第6章 聖戦編

第50話 神に抗う者たち

 白亜の壁が陽光を跳ね返し、聖地サンクトゥムは今日も変わらぬ荘厳さでそこにあった。大陸全土から巡礼者が訪れるこの地は、神の代理人たる教皇が治める、信仰の絶対的中心だ。


 だが今、その最奥で開かれている枢機卿会議の空気は、荘厳さとは程遠い緊張に満ちていた。


「——以上が、密偵サイラスからの最終報告となります」


 異端審問局長官マティアスが、まるで汚物を扱うかのように報告書を閉じた。その動作一つにすら、抑えきれぬ嫌悪が滲んでいる。


「ガルダ=ラグナは、もはや人の街ではありません」


 マティアスの声は低く、しかし会議場の隅々まで届く明瞭さを持っていた。


「労働も、祈りも、苦悩すらない。異端者どもの創り出した『偽りの楽園』に、数十万の魂が囚われています。これは明白な、神への冒涜です!」


 彼は拳で卓を叩いた。金属の燭台が小さく跳ねる。


「直ちに聖戦を発動し、かの地を浄化すべきです。神の名において、我らには——」


「マティアス卿」


 静かな、しかし有無を言わさぬ声が、マティアスの言葉を遮った。

 グレゴリウス枢機卿。教会外交の実権を握る、齢七十を超えた老獪な策士が、ゆっくりと首を横に振る。


「あなたの憤りはもっともです。ですが、もう一つ、我々が直視せねばならぬ報告があることを、お忘れではないでしょうな」


 グレゴリウスは、皺だらけの手で別の報告書をテーブルに滑らせた。それは、マティアスの報告書よりも遥かに分厚い。


「戦後の慈善事業の件です」


 その言葉に、何人かの枢機卿が身を乗り出した。


「我らが派遣した司祭団は、戦火で荒廃した各地で難民たちに食料を施し、神の教えを説いております。しかし——」


 グレゴリウスは、そこで言葉を区切った。会議室の空気が、さらに張り詰める。


「信徒の数は、一向に増えておりません」


 ざわめきが広がる。


「……なぜだ」


 マティアスが、信じられないという表情で呟いた。


「理由は明白です。人々は、我らの施す『パン』よりも、西の果てにあるという『楽園』の噂を信じている。我らが『死後の救済』を説いている間に、異端者どもは『現世での楽園』を、現実に創り出してしまったのです」


 グレゴリウスの声には、怒りではなく、冷徹な分析だけがあった。


「我々は、信仰の競争で、彼らに負けているのです」


 議場が、蜂の巣をつついたようにざわつく。それは、軍事的な敗北よりも遥かに深刻な事態だった。何しろ、教会の権威の根幹が揺らいでいるのだ。


「今、我らが彼らを異端として断罪すれば、どうなるか?」


 グレゴリウスは、一人一人の枢機卿の顔を見回した。


「飢えと恐怖から救ってくれた『救世主』と、それを否定する『教会』。民は、どちらを信じるでしょうな」


 誰も答えられなかった。答えは、あまりにも明白だったから。

 沈黙を破ったのは、グレゴリウス自身だった。


「ゆえに、我らは——方針を転換します」


 彼の目が、鋭い光を帯びる。


「まず、アルカディア王国を破門します」


「なんと!」


 驚きの声が上がる。王国は、教会にとって大きな献金源の一つだったのだ。


「『神託なく勇者を召喚した大罪』、そして『その結果、神の鉄槌を受け敗北した愚かさ』を、大陸全土に知らしめるのです」


 グレゴリウスの声は、淡々としていた。まるで、チェス盤の駒を動かすように。


「これにより、かの者ども——ケンタとシノンは、王国の手先ではなく、ただ『神の鉄槌の余波で現れた、寄る辺なき力』となる。彼らは、神の正義の体現者。我らが認めるべき英雄となるのです」


「まさか……彼らを?」


「そうです」


 グレゴリウスは頷いた。


「その力を、我らが『聖なる英雄』として認定し、保護するのです。英雄には、英雄という名の、黄金の首輪を」


 会議室が、再び静まり返る。枢機卿たちは、グレゴリウスの冷徹な策略の全貌を理解し始めていた。


「我らの権威の下で、彼らを民衆の希望の象徴に仕立て上げる。そして、聖地へと招き、その力を完全に掌握する」


 グレゴリウスは、最後に宣言した。


「これしか、我らが再び民の信頼を取り戻す道はありません」


 マティアスは奥歯を噛み締めた。異端を異端として断罪できぬこと、それ自体が屈辱だった。だが、反論はできなかった。グレゴリウスの論理は、完璧すぎるほどに完璧だったから。


 教皇が、静かに頷いた。

 教会の、新しい方針が決定した瞬間だった。


 *


 教会の発表は、予想通り、大陸全土を揺るがした。


 アルカディア王国の破門。そして、王国軍を打ち破った謎の若者、ケンタ・サトウの「勇者」——いや、「真なる勇者」認定。民衆は、神の鉄槌の物語に熱狂し、勇者の帰還に歓喜した。


 発表から三週間。


 各地の教会で、ケンタの逸話が語られ、吟遊詩人たちが新たな勇者譚を歌い始める頃。ガルダ=ラグナでは、式典の準備が進められていた。


 評議会は頭を抱えた。「聖地から枢機卿が来るだと?」「街の半分は瓦礫だぞ!」「間に合うのか!」


 だが、シノンの技術は、そんな常識を鼻で笑う。


 地上の瓦礫は、アイテムボックスに一瞬で収納した。中央広場には、エデンから運びこまれた舞台装置が設置される。


「……なんだ、あれは」


 視察に訪れた評議会議員が、呆然と呟いた。

 舞台の周囲には、無数の金属球が浮遊している。それらは一定のリズムで明滅し、まるで生き物のように広場の上空を漂っていた。


「あー、あれね。中継用のドローンだよ」


 シノンは、網膜ディスプレイを見ながら、無造作に答えた。


「式典の様子を、エデンの全居住区にリアルタイム配信するの。あと、記録用に三百六十度の映像も撮る。健太の晴れ舞台だからね」


「は、晴れ舞台……」


 議員は、もう何も言えなかった。

 そして、出発から一ヶ月の旅路を経て、グレゴリウスとマティアス率いる使節団が、ようやくガルダ=ラグナの門をくぐった。


 彼らが目にしたのは、廃墟のはずの街が、まるで何事もなかったかのように——いや、戦前よりも整然と整備された光景だった。


「……化け物どもめ」


 マティアスが、苦々しく呟いた。

 だが、真の驚愕は、これからだった。


 *


 物語は、常に、人々の心を動かす。


 そして、グレゴリウスとマティアス率いる使節団が、満を持してガルダ=ラグナに到着した。彼らを迎えたのは、整然と並ぶ冒険者たちと、好奇の目を向ける市民たちだった。


 中央広場で行われる叙勲の式典。それは、計算され尽くした、壮大な宗教劇の舞台だった。

 白と金の法衣を纏ったグレゴリウスが、祭壇の上で両手を広げる。


「——神の御名において、我らは今日、歴史的な瞬間を迎える」


 その声は、魔法で増幅され、広場に詰めかけた数万の民衆に届いた。


「邪悪なる王国が、神託なく勇者を召喚し、世界の理を乱した。その傲慢なる罪に、神は正義の鉄槌を下された!」


 グレゴリウスは、声を張り上げる。


「だが、神は慈悲深い。邪なる王の手によって召喚された勇者たちも、その魂までは汚されてはいなかった!」


 彼は、舞台袖で待つ健太を指差した。


「王国は神託なく勇者を呼び、己の野望のために利用せんとした。だが、勇者ケンタ・サトウは、その邪悪な企みを見抜き、真に救うべき民のもとへと向かわれたのだ!」


 彼は声を張り上げる。


「王の命ではなく、神の正義に従い、数十万の魂を救った! これこそが、真の勇者の姿! 今こそ、神の御心に従いし勇者の言葉を聞くがよい!」


 割れんばかりの歓声が上がる。教会が仕込んだ信徒たちが、熱狂的に声を上げ、それが周囲の民衆にも伝染していく。群集心理は、こうして作られる。

 グレゴリウスは、健太に演説を促した。全ては、筋書き通りだった。健太が感謝の言葉を述べ、教会の権威を認め、その庇護の下に入る——はずだった。


 俺は、ゆっくりと一歩前に出た。

 広場が、静まり返る。数十万の瞳が、若き英雄の一挙手一投足に注がれている。


『——健太。最高の舞台が整ったね』


 耳に装着した通信機から、シノンの声が聞こえた。


『さあ、始めようか』


 俺は、小さく頷いた。深く、息を吸う。


「……紹介にあずかった、ケンタ・サトウです」


 その声は、落ち着いていた。健太は、まず集まった人々と、教会に、丁寧に感謝の言葉を述べた。その謙虚な態度に、グレゴリウスは満足げに頷く。


 ——完璧だ。この若者は、従順な英雄として、我らの手の内にある。


 だが、次の瞬間。

 健太の声のトーンが、変わった。


「枢機卿猊下は、先ほど、神の正義について語られました」


 俺は、グレゴリウスを真っ直ぐに見た。


「だが——俺が見たこの世界は、苦しみに満ちていた」


 グレゴリウスの顔が、わずかに強張る。


「飢えた子供たち。戦争で家を失った人々。病に苦しむ老人たち。神の創られた世界は、決して完璧ではなかった」


 ざわめきが広がる。教会の信徒たちが、不快そうに顔をしかめる。


「俺は、英雄じゃない」


 自分の手を見つめた。人を殺した手。人を救った手。


「俺は、ただ——目の前で苦しむ人を、見過ごせなかっただけだ」


 ダンジョンを指差した。黒々と口を開けた、塔の入口。


「あの塔にある、我らの新しい街『エデン』。そこには、飢えも、病も、戦争の恐怖もない」


 俺の声は、自然と力を帯びていった。


「我々は、それを、神への祈りではなく——人の手で、人の知恵で、創り上げた!」


 群衆が、明確にざわつき始める。それは、神への冒涜にも聞こえる言葉だった。

 マティアスが、怒りに顔を紅潮させて立ち上がろうとする。だが、グレゴリウスがそれを手で制した。まだ、修正は可能だ。まだ——


 そして、俺は、最後の一撃を放った。

 シノンと共に考え、練り上げた、この世界の常識を、神の権威を、根底から覆す、冒涜の言葉を。


「神が約束された楽園は、死んだ後の世界にあるという」


 俺は、一度言葉を切った。そして、大陸全土に向けて——宣言した。


「だが、俺たちは、そんな不確かなものを待つ必要はない!」


 俺の声が、広場に、そして魔法で中継される先の街々に、響き渡る。


「我々は、この地に、今、この瞬間に、生者のための楽園を創る! 神の楽園を、人の手が超える瞬間を——あんたたちに、見せてやる!」


 一瞬の、完全な沈黙。

 世界が、止まったかのような静寂。


 

 その頃広場は、二つの声に引き裂かれていた。


 一つは、教会の信徒たちの、非難と怒号。


「冒涜だ!」

「異端者め!」

「神に逆らうのか!」


 ——恐怖と怒りに満ちた、拒絶の声。

 

 もう一つは、エデンの住民たちの、熱狂的な、神への反逆を支持する喝采。


「その通りだ!」

「俺たちの街を!」

「生きている今を!」


 ——希望と興奮に満ちた、肯定の声。


 それは、まるで世界が二つに割れる音のようだった。

 祭壇の上で、グレゴリウスとマティアスの顔から、血の気が引いていた。彼らの顔は、怒りを通り越し、純粋な恐怖に染まっていた。


 仕立て上げたはずの英雄に、その首輪を、内側から食い破られたのだ。

 否、それだけではない。


 健太は、教会が何世紀もかけて築き上げてきた、「現世は苦しみ、死後にこそ救済がある」という根本教義そのものに、真っ向から挑戦したのだ。


 もし、ガルダ=ラグナが本当に楽園を創り上げたなら。

 もし、人々が神の救済を待たずとも幸福になれるなら。


 教会の、存在意義そのものが——


「く……」


 グレゴリウスは、老いた身体を震わせた。

 策士としての彼は、理解していた。これが、どれほど致命的な一手であるかを。


 ダンジョン都市の最深部、コアルームで、その光景をスクリーン越しに見ていたシノンは、ただ静かに、微笑んだ。


「——チェックメイト、だね」


 彼の声は、誰にも聞こえなかった。

 ただ、魔法陣の青白い光だけが、彼の表情を照らしていた。


 広場では、今もなお、二つの声がぶつかり合っていた。

 健太は、その混沌の中心で、ただ真っ直ぐに前を見ていた。


 もう、後戻りはできない。

 神を、世界を、敵に回す覚悟を決めた瞬間だった。



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