【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~

一条信輝

第1話 歴史の扉が開く日

蝉の声が、耳の奥を突き刺すように鳴いていた。

 令和の夏、茨城の奥山。藤村晴人、三十一歳。五日間の有給を使い、ソロキャンプに来ている。


 県庁職員として八年。地域振興、防災、財政――どれも地味で、こつこつと積み上げる部署ばかりだった。上司の顔色をうかがい、陳情に頭を下げ、書類を積む。真面目に、ただ真面目に。

 けれど、心のどこかが空洞だった。仕事は回る。失敗もない。だが「何かを変えた」手応えが、一度もない。


 ――このままでいいのか。


 胸の底で燻る問いを黙らせるために、晴人は山を選んだ。地図にもない沢のほとり。誰もいない場所で、ただ自分と向き合う。

 軽ワゴンに道具を積み、舗装の切れた林道を抜け、沢沿いの平地にタープを張る。焚き火を起こし、アルミポットで湯を沸かす。薪の焦げた匂いが、少しだけ心を落ち着かせた。


 「このまま、時間が止まればいいのに」


 思わず漏れた独り言。

 母は高齢で、実家に一人。結婚の予定はない。友人も減った。地方公務員という肩書きのなかで、自分という人間が“薄まっていく”感覚がある。

 コーヒーを唇へ運んだ、その瞬間――地面がかすかに震えた。


 「……地震?」


 立ち上がる。風ではない。足元の小石が跳ね、タープの支柱が軋む。次の瞬間、地の底から轟音が突き上げた。


 「うわっ――!」


 大きな揺れ。地面が波打ち、焚き火が弾ける。体は横倒しになり、持ち物が飛び散った。iPadが転がり、iPhoneが地に叩きつけられる。ザックの口が裂け、モバイルバッテリーやライターが散った。

 土が崩れ、斜面ごと滑り落ちる。耳鳴り、目の前が白くかすむ。

 光。轟音。そして、何もかもが遠ざかった。


 * * *


 目を開けると、草の匂いがした。頬には乾いた土。吸い込む空気は、ひやりと冷たい。


 ――あれ、夏だよな?


 立ち上がる。空が違う。青が深く、雲が高い。蝉は鳴かず、鶯が声を落とす。

 見渡しても、舗装路もガードレールもない。木々の姿、草の丈までどこか古めかしい。

 遠くに、城のような建物が見えた。高い木柵に囲まれ、屋根瓦が光る。


 「……冗談だろ」


 喉が渇き、思考が追いつかない。スマホは圏外。時刻も日付もノイズまみれ。iPadも同じだ。ソーラーバッテリーは無事だが、今は意味をなさない。

 木車の軋む音――牛車だろうか。続いた会話は、聞き慣れない日本語だった。抑揚が古い。時代劇の台詞のような文語。

 背筋に冷たいものが走る。


 “江戸時代”。


 その語が脳裏をよぎり、全身が粟立った。

 初夜は震えて過ごした。太陽が沈むと、星が異様な明るさで降りてくる。電気の光が一つもない世界。焚き火だけが、自分の存在を確かめてくれる。

 ――タイムスリップ。そう呼ぶほかない。


 * * *


 夜明け。鳥の声で目を覚ました晴人は、まず手元の装備を確認した。

 水、乾パン、ナイフ、救急セット。電子機器は生きているが、文明は自分ひとりきりだ。

 林の奥に小川、谷の反対側には屋根並み。炊煙が上がり、木の塀の向こうで牛が鳴く。教科書の「江戸の絵図」に迷い込んだようだった。


 心臓は早鐘を打つ。だが、恐怖より先に理性が立った。

 ――観察すべき現象だ。


 防災や地形調査で身につけた癖が、勝手に働く。気候、植生、水脈、人の動き。把握すれば、生存率は上がる。

 晴人は季節を測った。梅は散り、桜が咲き初め。空気はまだ冷たいが、枝々は芽吹いている。


 (令和の夏から、江戸の春へ――時空がずれたのか)


 ノートを開き、日付・気温・植生・人流を記す。こうして、晴人の“異界の半年”が始まった。


 * * *


 最初の数週間は、生き延びることで精一杯だった。

 テントに葦や蔦で迷彩を施す。昼は音を立てず、夜は焚き火を小さく。光は布で遮る。

食料は川魚と山菜。レトルトはすぐ尽きた。それでも、自然と折り合う術を少しずつ覚える。


 服も変える必要がある。ジーンズとポロでは目立ちすぎる。

 晴人は村にこっそり入り、畑や荷運びを手伝った。最初は警戒されたが、無言で働き礼を尽くすうち、“旅の者”として受け入れられていく。

 古着を手に入れ、髪を結い、草鞋を履く。水面に映る自分は、もう現代人ではなかった。

 「異人さま」と笑う者もいた。髪や肌の色合いが、この土地ではわずかに異質なのだ。それでも、その笑いに救われた。


 言葉も少しずつ身についた。江戸の言葉は語尾が強く、音が転がる。硬質で、美しい。最初は聞き取れなかったが、やがておよその会話はわかるようになった。


 そして、晴人は一つの事実に行き当たる。

 ここは水戸藩。時は安政。――まもなく、安政の大地震が来る。

 その地震で命を落とすのが、水戸学の中心、藤田東湖。


 名は知っている。尊皇攘夷を唱え、後の明治維新に思想的影響を与えた男。だが、安政の地震で母を庇い、屋敷の下敷きとなって亡くなった。

 もし彼が生きていれば、日本の近代化は、きっと違う相を見せたはずだ。


 (救えるかもしれない)


 胸の底で小さな火が灯る。はじめは妄想に近かった。だが、半年の適応の果てに、それは確信へと変わった。


 ――藤田東湖を救う。


 それが、この時代で生きる意味になる。

春が過ぎ、夏が来た。

 晴人は山深い谷間で、ひっそりと暮らし続けていた。テントは雨風にさらされて布が薄くなったが、竹を組み、木の枝を交差させて補強した。周囲に葦や蔦を絡ませ、遠目には薪小屋のようにしか見えない。


 食料は川魚と山菜、乾燥させた木の実。現代の味――レトルト食品やカップ麺はとっくに底をついた。それでも晴人は、自然と共存する術を身につけ、生き延びていた。


 そして、観察を続けていた。

 ノートには、毎日の記録がびっしりと書かれている。天候、気温、人の往来、村の様子。そして――藤田家の動き。


 藤田東湖の屋敷は、水戸城下の東端にある。彼の母・登勢は長らく床に臥しており、使用人が薬草を買いに来る。

 晴人はその使用人の行動を観察していた。どこから来て、何時ごろ現れるか。どんな言葉を使い、どんな物を買っていくか。そのすべてを記録する。


 接触の機会を見極めるためだ。

 だが、動けば怪しまれる。この時代、他所者への疑心は深い。下手をすれば、他藩の密偵と疑われて投獄される。


 それでも、動かなければ何も変わらない。

 晴人は、慎重に、しかし確実に、計画を進めていた。


 * * *


 秋が深まる頃、晴人は決意した。

 もう時間がない。安政二年十月二日――その日が、迫っている。


 ある雨上がりの午後、晴人は薬屋の裏通りで待っていた。

 やがて、見慣れた男が店から出てきた。背筋を伸ばし、年の頃は五十代。髷をきちんと整え、衣の縫い目にも無駄がない。藤田家の家臣だ。


 男は店内で薬包紙を受け取り、胸元に押し込んで外へ出る。空を見上げて呟いた。

 「……母君のお身体が悪うては、あの方も心安らかではおれぬ」


 ――やはり、藤田家の者だ。

 晴人は意を決し、薬屋の裏手に回り込んだ。ほどなくして、男が裏口から姿を現す。

 泥のついた草履を履き直し、笠を被る瞬間――声をかけた。


 「……お話を、少しだけ。お耳を拝借できますか」


 男の目が鋭く光る。刀の柄にかけた手が、微かに動いた。

 「何者だ、お主」

 「旅の者です。ただ……あるお方の安否を案じております」

 「誰のことだ」

 「藤田東湖さま――そして、その母君のことです」


 男の顔が強張った。だが、次の瞬間、声を荒げる。

 「不敬である! 無闇に名を口にするな!」

 「どうか落ち着いて聞いてください!」


 晴人は両手を上げて制し、言葉を絞り出す。

 「近く、大きな地震が来ます。屋敷が崩れ、人が――命を落とすほどの」


 男は一歩詰め寄り、晴人の胸倉を掴んだ。

 「不吉なことを言うな! 誰かに聞かれたらどうなるか分かっておるか!」

 「だからこそ、今言っているんです!」


 胸を押さえながら、まっすぐに男を見据えた。

 「母君だけでも、屋敷を離れてください。ほんのわずかな間でいい。寺でも、旅籠でも構わない。どうか――それまでだけでも」


 その言葉に、男の瞳が揺れた。怒気が薄れ、眉の奥に迷いの影が差す。

 「お主……なぜそんなことを知っておる」

 「理由は話せません。ですが、確かなんです」


 声が震えていた。信じてほしい。その一心だった。

 やがて男は、沈黙ののちに低く呟いた。

 「……母君を、寺に移す理由をつけよう。拙者一人の裁量では決められぬが、掛け合ってみる。……そなた、名は?」

 「名乗るほどの者ではありません。旅の風聞の士とお呼びください」


 男は小さく頷き、笠を深くかぶる。

 「もしも……もしも、これが本当なら。拙者は、生涯そなたを忘れぬ」


 そう言い残し、雨の残る道を去っていった。

 その背中を見送りながら、晴人は深く息を吐いた。

 (動いた……これで、きっと)


 湿った土の匂いが立ちのぼる。空は重く曇っていた。


 * * *


 地震が起きたのは、それから七日後の夜だった。

 安政二年十月二日――西暦一八五五年十一月十一日。


 「……うっ」


 最初は、足元がわずかに沈む感覚だった。次の瞬間、地面が唸りを上げた。

 家々の柱がきしみ、屋根瓦が音を立てて崩れ落ちる。闇の中で、悲鳴と怒号が交じり合う。


 晴人は外に飛び出し、高台へ駆け上がった。地鳴りが地を割き、火の粉が風に舞う。水戸城下が、まるで獣のように身を震わせていた。

 「東湖……!」


 目を凝らす。屋敷の屋根が、崩れていくのが見えた。瓦が飛び、梁が折れる。

 晴人の胸に、一つの懸念が浮かんだ。

 (母は寺に避難しているはず。なら、東湖も――)


 しかし、次の瞬間、遠くで男の叫び声が聞こえた。

 「東湖様が! 東湖様が書院に!」


 晴人の血の気が引いた。

 (なぜ……母は無事に避難したはずなのに!)


 後で知ったことだが、東湖は藩の重要文書を守るため、あえて屋敷に残っていたのだ。母は無事に寺へ避難していたが、東湖自身は「藩政の機密を置いていくわけにはいかぬ」と、書院で文書の整理をしていた。

 武士としての責任感が、彼を危険な場所に留めていたのだ。


 晴人は走った。瓦礫を飛び越え、崩れかけた門をくぐる。

 「東湖様! どこですか!」


 声を張り上げると、奥から微かな応答があった。

 「……こ、ここだ……」


 書院の前。梁が崩れ、瓦が積み重なっている。その隙間から、東湖の手が見えた。

 「今、助けます!」


 晴人は瓦を一つずつどかしていった。手が切れ、血が滲む。それでも止めなかった。

 やがて、東湖の姿が見えた。梁の下敷きになりかけているが、運良く柱が支えになって空間ができていた。


 「腕を!」

 晴人は手を伸ばし、東湖の腕を掴んだ。力を込めて引っ張る。

 「うっ……」


 東湖が身を捩り、狭い隙間から這い出てきた。

 その瞬間、梁が完全に崩れ落ちた。土埃が舞い上がり、二人を包む。

 晴人は東湖を支え、屋敷の外へ出た。


 * * *


 夜が明けた。

 瓦礫の山の向こうに、人々の列ができていた。負傷者を背負い、傷を包み、互いに声をかけ合う。


 そしてその中に――藤田東湖の姿があった。衣は土まみれだったが、その眼光は鋭いままだった。

 彼の横には、寺から駆けつけた母・登勢がいた。無事だった。東湖は母の手を取り、静かに頷いている。


 「……本当に、助かったのか」

 晴人は草の上に座り込み、額を押さえた。喉が焼けるように乾いている。


 ノートを取り出し、そこに書かれていた「藤田東湖 安政二年十月 死亡」の文字に、赤鉛筆で大きく×を引いた。

 歴史が、変わった。


 自分のしたことは、家臣への一言と、瓦礫の中からの救出。それだけだ。だが、それが命を救った。

 「……やったんだ、俺は……」


 呟きながら、空を見上げる。青空が、眩しいほどに広がっていた。


 * * *


 数日後、藤田邸を訪れた。

 迎えに出たのは、あの日の家臣――吉田安右衛門。

 「お待ちしておりました」


 奥から現れた東湖は、静かに晴人を見つめた。頬に傷跡を残しながらも、その目には深い光があった。

 「……貴殿の言葉が、我が母を救った。そして――拙者をも。礼を言う」

 「いえ、俺はただ――」

 「いや、礼は言わせてもらう」


 東湖はゆっくりと頷いた。

 「貴殿のような者が、この国には必要だ。異人か、漂流者かなど問わぬ。名を、聞かせてくれ」

 「藤村晴人。遠国の者ですが、仕える覚悟はあります」


 その言葉に、東湖は微笑を浮かべた。

 「ならば、まずは母の世話を頼もう。そなたには“理”がある。民を思う理だ」


 晴人は深く頭を下げた。

 この瞬間、確かに感じた。過去はもう“他人の物語”ではない。自分の生きる現在であり、未来を形づくる戦場だ。


 ――歴史は、救える。


 その確信だけが、胸の中で静かに燃えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る