第44話 帝国の影、教会の目

 時計塔の尖塔。


 街を見下ろすその影に、一人の男が息を殺していた。

 男の名は、ハインツ。帝国暗部・情報分析課に所属する、影の男。彼の目は、遥か眼下の訓練場にいる、一人の黒髪の少年——ケンタ・サトウに注がれていた。


 手元の小型魔導スコープが、拡大された光景を映し出す。その映像に、ハインツは背筋が冷たくなるのを感じていた。

 ——報告書以上の、異常事態だ

 当初、ケンタ・サトウの訓練は素人のままごとだと報告されていた。三百人の冒険者たちは烏合の衆。統率も、連携も、何もかもがずさんだった。

 だが——わずか数週間で、その質は劇的に変貌していた。

 三人を一つの単位とする小隊が、有機的に連携している。前衛、後衛、遊撃——各々の役割が明確で、まるで長年訓 練を積んだ精鋭部隊のように動く。個々の戦闘能力はそのままに、集団としての力を引き出している。

 あの少年は、それを驚くべき速さで実現させていた。

 ——まるで、帝国の戦術理論を学んだかのような動き。いや、それ以上に合理的で、無駄がない

 そして、何より不気味なのは、あの少年自身の力だ。

 時折、指導のために放たれる魔法や剣技は、スコープの魔力測定限界を振り切るほどのエネルギーを秘めている。火球が大気を震わせ、雷光が空気を裂く。その全てが、正確に、容赦なく、標的を捉える。

 ——あれが本気を出したら、一個中隊が消し飛ぶ


 もう一人、シノンという銀髪の少年。

 彼は、ただ訓練を眺めているだけだ。だが、その目は——ハインツには分かった。あれは、戦場を、人間を、ただの「データ」として観測している者の目だ。感情のない、冷徹な観察者の瞳。

 ハインツは、懐から取り出した通信用の魔導具に、静かに指を走らせた。魔力が結晶に流れ込み、暗号化された文字列が遠く帝都へと飛んでいく。

『——対象ケンタ・サトウ、軍隊の育成能力を確認。脅威レベルを参から弐へ引き上げを具申。繰り返す。これは、もはや個人ではない。一個師団に匹敵する、戦略級の脅威だ』

 送信を終えたハインツは、もう一度スコープを覗き込んだ。訓練場では、黒髪の少年が剣を振るい、三百人が一糸乱れぬ動きでそれに応じている。

 ——恐ろしいのは、彼らがまだ、完成していないということだ

 あと一ヶ月半。

 王国軍が到着する頃、この「軍隊」は、どこまで進化しているのだろうか。

 ハインツは、その答えを想像することを拒んだ。


 *


 同じ頃。ダンジョン二階層、未来都市「エデン」。

 巨大なホログラムスクリーンが設置された中央広場は、祈りの時間であるはずの真昼にもかかわらず、大勢の市民で埋め尽くされていた。

 彼らは、スクリーンに映し出される異世界の「物語」に、心を奪われている。派手な爆発、美しい歌、笑い声——色と音が洪水のように流れ込み、思考を奪っていく。

 そこには、神への祈りも、労働への感謝も、未来への不安すらない。ただ、与えられる快楽を、受動的に享受するだけの時間が流れていた。


 その群衆の中に、一人の修道士がいた。

 男の名は、サイラス。教会上層部から遣わされた、「影」の一人。彼は、難民を装ってこの「偽りの楽園」に潜入していた。

 ——ああ、神よ……なんという冒涜

 サイラスは、目の前の光景に、吐き気を催していた。

 子供たちは、親から働くことの尊さを教わる代わりに、ゲームという虚構の攻略法を学んでいる。若者たちは、己の技術を磨くことをやめ、ただ食料配給機の前に列をなしている。老人たちは、長年培ってきた知恵を孫に語るのではなく、スクリーンの中の恋愛劇に涙を流している。


 ここは、魂の牢獄だ。

 神が与えたもうた「生きる」という試練を、根底から否定する、甘美な毒の沼。

 サイラスは、一人の少女に声をかけた。彼女は床に座り込み、虚ろな目でスクリーンを見上げている。


「お嬢ちゃん。こんなところで何をしているんだい? お祈りの時間だよ」


 少女は、スクリーンから目を離さずに答えた。まるで、彼の声が別の世界から聞こえてくるかのように。


「お祈り? なんで? ここにいれば、何もしなくてもご飯が出てくるのに」


 その無邪気な言葉に、サイラスは絶句した。

 信仰が、死んでいる。

 いや——生まれる前に、殺されている。

 サイラスは、人々の輪から離れ、物陰で小さな聖印を握りしめた。冷たい金属が、手のひらに食い込む。魔力が、聖印に吸い込まれていく。彼の報告は、二つの部署に同時に送られる。

 一つは、異端を断罪する審問局。

 もう一つは、教会の政治を司る教皇庁。


 *


 審問局長マティアスの元に届いた報告は、火のように受け取られた。

「——これは、魂の墓場だ」


 マティアスは、報告書を握りつぶさんばかりの力で握りしめた。白髪の老人の目には、怒りの炎が燃えている。


『神への冒涜。一刻も早い「浄化」を。聖戦の名の下に、この悪魔の楽園を灰燼に帰すべし』


 彼は、即座に聖戦の準備を進言することを決意した。剣と炎で、この冒涜を消し去る。それこそが、神の意志だと。

 一方、教皇庁の枢機卿たちの元に届いた報告は、氷のように受け止められた。


「——難しい問題だな」


 老練な枢機卿の一人が、報告書を机に置き、深いため息をついた。


『数十万の民が、彼らを「救世主」と崇めている。労働も、病も、戦争の恐怖すらない「楽園」の創造主として。我らが王国軍を撃退した「英雄」を、今、異端として断罪すれば、民はどちらを信じるか』


 もう一人の枢機卿が、重々しく言葉を継いだ。


「これは、我らの信仰そのものに対する、最も危険な挑戦だ。だが——」


 彼の目には、恐怖と、そして、どこか諦めに似た光が宿っていた。


「——慎重な対応を。性急な断罪は、我らの首を絞めることになる」


 教会は、分裂していた。

 炎の審問局と、氷の教皇庁。

 その狭間で、彼らはまだ、答えを出せずにいた。


 *


 その日の夜。寮の部屋。


「はぁ……疲れた……」


 俺は、ベッドに倒れ込んだ。模擬戦で三千人を相手にした体は、鉛のように重い。筋肉が悲鳴を上げ、魔力も底をついている。


「お疲れ様、健太。今日の戦闘データ、興味深いパターンがいくつか見られたよ」


 シノンは、空中に投影したウィンドウを眺めながら、淡々と言った。彼の指が、光の粒子を操り、複雑なグラフを描き出す。戦闘のフォーメーション、魔力の消費効率、連携の精度——全てが数値化され、冷徹に分析されている。


「それより、なんかヤバい視線を感じなかったか? 訓練中、ずっと見られてるような……」


 俺がそう言うと、シノンはグラフから顔を上げずに答えた。


「ああ、二人いたね」


「えっ、気づいてたのかよ!?」


「うん。一人は、軍事訓練を受けた人間の生体反応。心拍数、呼吸のリズム、筋肉の緊張——全て、帝国の暗部特有のパターンだった。もう一人は、魔力を極端に抑制した聖職者特有の波長。おそらく、帝国と教会のスパイだろうね」


「スパイ!?」


 俺はベッドから跳ね起きた。背中に、冷たい汗が流れる。


「どうすんだよ! 俺たち、完全にマークされてるじゃねえか!」


「当然だよ」


 シノンは、ようやく俺の方を向いた。その目は、どこまでも冷静だ。まるで、全てを予測していたかのように。


「僕たちの行動は、この大陸の政治、宗教、経済——全ての生態系に、大きな波紋を広げている。各勢力が情報を集めようとするのは、論理的な帰結だよ。むしろ、今まで来なかった方が不自然なくらいだ」


「そういう問題じゃなくてだな……!」


 俺が頭を抱えていると、シノンは「ああ、そうだ」と何かを思い出したように言った。


「さっき、居住区のネットワークをスキャンしてたら、面白い記録ログを見つけたんだ」


 彼は、新たなウィンドウを開く。そこに映し出されたのは、この「エデン」に住む人々の、生活データだった。無数の数字とグラフが、人間の営みを機械的に記録している。


「市民の平均睡眠時間は2時間増加。労働時間は98%減少。娯楽コンテンツの消費時間は、一日平均12時間に達している」


 シノンは、グラフを指でなぞりながら続ける。


「特に、15歳以下の若年層は、食事と睡眠以外のほぼ全ての時間を、ホログラム映像の視聴に費やしているね。興味深いのは、親世代もそれを止めようとしていない点だ。彼ら自身が、既に娯楽に依存しているからだろう」


「……それって、つまり」


「うん」


 シノンは、楽しそうに——本当に、心から楽しそうに——結論を告げた。


「僕の仮説通り、『人を堕落させるダンジョン』計画は、順調に進行しているみたいだ。神が望む『試練の場』を、完全に否定する『快楽の場』に変えるという目的は、ほぼ達成されたと言っていい」


 その言葉に、俺は何も言い返せなかった。

 シノンにとって、これは「実験」なのだ。神への反逆という壮大な目的のための、合理的なプロセス。そこに、善悪の感情は介在しない。


 窓の外では、地上世界の喧騒とは無縁の、静かな夜が更けていく。偽物の星空が、優しく瞬いている。

 帝国と教会が、俺たちを新たな脅威として認識し、対策を練り始めている。


 その一方で——

 ダンジョンの「楽園」では、人々がゆっくりと、しかし確実に、生きるための闘争を忘れていっている。


 俺は、その二つの光景の間で、どちらにも手を出せずにいた。

 外からの脅威には、戦うしかない。

 だが、内側で起きている変化は——

 止めるべきなのか。それとも、これでいいのか

 俺には、まだ答えが出せなかった。


「……シノン」


「なに?」


「俺たちは、正しいことをしてるのか?」


 その問いに、シノンは少し考えてから、いつものように淡々と答えた。


「『正しさ』は、観測者の立場によって変わるよ。僕たちにとって正しいことが、彼らにとって正しいとは限らない。ただ——」


 彼は、窓の外の偽物の星空を見上げた。


「——僕たちは、帰るために必要なことをしているだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」


 その言葉は、冷たく、そして、どこまでも誠実だった。

 俺は、ベッドに沈み込み、目を閉じた。

 明日も、訓練が続く。

 そして、その先に待つのは——王国軍との、避けられない戦争だ。



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