devil killer
こと
一篇 Dear devil
1話
暑夏。夏特有の湿気が、スラム街の路地裏にまとわりついて離れなかった。整備しきれていないひび割れたアスファルトの隙間からは嫌な匂いが立ち昇り、肺の奥までその匂いが染み込んでくる。
うっかり路地裏から日向に飛び出したら、その剥き出しの足の裏には、アスファルトの熱が容赦なく押し寄せ火傷してしまうに違いない。
そんな考え事を頭の隅で反芻しながら、フェリルはじめついた路地裏の陰からそっと顔を覗かせた。もう5日は何も食べていない。胃の奥がきゅう、と音を立て締め付ける。
今日は滅多に開かれないスラムの小さな市場が開かれている。普段は怪しげな人影がうずくまり重苦しい雰囲気のこの通りも、市場が開かれて様相が一変していた。道の両脇には屋台が立ち並び、赤や黄色、緑色の果物や野菜、焼きたてのパンが山積みにされ、美味しそうな香りと人々の喧騒が混じり合っている。
市場の活気に紛れれば、きっと素早く何かしらを盗ることは出来る。何度となく繰り返してきたことだ。この機会を逃せば本当に飢え死にしてしまうかもしれない。だからこそ決して失敗しないよう、フェリルは息を整えた。
いつ、どのタイミングで通りに出ればいいのか機会を伺うフェリルの目は鋭かった。暑さに満ちた外の光が、途切れ途切れにフェリルの頬を照らしていた。
屋台を遠巻きに観察したフェリルはさっと路地裏から飛び出し、人混みに身を滑り込ませた。視線は鋭く、獲物を狙う猫のように動きの隙をうかがう。
パン屋の店主が大声で常連客と笑い合いながら、注文を受けてパンを大きな紙袋に詰め込んでいた。その横で、別の客が硬貨を数えている。店主は両手にパン袋とお釣りを持ち、ふと周りへの注意が薄れる瞬間があった。
(今だ。)
人々の脚の間を縫うように近づいたフェリルは、すれ違いざまに袋ごと掴み、手際よく自分の体ごと屋台から引き離した。パンのずっしりとした重みに心地良さと安心感を感じ、少し頬が緩んだ。
だがその直後、フェリルに気づいた店主が声を荒らげた。
「――あっ! おい、そこのガキッ!それはうちのだぞ!」
雷鳴のような怒鳴り声が市場に響き渡る。店主が、顔を真っ赤にして屋台の外へ乗り出す。
「泥棒!誰か捕まえてくれ!」
人々がフェリルの方へ視線を向け、何人かが慌ててこちらに向かおうとする。だが、フェリルはすでに一歩先を行っていた。人波の隙間を素早くすり抜け、狭い路地裏へと駆け出す。パニックにならず、素早く壁沿いを進み、手慣れた逃げ足で、あっという間に喧騒の中へ姿を消した。深い息をつきながら背後を振り返る。ぶ厚い石壁の陰に身を滑り込ませ、誰も追いかけて来ないことを確認すると、ようやく緊張の糸がほつれた。手慣れているとは言えど、やはりいつも緊張するものだ。あそこで捕まっていれば今頃何をされているかわからないし考えたくもない。フェリルは袋からパンをひとつ取り出し、がぶりと大きくかじった。
「…おいしい。」
思わず声を漏らした。数日ぶりに味わうパンの味は幸せそのものだった。
もう一口パンにかじりつこうとした時、
「盗んだパンなんか食って美味いか、お嬢さん?」
後ろから突然そう声がした。
地を這うような低く刺すような声にフェリルは思わずびくりと体が跳ねた。見つかった…そう思うと全身の血の気が一気に引いて、汗が滴り落ちた。以前、盗みを働いた子供が捕まってボロボロになるまで暴行を受けている現場を見かけたことがある。ただただ怖くて声の主の方に振り返ることが出来ない。さあ、どう逃げようか。
頭の中でぐるぐると思考を渦巻かせていると、声の主は再び口を開いた。
「見つかった、とでも思ったか?…私は別にお前を捕まえるつもりはないよ。」
パンを持ったまま固まっているフェリルの耳に、こちらに近づいてくる足音が重く響く。逃げなければ、と思うのに足が思うように動かない。ここで動いてしまえば何か良からぬ事が起きてしまう気がする、そう思ってならなかった。
やがて、足音が真後ろで止まった。ふと、フェリルの額から汗が一筋落ちるのを感じた。それが夏の暑さからか、恐怖からくるものなのかもう何も分からなかった。
「…そんなに怖がるなって。別に取って食ったりなんかしねぇよ。」
なんだか面倒くさそうに声の主はフェリルに呼びかける。話しかけてくるだけで何もしてこない。黙ってれば立ち去ってくれるだろうか。そんなことを考えて、フェリルはじっと蹲って丸くなっていた。
その状態から体感でおおよそ数分が経っただろうか。声の主は大きなため息をついた。
「……これだからガキは………。」
そうボソッと呟いた次の瞬間、後ろから素早く腕が伸びた。マズいと思ったが、時すでに遅し。フェリルの腕からパンの入った袋が無理やり引き剥がされる。
「っ…!!」
フェリルは思わずパンの袋を目で追うように振り返った。パンの袋は声の主が持っていた。
「返せ!!」と言うつもりだったが、目の前を立つ人のその姿に思わず言葉を失った。
端的に言うと奇抜な見た目だったのだ。
白い袋のようなもので顔を全部覆い、その袋には目と口が描かれている。そんな奇抜な顔であるにも関わらず、服は黒いパーカーに少しくたびれた長ズボンというアンバランスな格好だった。ミステリアス、というよりも不格好さと同時に不気味さが際立つ。
その異様な人から目を離すことが出来ず、フェリルはまじまじとその人を見た。その人は何も喋らない。ただこちらをじっと見つめていることは伝わってくる。微かにパンのおいしい匂いが鼻腔に淀み、フェリルは思わずその人に喋りかけた。
「…あ、あの。それ……っそれ!返してください!!」
「これはお前のものじゃないだろ。」
「でも食べなきゃ死んじゃう……!!」
フェリルが叫ぶとその人は何も言わずにフェリルを見下ろし続けた。長い沈黙が続き、耐えきれなくなったフェリルは目を逸らしかける。
「パン屋の人、怒ってたぞ。……私はさっきあの場にいたが収拾がつかなくなりそうだったから、私がパンを取り返すとあの人に伝えて、お前を追ってきたんだ。」
と面倒くさそうにその人は話を始めた。
「だから、このパンはパン屋の人に返す。」
「でも…でもそしたら私……」
「代わりに、私が今買ったばかりの食べ物、お前に分けてやるよ。」
予想外の提案にフェリルは驚いて顔を上げた。やはり何回みても不気味な人だ。
その人はゴソゴソとビニール袋を取り出した。その中には干し肉が入っている。空腹なフェリルの瞳にそれはパンにも負けないほど魅力的に映った。
「ほら、いらないのか?」
その人はフェリルにビニール袋を差し出す。この人から敵意は感じない。フェリルは恐る恐るその袋を受け取った。
「ありがとう……ございます…。」
そう小さく呟く。その人はフェリルが袋を受け取ったのを見ると、パンの袋を抱えてフェリルに背を向けた。
「次からはもっと上手くやりな。」
そう言い残し立ち去ろうとした瞬間、その人は何かを思い出したようにこちらを振り返った。
「あ、そうだ。ここで会ったのも何かの縁だしいいことを教えてやるよ。」
「悪魔に気をつけな」
フェリルはその人が何を言っているのか理解できなかった。
「え?あ…あの、悪魔って……」
なぜ急に悪魔の話をするんだろう、この人は。そもそも悪魔なんて見た事もない、空想上の生き物に過ぎない。そんなことを考えてパッと顔を上げたら、いつの間にかその人は居なくなっていた。
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その日の夜、フェリルは昼とは打って変わって静まり返ったスラムの通りを、貰った干し肉を食べながらぶらぶらと歩いていた。夏の夜は酷く蒸し暑く寝るにしても暑苦しくてとてもそんな気分になれなかった。
あの人の言葉――「悪魔に気をつけな」――が、脳裏に残って離れなかったが、正直あまり真に受けていなかった。ただ怖がらせたいだけだろう。そんなことをぼーっと考えていたその時だった。
「……ん?なんだろう、この臭い………。」
ツンと刺すような腐敗臭が微かに漂ってくるのだ。何か嫌な予感を覚えた。だが好奇心には勝てないものだ。怖いもの見たさで路地裏へと進むが、後に本当に行かなければよかった。と後悔することになる。
そこに広がっていたのは____
「なに………これ」
おそらく人の死体。もはや人なのかすら分からないくらいに原型を留めていない。どろどろに崩れた死体が4体か5体か、1人だけでは無いことは確かだ。
そしてその中心に、〝なにか〟が立っていた。
月明かりに照らされて反射する白銀と黒の入り交じった髪。まるで死人のような土気色の肌。何やら奇妙な瞳孔をしている。この時点でフェリルはこの〝なにか〟が人ではないことを理解した。
そして何よりも
「……角…!?」
昼間にあの人に言われたことを思い出す。
『悪魔に気をつけな』
フェリルの背筋にぞわりと冷たいものがはしった。これを悪魔と言わずしてなんというのか。
フェリルが身構えると、その悪魔はこちらに気付いて振り返った。
目が合った瞬間、その悪魔はこちらをギロっと睨みつけた。逃げなきゃ、そう頭では理解していても何故か足は動かない。体が熱く、足に力が入らない。
そうこうしてるうちに悪魔は目の前に立って、そっとフェリルに目線を合わせるために屈んだ。
「……子供か……」
ぼそりと、呟くような声だった。 その瞳には驚きも、慈しみも、警戒もなかった。ただ、まるで壊れたおもちゃを見つけたような無関心。
そのくせ、悪魔はフェリルの顔をじっと覗き込む。 息がかかる距離で、顔をしかめるように、でもどこか呆れたような声で言った。
「綺麗な目だね。……さようなら」
その直後だった。 フェリルの体が、ふわりと宙に浮いたかと思えば
――次の瞬間、背中から地面へと叩きつけられた。
「――っ、がはっ……!」
衝撃で息が漏れ、頭の中が真っ白になる。肺の空気が抜けきって、しばらく何も聞こえなかった。 視界がぐらついて、口の中に鉄の味が広がる。
――ああ、死ぬ。
そう思った。 こんな場所で、こんなふうに。意味もなく。理由も知らず。 みんなが知ってること、何も知らないまま死んじゃうんだ。そう思うとフェリルの中に、じわじわと黒い絶望が広がっていく。
(1度でいいから、あったかいご飯を、椅子に座って食べたかったな。1度でいいから、この街から外に出て、もっと色んなところを見たかったな。)
呼吸は浅く、目の焦点も合わない。頭の奥がぐらぐらと揺れる。そんなフェリルをしばらく見下ろした悪魔は大きくため息をついてその場から立ち去ろうとした。
――こんな人生、納得できない。 生まれたときからずっと独りで、何一つ知らないまま終わるなんて、そんなの
「……ふざけんな……」
フェリルの唇がかすかに動いた。声にならない呻きのような反抗。 立ち去ろうと背を向けた悪魔の後ろ姿に、彼女は全身の力を振り絞って手を伸ばした。
「ふざけんなッ!」
立ち上がることさえできないまま、フェリルは地面を這うようにして飛びかかる。 その姿に、悪魔が驚いたように振り返った瞬間、
フェリルは思いっきり悪魔の腕に噛み付いた。鋭く喰らいついたフェリルの顎を、悪魔は一瞬きょとんと見下ろした。 血が流れる。喉奥に落ちていくその感触に、フェリルの意識がかすかに戻っていく。血が流れている。まさかあそこまで弱っていた少女が噛んでくるとは思っていなかったのだろう。
骨まで届く勢いで噛みついた顎に、確かな感触と、鉄の味が広がる。喉の奥に生ぬるい液体が滑り込み、思わずごくりと飲み下してしまった。
「何勝手に飲んでんの。……最低。」
低く、うんざりしたような声が耳元で落ちる。 けれどフェリルには、それすら遠くに感じた。喉に広がった血の熱が、全身を駆け巡るように広がっていく。
最初は、ただの火照りかと思った。けれどすぐに、それはただの熱ではないと気づいた。
「あっ……つ……」
皮膚の下で何かが蠢く。血管が膨張し、心臓が爆発するように脈打ち、骨が軋んだ。 呼吸ができない。肺が焼けるようだ。 思わず胸を押さえてうずくまる。だんだんと、地面が傾いていく。
「……なに、これ……やだ、やだ……」
涙がにじんだ。恐怖と、痛みと、理解できない何かが一気に押し寄せてくる。
その場にへたりこみ、肩で荒く息をしながら、それでもフェリルは何かを掴もうと手を伸ばした。 だが、視界はぼやけて、世界の輪郭が滲んでいく。
そして――次の瞬間、完全に意識が断ち切れた。
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