第45話 開戦、平原の激突

 王国軍、来たる。


 その報が街を駆け巡ったのは、早朝のことだった。


 ガルダ=ラグナの西門から数キロ先に広がる、緩やかな丘陵地帯。その地平線の向こう側から、土煙が上がっていた。先遣隊と思われる、およそ五千の兵。槍の穂先が、朝日に鈍く輝いている。


 まるで、鋼の森が地平から生えてくるように。


「……五千か。舐められたもんだ」


 城壁の上で、健太は静かに呟いた。風が、黒い髪を撫でる。斥候からの報告では、王国軍の総数は五万を超えるはずだった。


『健太、油断は禁物だよ。これは、こちらの戦力を探るための偵察部隊だ。本隊は、必ず後方に控えてる』


 耳につけられた小型通信機から、シノンの冷静な声が響く。彼は今、ダンジョン最上階のコアルームから、戦場の全てを神の視点で観測している。無数のセンサーとドローンが、敵軍の動きを刻々と解析していた。


「分かってる。だとしても、好都合だ。三千対五千。数で劣るが、地の利はこちらにある。何より——」


 健太は、腰の剣の柄を握った。冷たい金属が、手のひらに馴染む。


「俺の剣なら、数なんて関係ない」


『そうだね。この条件なら、僕のシミュレーションでも勝率は72%だ。健太がいつも通りに動けば、だけど』


「十分だ!」


 健太は城壁を降り、西門に集結していた冒険者たちの前に立った。三千の瞳が、一斉に健太に向けられる。そこには、二ヶ月前とは違う、統制された熱気と、指揮官への絶対的な信頼が宿っていた。


 彼らは、もう烏合の衆ではない。


「聞いた通りだ! 敵の先遣隊は五千! だが、恐れるな!」


 健太の声が、朝の冷気を切り裂く。


「俺たちなら勝てる! 全員、俺に続け!」


「「「オオオオオオッ!!」」」


 地鳴りのような鬨の声が、城壁を震わせた。その轟音は、遠く地平の彼方まで届いただろう。健太は、三千の冒険者たちを率いて、丘陵地帯へと進軍した。


 戦争の幕が、今、開いた。


 *


「——ほう、城から出てきたか。愚かな」


 王国軍の総大将、バルバロッサは、後方の丘の上から、魔法の遠見の水晶でその光景を眺めていた。白い髭を蓄えた老将の目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。


 彼の隣には、本隊五万が静かに息を潜めている。森の陰、丘の裏、地形の全てを利用して、その巨大な軍勢は完璧に隠蔽されていた。


「将軍、いかがいたしますか。先遣隊に、予定通り陣形を組ませますか?」


「いや、その必要はない」


 バルバロッサは、静かに首を横に振った。


「まずは、あの『英雄』とやらの力、この目で見せてもらおう。報告だけでは、信じられん。人が、どこまで神に近づけるのか——その限界を、確かめる」


 その言葉通り、健太は単騎、馬を駆って冒険者たちの先頭を突き進んでいた。黒髪が風になびき、剣の柄に手がかかる。まるで、一人で軍勢に挑むかのように。


 先遣隊の兵士たちが、密集隊形で槍を構える。鉄の壁。訓練された兵士たちの、完璧な陣形。


 だが、健太は止まらない。


「——道を開けろ」


 呟きと同時に、腰の単分子カッターを抜き放つ。


 シュオオオォォッ!!


 空気を切り裂く音。次の瞬間、健太の剣先から放たれた白銀の光刃が、地を薙いだ。


 それは、もはや斬撃ではなかった。


 天変地異だった。


 光の奔流が、王国軍の先遣隊を——その密集した陣形ごと、飲み込んだ。鋼の鎧が紙のように裂け、肉が骨ごと蒸発し、大地そのものが抉られる。


 轟音。悲鳴。土煙。


 その全てが晴れた時、そこにいたはずの兵士たちの約三分の一が、跡形もなく消滅していた。大地には、まるで巨大な爪で抉られたかのような、一直線の深い溝だけが残されていた。幅は十メートル、深さは三メートル、長さは百メートルを超える。


「……」


 健太の後ろにいた冒険者たちですら、息を呑む。訓練では何度も見てきた。だが、本物の軍隊を相手に、これほどの威力を発揮するとは。


「な……なんだ、今の……」


 生き残った王国兵たちが、恐怖に顔を引きつらせる。槍を持つ手が震え、隊列が乱れる。士気が、音を立てて崩れていく。


「化け物だ……」

「あれが、英雄……?」

「逃げろ! 逃げるんだ!」


「見たか! これが俺たちのリーダーだ! 続け!」


 冒険者たちが、一斉に鬨の声を上げ、混乱に陥った先遣隊へと襲いかかった。もはや、それは戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。


 *


「……なるほど」


 丘の上で、バルバロッサは遠見の水晶から目を離し、静かに呟いた。


 その顔に、焦りの色はない。むしろ、その目は——愉悦にさえ細められていた。まるで、予想通りの答えを得た学者のように。


「報告は、真実だったか。いや、それ以上だ。あれは、人の手に余る『災厄』だ」


 副官が、青ざめた顔で進言する。


「しょ、将軍! このままでは先遣隊が! すぐに本隊を投入し、力で押し潰すべきです!」


「馬鹿者」


 バルバロッサは、副官を一喝した。その声は、冷たく、そして重い。


「あの光の斬撃、見たであろう。密集隊形で正面からぶつかれば、我らとて同じ轍を踏むだけだ。あれは、力押しで勝てる相手ではない」


 彼は、再び戦場に目を戻した。冒険者たちが、壊乱した先遣隊を蹂躙している。血と悲鳴が、朝の草原を染めていく。


「あの『英雄』は、確かに強い。一人で千を屠る力を持っている」


 バルバロッサは、静かに微笑んだ。


「だが、奴の弱点もまた、そこにある。奴は——一人なのだ」


 彼は、二人の伝令兵を呼んだ。


「第一魔術師団に伝えよ。全魔力を結集し、対魔法障壁を展開。歩兵は横に広く散開し、ゆっくりと前進。敵の『英雄』を、この場に釘付けにせよ」


「はっ!」


「第二騎馬隊、第三軽装歩兵部隊に伝えよ。直ちに東の森を迂回し、ガルダ=ラグナの南門を強襲せよ。陽動に気づかれぬよう、迅速にな」


「はっ!」


 二人の伝令が、馬を駆って闇に消える。蹄の音が、遠ざかっていく。


 バルバロッサは、冷たく笑った。


「英雄よ。お前が一人で守れるものは、一体どれだけある? 街か? 仲間か? それとも——己の名誉か?」


 *


 戦いの流れは、完全に健太たちにあった。


 先遣隊はほぼ壊滅。冒険者たちの士気は最高潮に達していた。勝利の手応えが、空気を満たしている。


「このまま本隊も押し切るぞ!」


 誰かが叫んだ、その時だった。


 地平線の向こうから、五万の軍勢が姿を現した。


 その数は、圧倒的だった。まるで、地平そのものが動き出したかのように、無数の兵士たちが視界を埋め尽くす。だが、彼らは突撃してくるのではなく、横に広く散開し、巨大な壁のようにゆっくりと前進してくる。


 その最前線には、青白い光の障壁が展開されていた。魔術師団による、対魔法結界。


「なんだ、あれ……?」


 健太が聖剣技を放つ。光刃は、防御障壁に当たり、激しい火花を散らして霧散した。威力は減衰させられたが、完全には防ぎきれていない——数十人の兵士が吹き飛び、障壁に亀裂が走る。


 だが、すぐに別の魔術師がそれを補修し、陣形は崩れない。そして敵の陣形は広く、一撃で与えられる損害は、先ほどとは比べ物にならなかった。


「くそ、対策してきたか……!」


 健太が歯噛みした、その瞬間。


『健太! 大変だ!』


 シノンの声が、通信機から響いた。いつもの冷静さとは違う、切迫した響きが混じっている。


『街の南側から、大規模な部隊が接近! 騎馬隊約三千、軽装歩兵約五千! もうすぐ南門に到達する!』


「——なに!?」


 健太は、ハッとして敵将の意図を悟った。


 目の前の本隊は、陽動。俺たちを、この平原に釘付けにするための。

 本命は、手薄な南門への奇襲。


「やられた……!」


 勝っていたはずだった。圧倒的な力で、敵を蹂躙していたはずだった。

 だが、それは全て——敵将の手のひらの上だった。


 このままここで戦い続けても、いずれジリ貧になる。その間に、街が落ちる。南門を守る戦力は、わずかに数百。八千の精鋭を相手に、持ちこたえられるはずがない。


「総員、撤退! 全速力で街に戻るぞ! 急げ!」


 健太は、人生で最も屈辱的な命令を下した。


 優勢だったはずの戦場を、自ら放棄する。敵の策略に、完膚なきまでに敗北したのだ。


 冒険者たちが、戸惑いながらも撤退を開始する。勝利の熱気が、一瞬で凍りついた。疑問と不安の声が、あちこちから上がる。


「なんで!?」

「勝ってたのに!」

「街が危ないのか!?」


 健太は、それらの声を振り切り、馬を全速力で走らせた。


 遠く、丘の上で静かにこちらを見下ろしているであろう、敵の総大将を睨みつけながら。


 ——これが、戦争か。


 個人の力が、どれだけ圧倒的でも、知略の前では無力になる。

 剣一本で千を屠っても、守るべきものが二つあれば、どちらかは失われる。

 その冷たい現実が、鉛のように、健太の心に重くのしかかっていた。

 朝日が、敗走する冒険者たちの背中を、容赦なく照らしていた。



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