第52話 異端認定
白亜の壁が朝日を反射し、聖地サンクトゥムは今日もその荘厳さを誇っていた。
だが、その最奥で開かれている枢機卿会議の空気は、荘厳さとは程遠い緊張に満ちていた。
まるで、何かが終わりを迎える前の、静寂のように。
「——以上が、ガルダ=ラグナでの出来事です」
グレゴリウス枢機卿の声が、石造りの天井に反響する。七十を超えた老人の声は、驚くほど冷静だった。まるで、他人事を報告しているかのように。
教皇は、長い沈黙の後——ゆっくりと、口を開いた。
「……ケンタ・サトウは、神の楽園を人の手で超えると宣言した」
その声は、重かった。
「これは——」
「明白な冒涜です!」
マティアスの声が、教皇の言葉を遮った。
異端審問局長官。四十代半ばの、血気盛んな男。彼は拳で卓を叩き、立ち上がった。金属の燭台が、小さく跳ねる。
「神への挑戦! 信仰の否定! 教会の権威への反逆!」
彼の声は、怒りに震えていた。
「これ以上の異端が——かつて、あったでしょうか!」
枢機卿たちが、ざわめく。
ある者は頷き、ある者は顔をしかめ、ある者は沈黙を保った。
「即刻、異端として認定すべきです」
「同感です。あれを放置すれば、大陸中の信仰が揺らぐ」
「だが、民衆の支持を考えれば……」
「民衆など関係ない!」
マティアスが、再び叫んだ。
「神の御心こそが全てだ!」
議論が紛糾する。
声が、重なる。
だが、その喧騒の中で——グレゴリウスだけは、黙っていた。
ただ、机の上で組んだ手を見つめ、何かを考えている。
「グレゴリウス卿」
教皇の声が、喧騒を静めた。
全員の視線が、老枢機卿に注がれる。
「あなたは、どう思われますか」
グレゴリウスは——ゆっくりと、顔を上げた。
その目には、諦めがあった。
「……我々には、もう選択肢はありません」
静かな声。
だが、その言葉の重さは、マティアスの怒号よりも遥かに重かった。
「と、言いますと?」
「あの演説を聞いた者たちは、二つに割れました」
グレゴリウスは、一人一人の顔を見回した。
「教会を信じる者と、あの『楽園』を信じる者に」
誰も、反論しなかった。
それは、全員が知っている事実だったから。
「今、我々が彼らを異端として断罪しなければ——」
グレゴリウスの声が、さらに低くなる。
「教会は、神の御心よりも人の評判を恐れたと、歴史に記されるでしょう」
沈黙。
重い、重い沈黙。
「ゆえに、我々は戦わねばなりません」
グレゴリウスは、目を閉じた。
「勝てるか否かではなく——戦わねば、ならないのです」
それは、敗北を認める者の言葉だった。
だが、同時に——覚悟を決めた者の言葉でもあった。
教皇は、長い沈黙の後——頷いた。
「では、採決を取りましょう」
枢機卿たちが、次々と手を挙げる。
ためらう者は、いなかった。
全員一致。
教皇は、立ち上がった。
「——神の御名において、ここに宣言する」
その声は、重く、厳かだった。
「ケンタ・サトウ、及びシノンと名乗る者。そして、彼らに従う者たちを——」
教皇は、一度言葉を切った。
そして、宣告した。
「異端として、認定する」
マティアスが、満足げに頷いた。
グレゴリウスは——ただ、窓の外を見ていた。
「これより、聖戦を開始します」
マティアスの声が、響く。
だが、グレゴリウスの耳には——もう、届いていなかった。
窓の外には、青い空が広がっていた。
どこまでも、青く。
そして——遠く、西の空には、灰色の雲が見えた。
嵐の、予兆。
*
ガルダ=ラグナ、評議会――
石造りの議場は、夏の暑さとは無縁の、ひんやりとした空気に満ちていた。
だが、評議員たちの額には——汗が滲んでいた。
「——教皇国より、正式な通告です」
評議会議長が、震える手で書簡を読み上げた。羊皮紙が、かすかに音を立てる。
「『ケンタ・サトウとシノン、及びダンジョン都市ガルダ=ラグナは、神への冒涜を行った異端である』」
彼の声が、震える。
「『よって、これを討伐する。これは——聖戦である』」
評議員たちの顔から、血の気が引いた。
「聖戦……」
誰かが、呟いた。
「異端認定だと……!」
別の声が、上ずる。
「教皇国が、本気で攻めてくるのか!?」
「我々に、勝ち目などあるのか!?」
ざわめきが、広がる。
恐怖が、伝染していく。
聖戦——それは、教皇国だけではない。
大陸全土の国々が、教会の名の下に集結する。
数十万の軍勢。
それが、この小さな都市に——押し寄せてくる。
「終わりだ……」
「逃げるべきでは……」
「だが、どこへ……」
絶望が、議場を満たし始めた。
その時だった。
「……やっぱり、そうなるよな」
落ち着いた声が、響いた。
全員の視線が、声の主に向かう。
健太だった。
彼は、窓辺に立ち、外を見ていた。
その背中は——不思議と、揺らいでいなかった。
「だが、健太殿……」
評議会議長が、絞り出すように言った。
「聖戦です。教皇国はもとより、大陸全土の国々が……連合して……」
「大丈夫」
別の声が、答えた。
シノン。
彼は、議場の隅に座り、虚空を見つめていた。
その瞳には、無数のデータが流れている。
「街はダンジョンの中だよ。住民は全員、避難済み」
シノンは、淡々と続けた。
「地上がどれだけ破壊されようと、エデンには傷一つつかない。防御は、考えなくていい」
「それに——」
健太が、振り返った。
その目には、迷いがなかった。
「各国の軍をまとめるには、時間がかかる。その間に、こっちも準備ができる」
彼は、微笑んだ。
だが、それは——優しい微笑みではなかった。
「今度は、手加減する必要もない」
健太の声が、低くなる。
「全力で、迎え撃つ」
議場が、静まり返った。
評議員たちは、二人を見た。
異世界から来た、若者たち。
神に喧嘩を売り、世界を敵に回した——二人。
だが、その背中には——
恐怖が、なかった。
「……本当に、勝てるのですか」
評議会議長が、震える声で問いかけた。
「勝てるよ」
シノンが、即答した。
「だって、僕らは——まだ、本気出してないから」
健太は、窓の外を見た。
青い空。
そして、遠くに見える——地平線。
その向こうから、やがて——
軍勢が、やってくる。
「来いよ」
健太は、小さく呟いた。
「世界が、どれだけ強いのか——見せてもらおうじゃないか」
風が、窓から吹き込んだ。
夏の、熱い風。
それは、まるで——
嵐の、前触れのようだった。
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