第53話 帝国暗部情報分析課
「——教会が、ケンタ・サトウを異端認定、だと?」
帝国暗部情報分析課の上級分析官、エルヴィン・シュタイナーは、部下から受け取った緊急報告書を読み、眉をひそめた。
深夜二時。通常なら誰もいない執務室に、緊急召集された分析官たちが集まっている。
「はい」
部下のアナリスト、マルクが頷く。
「先ほど入った情報です。ケンタ・サトウが市民に向けて演説を行い——その内容が、教会の教義に真っ向から反するものだったと」
「内容は?」
「『労働は美徳ではない』『祈りよりも快適な生活を』『神に頼るな、自分の力で生きろ』——要約すれば、そのようなものです」
シュタイナーは、報告書の該当箇所を読み、深く息を吐いた。
「……これは、宣戦布告だな」
「教会もそう受け取ったようです。枢機卿会議は緊急招集され、審問局は即座にケンタ・サトウを『神への冒涜者』として異端認定しました」
「教皇庁は?」
「慎重派は反対したようですが、押し切られました。既に、異端討伐の聖戦を宣言する準備が進められています」
シュタイナーは立ち上がり、窓の外を見た。
帝都の夜景が、静かに広がっている。
「……教会が動くか」
これは——予想していたことだ。
いや、むしろ遅すぎたくらいだ。
ガルダ=ラグナの「エデン」は、教会の教義を真っ向から否定する存在だった。
労働なき生活。祈りなき幸福。神なき救済。
教会にとって、それは存在してはならない異端そのものだ。
「教会の戦力は?」
「聖騎士団一万。周辺国に聖戦への参加を呼びかけており——」
マルクは報告書をめくった。
「既に、アルテミア王国、ノルガルド公国、南方諸侯連合が応じる意向を示しています。総勢で——十万を超える見込みです」
「……十万」
シュタイナーは息を呑んだ。
王国軍の二倍。いや、周辺国の義勇軍まで含めれば、さらに膨れ上がるだろう。
「聖戦、か。教会も本気だな」
「はい。『神への冒涜者を討つ』という大義名分は、民衆にも受け入れられやすい。各国とも、国内の不満分子を処理する口実にもなります」
「……そして、帝国にも——」
「はい」
マルクが頷いた。
「出兵要請が届いています」
*
シュタイナーは、別の報告書を手に取った。
教皇庁からの、正式な外交文書。
『神聖ローマ教皇庁より、帝国皇帝陛下へ』
『主の御名において、異端ケンタ・サトウ討伐の聖戦を宣言する』
『信仰厚き帝国におかれては、聖騎士団と共に戦い、神の正義を示されることを切に願う』
丁重な言葉で書かれているが——要するに、出兵しろ、ということだ。
「……厄介だな」
「どう対処しますか?」
若手の分析官が尋ねた。
シュタイナーは、しばらく考え込んだ。
「出兵は——しない」
「ですが、教会との関係が——」
「それでも、だ」
シュタイナーは断言した。
「我々は、ケンタ・サトウとシノンの真の力を知っている。十万の軍勢が押し寄せても——勝てるかどうかは、分からない」
「……」
「それに——」
シュタイナーは、別の報告書を取り出した。
「ケンタ・サトウは、帝国の騎士爵だ」
「あ——」
分析官たちが、ハッとした表情を見せた。
そうだ。
ケンタ・サトウは、学園都市での決闘の後、ユリウス・フォン・アルトハイム——現生徒会長にして、帝国有数の名門貴族の嫡男——によって、騎士爵に叙せられている。
形式的なものとはいえ、帝国貴族だ。
「帝国貴族を、異端として討つ——それは、帝国の威信に関わる」
「ですが、教会は——」
「教会の言い分など、知ったことか」
シュタイナーは冷たく言い放った。
「帝国は、教会の犬ではない」
彼は地図を広げた。
「それに——もう一つ、考慮すべき点がある」
「と、言いますと?」
「ユリウス・フォン・アルトハイム」
シュタイナーは、資料を取り出した。
「彼は、ケンタ・サトウと直接戦い、敗れた。だが——その後、彼をライバルとして認め、騎士爵に叙した」
「……つまり、コネクションがある、と」
「そうだ。もし——最悪の事態になった場合、ユリウスを通じて交渉できる可能性がある」
シュタイナーは、報告書を閉じた。
「出兵しない。これは、帝国の利益を守るための、合理的な判断だ」
*
夜明けと共に、シュタイナーは皇帝の執務室へ向かった。
皇帝陛下は、既に起きていた。
「——教会から、出兵要請が来たそうだな」
「はい、陛下」
シュタイナーは跪き、報告書を差し出した。
「教会は聖戦を宣言し、周辺国に参加を呼びかけています。総勢十万を超える軍勢が、ガルダ=ラグナへ向かう見込みです」
「十万、か」
皇帝は報告書を読み、興味深そうに呟いた。
「教会も本気だな。だが——シュタイナー、お前の意見は?」
「出兵すべきではない、と考えます」
「理由は?」
「三つあります」
シュタイナーは、慎重に言葉を選んだ。
「第一に、ケンタ・サトウは帝国の騎士爵です。形式的とはいえ、帝国貴族を討つことは、帝国の威信に関わります」
「ふむ」
「第二に、彼らの戦闘能力は未知数です。王国軍五万を撃退した相手に、十万で勝てる保証はありません」
「……確かに」
「そして第三に——」
シュタイナーは、最も重要な理由を告げた。
「もし、教会が敗れた場合、帝国が参戦していれば、我々も敵に回ります。ですが、中立を保っていれば——交渉の余地が残ります」
皇帝は、しばらく黙考した。
そして——
「よかろう。帝国は、中立を保つ」
「……ありがとうございます」
「だが、シュタイナー」
皇帝は、鋭い目でシュタイナーを見た。
「教会への返答は、慎重に行え。彼らの機嫌を損ねないように——しかし、明確に断れ」
「承知いたしました」
「それと——」
皇帝は、窓の外に目を向けた。
「ユリウス・フォン・アルトハイムに、密命を出せ」
「密命、でございますか」
「ケンタ・サトウとの、非公式な接触を許可する。もし——教会が敗れた場合に備えて、外交ルートを確保しろ」
シュタイナーは、深く頭を下げた。
「……賢明な、ご判断かと」
「帝国は——生き残らなければならない」
皇帝は、窓の外を見た。
東の空が、僅かに白み始めている。
「教会が勝とうと、ガルダ=ラグナが勝とうと——帝国は、その先を見据える」
「はい」
シュタイナーは執務室を出た。
廊下を歩きながら、彼は考えていた。
十万の軍勢。
聖戦の大義。
神の加護。
それら全てを以ってしても——
(勝てるのか?)
ケンタ・サトウとシノン。
この二人は、もはや人間の枠を超えている。
そして——彼らが本当に恐ろしいのは、その力ではなく——
(まるで、全てを見通しているかのような——)
その、恐ろしいまでの先見性だった。
*
三日後。
帝国からの正式な返答が、教皇庁へ届けられた。
『神聖ローマ教皇庁へ』
『帝国は、教会の聖戦に深い敬意を表する』
『しかしながら、東方の蛮族との国境紛争により、現在、帝国軍の主力は国境に配備されている』
『誠に遺憾ながら、出兵は困難である』
『ただし、教会の正義に疑いはなく、聖戦の勝利を心より祈念する』
丁重な言葉。
だが——明確な拒絶。
教皇庁は、激怒した。
だが——帝国は、動じなかった。
なぜなら——
帝国は、既に次の一手を打っていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます