この息が白いうちは
アンドリュー高木
第一話
『おい散歩さ行くんだで』
『あー何だっけ、それ』
『あー分からんかー。見識を深めるためには散歩だよ!散歩!』
『割となにもないだろこの辺り』
冬休みの午前四時半。
植田の指は送信ボタンに向かったまま震えた。
震えた理由を、冬の寒さに押し付けて。
夜は深い。
積もった雪は、眠りについた町の屋根の上でひっそりと息をしている。
小さな部屋で、液晶の光がほのかに青白く瞬いた。
植田がカップ麺の縁を指でいじると、部屋にはスチロールのざらざらした音が広がる。
この空間にある音といえば、それと植田の手元からポコポコと鳴る通知音だけだった。
そんな部屋に、植田のくぐもった笑いがささやかに響く。
部屋の静けさとは裏腹に、二人のチャットは賑やかだった。
いつも軽快な通知音をきっかけに、
千賀からメッセージが送られるのは、おおよそこの時間帯だ。
朝と夜の間、受験勉強に励む彼女の集中力が切れる頃、彼女は決まって下らない会話を始める。
その通知音が、いつも平坦な植田の夜を動かす。
普段なら、植田は受験勉強のために机の上のカップラーメンのゴミを片付けているはずだった。
しかし今日は、乱雑に物が散らかった机の上はそのままに、植田は手元の携帯に
ポコ、と木琴のような音が部屋に響く。
いじっていたゴミから手を離し、植田は手元に目線をやった。
『ほら、駅前にスタバできたよ?』
『誰がどう考えても赤字だろ』
『私たちで黒字にしようよ』
『中学生二人じゃ無理でしょ』
そもそもこんな時間にはやっていないということに千賀も気づいたのか、既読がついたままメッセージが止まる。植田はどこかおかしくて、暗い部屋には似つかないほど明るい笑顔で笑った。
続くメッセージがかなり遅れて、植田は彼女も笑っていた気がした。
『私二千円もってるよ』
『二千円で店はやっていけません』
『そうかなあ』
『そうだよ』
メッセージを送ってすぐ、なんの意味か分かりかねるスタンプが送られる。彼女のお気に入りのそれは犬の姿をしており、微細な表情の変化によって意図を伝えるものらしいが、遠目で見ても近くで見てもまるで分からないので、植田はこのスタンプは基本的に無視していた。
『そういえばこうして散歩に行くのも久しぶりですなあ』
『まだ行くって言ってないけどね』
『久しぶりにメッセージ以外で話すね♡』
『八日前に散歩したけど、偽物だった?』
『だって学校じゃ話さなかったじゃん。私たち』
『話したかったの?』
『うーん、何かちがう』
『じゃあメッセージでいいじゃん』
『そういうもんかあ、薄情だね』
『情に厚いと思われてたのか、俺』
何の意味も持たない会話、言葉と電気の無駄遣いは植田の大切な時間だった。
外に出るのは、千賀に誘われた時だけだ。
二学期の途中から学校に行かなくなってから、彼女に連れ出される散歩は、植田にとっての外の世界そのものになった。
散歩といっても、この小さな町では二人とも行ったことのない所を探す方が難しい。
用事も記念もないのに、千賀はいつも植田を連れ回した。
意味はわからない。
それでもたまに行われる彼女との意味のない散歩が、植田にとっては文字通り外の空気を吸う行為だった。部屋の中で煮詰まった思いや息苦しさを吐き出せる唯一の場所だった。
だからこそ、メッセージを一つ一つ打つたびに、彼は胸が詰まる思いだった。
『なー行かん?』
『行かんとは言ってない』
『やた っ』
レ
『そのネタ横書きでもやるの?』
千賀が二年前から愛好するレ点ネタからはもう味がしない。
それでも真面目に仕掛けてくるから、植田はいつも笑ってしまっていた。
それが千賀の狙いと分かっていても、つい頬を緩めてしまう。
笑いの後に、逃げようのない問題に直面する。
あの事を、いつ切り出すか。
そのことばかり、頭に浮かぶ。
「今日か………」
それを彼女に気取られないようにきわめて慎重に指の震えを整える。
ゆっくりと考えて、メッセージを打っていく。
自然に、あくまで自然に。
『どこで集合する』
『植田の家!』
集合場所はいつも千賀が決める。それはどちらかの家だったり、町を貫く川にかかる使われてない方の古い木橋であったり、彼女が実況する場所を当てて息を切らして走ったりもしたことを植田は思い出した。
それを踏まえれば今回の集合場所はとくに変なわけでもない。植田は着替えつつ、彼女の早朝に似合わない元気で軽やかな足音が聞こえるように、結露にカビの臭いが混じる窓へと足を運んだ。
植田の部屋にあるような少し建て付けの悪い窓を一般的な男子中学生の力で開けると、彼らの身体に満ち満ちたエネルギーががらがらとうるさい音を鳴らすのだが、植田はどうにも元気なく、頼りない力で鍵を外し、そのまま窓を開けた。
「寒っ」
つんと刺す冷気を纏った風が植田の頬を掠める。
植田は息を吐いた。
白く染まり、空へと馴染んで溶けていく。
冷たい空気が胸の内を鎮めてくれることを期待したが、どうやらそれは叶わないようだ。
星たちはまだ夜という舞台の幕を引く気はないらしい。
光を、無差別に撒き散らしていた。
冬の夜、しんと静まった空間の中で星だけが元気だった。
いや、おそらくはこれから来る彼女もいつものように元気なのだろうから、だけというのは適切な表現ではないかもしれない。
そう考えた植田は、星と千賀を同列に扱うのは何か癪だ。と勝手にイメージしたあとに勝手に顔をしかめた。
集合場所を決める頃には、決まって千賀は出発していた。
植田はメッセージアプリを閉じる。
そして、無音に向かって耳を澄まし、目を閉じた。
町には足音ひとつ聞こえない。
当たり前のことだというのに、彼にはそれがひどく寂しく思えた。自分の胸中にある鳥肌のようなざわめきと冬の町の無音との落差が、彼をいっそう孤独に感じさせた。
植田は窓に背を向けて、壁にある電球のスイッチへと歩いていく。外出の際に部屋を今更明るくする必要などないことはわかっていた。
それでも彼はカチッという音と共に、夜闇の町と自室を切り分ける。
そうしなければ、なぜか落ち着かなかった。
「準備できたー?」
眠った町に対して迷惑にならないように出来るだけ小さく、囁くような声が窓から部屋に入る。
慌てて植田が窓に駆け寄ると、家の玄関先に千賀が立っていた。
同い年にしてはやや幼い印象の彼女は、植田を見るやいなやにこりと目を細めて笑い、手を旗のように右へ左へと振った。
彼女の小さな体躯からすれば大袈裟にも見えるその動きがおかしくて、植田は声を殺して笑った。
「お前、いつからいたんだ」
「ずっといたよーう」
「少し待って」
「はーやーくー」
声が小さい分、ぶかぶかの手袋をつけた両手を顔に持っていきメガホンのようにして、口を大きく開けながら彼女は話した。
「急いでるって」
「コーヒー飲みたいなー」
少しの遅刻で飲み物をたかられてたまるか、と植田は母からお下がりで貰った厚手のトレンチコートの薄いポケットに、無理矢理財布を詰め込む。
「おい、寒いか」
「ぜんぜんへいきー」
部屋の明かりが外に飛び出して彼女の肌を照らしている。
彼女の鼻は赤くなっていた。
「鼻赤いぞ、お前」
「植田が待たせるからでしょ」
「今行くよ」
植田は机の上からホッカイロを四個取り、小走りで廊下へと向かった。
────────────
植田の足音が、少しずつ遠くなっていく。
「あれじゃ声小さくした意味ないじゃん……ねえ?」
千賀は街灯に照らされた真っ白な雪を横目に見る。
千賀の声は、白い息と共に溶けて消えた。
彼が来るまでのわずかな時間。
千賀はしゃがみ込み、指先で雪を転がした。
植田の部屋から漏れた光が、チラチラと結晶を照らす。
「息、白いねえ」
小さな声で手元の白に語りかける。
当たり前に返事はない。
しかし光の反射だけが、雪の気持ちを語っている。
「植田、気づいてると思う?」
小さな風が彼女の頬を撫でていく。
手袋の下で悴んでいる彼女の手とは裏腹に、頬が熱くなっていく。
吐息も、いつにも増して熱くなっていた。
突然、慌てたような足音が聞こえる。
千賀が彼の部屋を見ると、窓を開けたままの部屋がパッと明るさを失う所だった。
遅れて、何かが倒れるような音。
痛そうなうめき声が聞こえて、すぐに倒れたのだとわかった。
「大丈夫、部屋が汚いだけだから」
千賀の息を吸うより先に、暗い窓の向こうが応えた。
笑いそうになるのを堪えて、マフラーに顔を隠す。
夜の冷たさが少しだけ和らぐ。
それでも、マフラーは少し震えた。
────────────
はやく。と催促する彼女の声が聞こえてもないのに、頭の中でうるさい。
急かされるように、植田は階段を降りていく。
ドアに嵌められた磨りガラスの向こうは真っ黒。
行くな、と告げているようだった。
深く息を吸って吐く。
全身の力を一旦抜く。
今日こそ伝えなければいけないことと、少しの後ろめたさが脳裏に浮かんだ。
どちらを優先すべきかは、もうわかっている。
扉を開ける。
途端に、強く風が吹いた。
冬の町には決して珍しくなどない。
植田の右横にある、玄関に光を取り入れるための窓が、同じ強さで揺れる。
「うわっ」
「わっ」
千賀の高い声が響く。
悲鳴というには可愛らしく、驚嘆にしては小さかった。
ごうごうと不気味な音を上げながら、風は更に強さを増していく。
雪が舞い、町の輪郭がぼやける。
千賀の着ているコートやマフラー、編み込んで後ろで束ねた髪が揺れる。
植田は薄目を開けて、息を止めた。
一瞬、体がよろめくほどの風が吹く。
千賀はぎゅっと目を閉じて、屈んだままだ。
それを最後に、風は止んだ。
夜の町には音がしない。
山間部にひっそりと位置するこの町には、人類が光を発明するまで永らく世界を支配していた原生の夜が、その姿のまま息づいていた。
そんな夜を風が根こそぎ奪い去って、この場所に置いていった。
今ならば、雪が降る音もはっきりと聞こえてしまうだろう。
世界には植田と千賀しかいないのではないか、とさえ錯覚するほどの静けさ。
彼女は瞑った目をゆっくりと開けた。
今更、体を震わせながら。
「寒っ」
「寒いよなあ」
扉の前から植田はそう言った。
灯りがない外では、千賀の赤くなった鼻はもう見えなかった。
この息が白いうちは アンドリュー高木 @anndrewkeiichi
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