走馬灯のように、すべてがスローモーションになった。

 制服からして、地元の進学校の生徒だ。娘の美弥が「制服が可愛い」と憧れていた、あの学校の。

 回避は間に合わない。

 妻と娘の顔が浮かぶ。

(……ごめんな。パパも今そっちに――)

 死を確信した、その瞬間。

 予期した衝撃は来なかった。

 代わりに、柔らかく、温かい感触が――俺の唇に重なった。

 時が止まった。

 俺は、自分に覆いかぶさるようにして空中で静止している女子高生と、ゼロ距離で目が合っていた。

 彼女の唇が、俺の唇に完璧に重なっている。

 彼女も何が起こったか分からないという顔で、ぱちくりと目を瞬かせた。

 本来なら俺と激突し、二人とも物理法則に従って即死していたはずだ。

 体が動かない。

 俺の最期は女子高生の唇か――妻以外の唇……。

「(……え?)」

 それが、俺の最後の思考だった。

 次の瞬間、俺たち二人の身体はまばゆい光に包まれ――意識は、そこで途切れた。

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「……………ん」

 どれほど時間が経ったのか。

 金属の冷たい感触と、カビ臭い埃の匂いで目が覚めた。

「(……ここは?)」

 目を開けると、ぼんやりと青白い光が明滅していた。発光苔だ。

 石畳のような冷たい床の上で、俺は大の字になっていた。

(……あの女子高生は!?)

 弾かれたように上半身を起こし、周囲を見渡す。だが、誰もいない。

 そこは、だだっ広い空間だった。ドーム球場より広いかもしれない。

 中央には、見上げるほどの巨体――恐竜? いや、アニメや小説に出てくる西洋風のドラゴンの骨が鎮座していた。崩れた化石ではない。今にも動き出しそうな、そう、ボーンドラゴンだ。

 博物館の展示のようにワイヤーで固定されているわけでもないのに、その巨体は不気味なほどの威圧感を放って自立していた。

「(……なんだ、これ)」

 畏怖から一歩後退ったその瞬間、パキリ、と乾いた音がした。

 足元で何かが割れた。視線を落とすと、どうやら骨だ。

 静寂の中で、冷たい汗が背中を伝う。

 よく見れば、そこは骨の山だった。

 複数の頭蓋骨がこちらを向き、ボロボロの装備や服の残骸が散らばっている。動物のそれではない。人の骨だ。

 そう、俺は死体の山の上に立っていた。

(あの女子高生はどこへ? 俺だけが、ここに……?)

 何かが・・・いる?

 この静寂は「死の静寂」だ。

 だが、この骨たちは何に殺された?

 恐怖が全身を駆け巡る。品証部の本能が警鐘を鳴らしている。

 逃げなければ。

 だが、出口らしきものは一つしかない。

(武器は? 武器は! ないのか?)

 骨の山を漁る。だが、剣は折れているか、錆びて使い物にならない。

 鎧も致命傷としか思えない風穴が空いており、防御の役に立ちそうにない。なにより中には白骨があり、それを脱がして着るなど精神的に無理だ。

(盾……これなら……)

 手近にあった盾を拾い上げる。

 持ち手は腐り、革は朽ちて崩れた。幾つか拾ってみるが、どれも似たような状態だ。

 だが、中には奇妙に無傷のものもあった。

 革の弾力すら残っている。

 職業病で、その劣化具合の差が気になるが――今はそれどころではない。

 俺は、使えそうな盾を選び抜いた。

 大盾、L字シールド、スパイク付き肩盾、円形のバックラー二枚。

 背中には大盾を背負い、右腕にL字シールド。

 左肩にスパイク付きの盾。

 両手にはバックラー。

 ――まるで、歩く要塞だ。

 それよりも、見た目は『リアル・ザク』だなと自嘲する。

 言い訳しておくが、俺は中二病ではない。右用の肩盾が壊れていたから、スパイク付きを左肩に付けるしかなかっただけだ。

 そして頭には、ホームセンターで買ったばかりの新品の工事用ヘルメット。

 どの盾にも、それぞれの主がいたのだろう。

 錆び、砕け、骨と共に朽ちた名も知らぬ戦士たち。

「……すまん、拝借するぜ」

 全ての盾は、誰かの遺品だ。

 名も知らぬ過去の英雄たちへ――頂いていきます。

 俺は手を合わせ、一礼した。

 その魂ごと、俺の守りに変える。

 ガシャン、ゴソッ。

 身じろぎするたび、不協和音が響く。

「……行くしかない、か」

 広い空間に独り言が虚しく響いた。

 出口はただ一つ。暗い通路。

 上方の穴は闇に続いている。飛べない俺には関係ない。

 一歩踏み出すたび、金属音が洞窟に反響し、心臓が跳ねる。

 それでも進むしかない。

 臆病は、慎重さの裏返しだ――俺はそう信じている。

 通路は狭く、両腕を広げれば壁に触れるほどだ。

 肩のシールドを擦りつけながら、ゆっくりと進む。

 10~20mほど歩いたか。

 湿った土と錆びた鉄の匂いが漂い始め、前方に光が見えた。

 壁一面に群生する、青白く光る苔。

 まるで夜空の蛍のように、幻想的な光景だった。

 俺は、思わず両手の盾を握り直す。

 鉄壁の守りは、まだ解くわけにはいかない。

 歩く要塞は、無音の光を目指し――重い一歩を、再び踏み出した。

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