第56話 神界と神と帰還
コアルームに向かう前に、俺はエデンの街並みを振り返った。
ダンジョンに広がる、未来都市。
無数の光が明滅し、人々が笑い、生活している。
ここは——もう、俺たちがいなくても、回っていく。
「俺たちが帰還した後、大丈夫かな、ここ」
俺は、シノンに訊いた。
「僕の簡易端末を残していくよ」
シノンが、答える。
「簡易端末って、あのクリスタルみたいなやつ?」
シノンは、微笑んだ。
「そう。健太も、大事にしてね」
俺の手の中には、小さなクリスタルがある。
それは、温かかった。
*
コアルーム。
中央に、緑色の光を放つダンジョンコアが鎮座している。
それは、このダンジョンの心臓。
全てを管理し、全てを生み出す——根源。
「じゃあ、ゲートを開くよ」
シノンの言葉とともに、コアの周りに魔法陣が展開した。
複雑な紋様が、床に浮かび上がる。
それは、今まで俺が見たこともないほど複雑な——いや、一度だけ見たことがある。
召喚された時の、あの魔法陣。あれに匹敵するほど複雑な魔法陣だった。
だが、今度は、逆だ。
空間が、軋んだ。
そして——裂けた。
闇が、口を開ける。
その向こうに、何があるのか、俺には、見えない。
だが、行くしかない。
「行こう、健太」
「ああ」
俺たちは、裂け目をくぐった。
*
そこは、不思議な空間だった。
時の始まりも終わりも存在しない——万象が交錯する、神界。
空も大地も曖昧で、過去と未来、夢と現実、生と死すら境界を失った空間。
ただ一つ確かな存在として——
白亜の神殿が、浮かんでいた。
「……これが、神の居場所か」
俺は、呟いた。
神殿は、美しかった。
だが、その美しさは——どこか、空虚だった。
誰のためでもない、ただ完璧であるだけの、美。
「行こう」
シノンが、歩き出す。
俺も、それに続いた。
神殿には、扉がない。
ただ——俺たちが近づくと、壁が溶けるように開いた。
そして——
そこに、神がいた。
*
白亜の神殿の中央で——
神は、恐慌に陥っていた。
「嘘だ……私の天使が……!? 人間風情に……」
神は、目の前の空間に映し出された光景を見つめていた。
自らの最強の駒が、未知の兵器によって一方的に駆逐される様を。
信じられない思いで。
プライドが、音を立てて砕けていく。
自分の創った完璧な世界に、自分の知らない「理」が持ち込まれ、秩序が破壊されていく。
それは、創造主にとって存在そのものを否定されるに等しい、屈辱だった。
その時だった。
神域の静寂を破り、直接、声が響いたのは。
「——見つけたよ。神様」
それは、少年のあまりにも場違いで、楽しげな、声だった。
「なっ……!?」
神が絶句して振り返る。
次元の裂け目から、二人の少年が姿を現した。
一人は、黒髪の——人間。
もう一人は、人間ではない——何か。
「な、何者だ、無礼者! よくも、我が聖域を……!」
神は、必死に威厳を保とうと叫ぶ。
だが、その声は恐怖に、上ずっていた。
シノンは、そんな神の姿を、まるで珍しい虫でも見るかのように観察しながら、鼻で笑った。
「創造主に、挨拶に来ただけだよ」
シノンは、軽い口調で言った。
「君の創った世界、なかなか面白かったけど——欠陥が多すぎるみたいだね」
「き、貴様ら……!」
神が、震える声で叫ぶ。
「我が遊戯の駒が、我に刃向かうというのか! その罪、万死に値する!」
神は、その絶対的な権能で——二人をこの世から消し去ろうとした。
神域の空間が、二人を押し潰さんと、軋み始める。
だが——
シノンは、それより速かった。
「——遅いよ」
シノンが、指を鳴らす。
その瞬間——
神域の制御権の一部が、神の手から奪われた。
「なっ……!? 我が神域の制御が……なぜ……!?」
「君が天使を創り、僕がそれを解析した」
シノンは、淡々と言った。
「君が世界を創り、僕がその理を読み解いた」
彼の目には、冷たい光があった。
「君の使う力の『仕組み』は、もう、全て理解させてもらったよ」
神は、絶句した。
遊戯の駒が、自らに牙を剥く。
そんな悪夢のような事態が、現実に、起きていた。
神が、完全に思考を停止した——一瞬の隙。
俺は、神に剣を突きつけた。
「……俺たちを、元の世界に戻せ」
それは、交渉ではなく——
命令だった。
神は、俺を見た。
その目には——恐怖があった。
「……無理だ」
神の声が、震える。
「送還には、召喚とは比べ物にならないエネルギーが必要だ」
「それを使ってしまえば、我は——永き眠りにつかなければならぬ」
「それでいいよ」
シノンが、冷たく言った。
「教会も、天使も、僕らの前に負けた。どの道、僕らを帰さない限り、信仰は取り戻せないよ?」
「……」
「君のエネルギーの源って、信仰でしょう?」
シノンは、神を見据えた。
「このままだと、結局——忘れ去られた神として、ひっそりと消えるだけだと思うけど?」
神の顔が、歪んだ。
「休眠して、やり直したほうが——チャンスはあるんじゃない?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして——
神は、震える手で——送還の術式を起動した。
苦渋の、決断だった。
自らが創った遊戯の駒に、全てを奪われ、屈服させられる。
これほどの屈辱は、永い彼の歴史の中で、初めてのことだった。
だが、それしか、道は残されていなかった。
神殿が、光に包まれる。
「……二度と、来るな」
神の最後の言葉が、響いた。
そして——
俺たちは、光に呑まれた。
*
眩い光に包まれた俺は、また浮遊感を味わっている。
召喚の時とは、比べ物にならない時間が過ぎた。
長い、長い——
まるで、永遠のような時間。
だが、やがて——
足元に、地面の感触がした。
硬い、アスファルト。
恐る恐る目を開けると——
そこは、見慣れた路地だった。
商店街を抜けたところにある、家までの近道。
夕日が、長い影を作っている。
「……帰って、きたのか」
俺は、呟いた。
信じられないという気持ちと、ああ、やっぱり、という気持ちが混ざり合っている。
俺は、走り出した。
一目散で、家へと向かう。
角を曲がる。
いつも通りの二階建ての家が、見えてきた。
当たり前のように建っている——我が家。
門を開け、玄関に飛び込む。
「……ただいま」
俺の声が、震えていた。
「おかえり」
母の声が、返ってくる。
「何、その格好? コスプレでもしてたの?」
いつもと変わらない、母の声。
「手を洗ってらっしゃい」
「うん……ただいま」
俺は、もう一度、そう言った。
涙が、出そうになった。
だが、我慢した。
ただ、靴を脱ぎ、家に、上がった。
帰ってきたんだ。
本当に——
帰ってきた。
*
その夜。
俺は、自分の部屋で、ベッドに寝転がっていた。
天井を、見つめる。
全てが、夢だったような気がする。
だが——
手の中には、小さなクリスタルがある。
シノンが、くれたもの。
それは、確かに——温かい。
「……本当に、あったことなんだよな」
俺は、呟いた。
異世界。
魔法。
戦争。
そして——神。
全部、本当にあったこと。
俺は、あの世界で——
たくさんの人を、殺した。
たくさんの人を、救った。
そして——
帰ってきた。
「これで、良かったのかな……」
俺は、クリスタルを見つめた。
あの世界は、今、どうなっているんだろう。
エデンの人たちは、元気だろうか。
ダンジョンは、無事だろうか。
そして——
「……シノン」
俺は、その名を呟いた。
あいつは、今、どこで、何をしているんだろう。
未来の世界で、また別の「冒険」を記録しているのか。
それとも――
クリスタルが、わずかに光った。
まるで、俺の問いかけに答えるかのように。
俺は、微笑んだ。
窓の外では、星が輝いていた。
無数の、星。
その中の一つに、あの世界があるのかもしれない。
俺は、目を閉じた。
明日からは、また、普通の高校生に戻る。
でも——
きっと、もう、以前と同じではいられない。
俺は、変わってしまった。
あの世界で。
そして——
それで、いいんだと思う。
風が、窓から吹き込んだ。
それは、優しい風だった。
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