ほのかに、君を想う。

とびお

第1話 春、君を見た日

 春の光が、まだ制服に慣れない袖口を撫でていく。

 髪に触れる風がくすぐったくて、私はそのたびに目を細めた。

 教室の隅でひとり座っていた彼の名前が、なぜか耳に残っていた。


「え、名前……“たなかほのか”って言うの?」

 誰かが出席確認のときに、小さく笑った。

 それは悪気のある笑いじゃなくて、ただの反射みたいなもの。

 けれどその一瞬、教室の空気がふっと変わったのを、私は確かに感じた。


“ほのか”──。

 確かに、男の子には珍しい名前だ。

 けど、本人はまるで気にしていないようで、ただ淡々と返事をした。

「はい」

 それだけ。

 その声が不思議なくらい落ち着いていて、私は少しだけ背筋を伸ばした。


 初めての高校の教室。

 知らない顔ばかりのなかで、彼だけが“色の違う空気”をまとっていた。

 派手でもなく、目立つわけでもない。

 ただ、静かで、触れたら壊れそうなほど穏やかな雰囲気。


 席は窓際のいちばん後ろ。

 彼は教科書の端を指でなぞりながら、外を見ていた。

 春の光に照らされて、髪の色が少し茶色く見える。

 風がカーテンを揺らすたびに、白い布越しに彼の姿がぼやけて消えた。


「……ねえ、奈那」

 前の席の友達が振り向いて、小声で言った。

「なんか、あの子ちょっと変じゃない?」

「変っていうか……静かすぎない?」

 私は笑ってごまかした。

「うーん、そう? まだ始まったばっかだし」

 けど、心のどこかで同じことを思っていた。

 確かに“変わってる”。

 けど、それが悪い意味じゃない気がした。


 その日の放課後。

 教室の空気がゆるんで、みんなが帰り支度をしているとき、

 私は鞄の中身をひっくり返した。

 ペンケースのファスナーが壊れて、中身が床にばらまかれた。


「うわっ、ごめ……!」

 慌てて拾おうとしたとき、誰かの手が先に動いた。

 淡い光のなかで、その指先がペンを一つずつ並べていく。

 顔を上げたら、彼がいた。


「……落ちたやつ、これで全部?」

 静かな声だった。

 驚くほど穏やかで、でもどこか遠い。

 私は一瞬、何も言えなかった。

「う、うん。ありがとう」

 そう答えると、彼は小さくうなずいて自分の席に戻った。

 それだけ。

 名前も自己紹介もないまま、たったそれだけのやり取り。


 でも、私の心の中には、はっきりと残った。

 ペンを拾う指の動き。

 その指が、少し震えていたこと。

 そして、最後まで目を合わせようとしなかったこと。


“あの人、何を考えてるんだろう。”


 家に帰る途中、春の夕陽が校舎の窓を染めていた。

 友達の話を聞き流しながら、私は何度もあの場面を思い返した。

 名前のことを笑われても、怒らない。

 人に優しくしても、何も求めない。

 そんな人、今まで出会ったことがなかった。


「……田中ほのか、ね」

 口の中でつぶやいた名前は、意外なほど心地よかった。

 やわらかくて、少し切ない響き。

 その音だけで、春の匂いがした。


 その日から、私は気づかないふりをしながら、

 何度も窓際の席を見てしまうようになった。


 その優しさが、どんな形をしているのか。

 まだ何も知らない私は、ただ、その姿を目で追っていた。

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