第43話 戦後の準備と堕落の始まり
二ヶ月。
それは、長いようで、絶望的に短い時間だった。
ダンジョン一階層に作られた訓練場。シノンの未来技術が青空まで再現した広大な空間に、俺の怒号が虚しく響く。
「だから! 右向け右!」
目の前には、三百人ほどの冒険者たち。元赤牙連の荒くれ者、黄金の環の傭兵崩れ、フリーランスの一匹狼——全員に共通するのは、「個」として戦う術に長けていることと、そして致命的なまでに、集団行動に向いていないということだった。
「右って、どっちの右だ?」
「俺の右か、お前の右か?」
「そもそも向きを変える必要ある? 敵は前にいるんだろ?」
好き勝手なヤジが飛び交う。右を向けと言えば、左を向く奴が半分、後ろを向く奴が数人、そして大半はキョロキョロと隣の顔色を窺っている。統一された動きなど、夢のまた夢だ。
「全員、俺の動きに合わせろ! いいか、右! こうだ!」
俺がビシッと音を立てて右を向く。数人が慌てて同じ方向を向いた——が、その隣の奴はさらにその隣を見て向きを変える。伝言ゲームのように情報は歪み、最終的に三千人がそれぞれ思い思いの方向を向いて、混沌としたモザイク模様を作り出していた。
「……もうやだ、この人たち」
俺が膝から崩れ落ちそうになったその時、いつの間にか隣に立っていたシノンが、腕を組んで真顔で言った。
「健太。統計的に、指示系統が不明瞭な場合の練度向上率は、そうでない場合に比べて87%低下する。非効率的だね」
「見てりゃ分かるだろ! なんかいい方法ないのかよ、お前の未来の技術で!」
「うーん……」
シノンは少し考えると、真面目な顔で提案した。
「各個人の脳に、直接戦闘プロトコルをインストールするのが一番早いかな。それなら、思考を介さず、反射レベルで最適行動が取れるようになるよ」
「却下だ! 人間を改造するな!」
「じゃあ、ドローンによる監視と、電気ショックによる強制行動補正は?」
「それも却下! 俺たちは独裁国家の軍隊を作るわけじゃねえんだよ!」
俺のツッコミに、シノンは心底不思議そうに首を傾げた。目の前で起きている混乱が、彼にとっては単なる「非効率なシステム」でしかないのだろう。そこに人間の尊厳とか、気持ちとか、そういうものが介在する余地はない。
価値観の断絶——それは、この数ヶ月でずいぶん慣れたつもりだったが、こうして改めて突きつけられると、やはり戸惑いを隠せない。
「気持ちの問題だよ! 気持ちの!」
「気持ち……?」
シノンが首を傾げる。ああ、だめだ。こいつに相談した俺が馬鹿だった。
俺は天を仰ぎ、もう一度、目の前の三千人に向き直った。青く澄んだ偽物の空が、どこか嘲笑っているように見えた。
「もういい! 整列も、方向転換も、全部忘れてくれ!」
俺の声に、ざわめきが静まる。
「今日は模擬戦だ! 俺対お前ら全員! かかってこい!」
結局、これが一番早かった。冒険者とは、言葉よりも力で語るべき生き物なのだ。理屈じゃない。実力を見せつけ、その上で指導する。それが、彼らの言語だった。
*
その頃、ダンジョン二階層——未来都市を模した「居住区」では、別の種類の混乱が、静かに、だが確実に広がりつつあった。「おお……これが、我らの新しい家……」
鍛冶屋の親方だったドルゴは、案内されたマンションの一室で、呆然と立ち尽くしていた。
壁は滑らかで、床には柔らかな絨毯が敷かれている。窓の外には——ありえないほど高い場所から、別のガラス張りの建物が見えた。空は、青く、雲は流れている。全てが本物のように見えるのに、ここが地下であることを、頭は理解している。
その矛盾が、現実感を奪っていく。
「親方! 見てくだせえ! この箱、水が出ますぜ!」
弟子の若い男が、キッチンのシンクで蛇口をひねり、歓声を上げる。透明な水が、勢いよく流れ出す。この世界では、井戸から水を汲むのが当たり前だ。蛇口をひねれば無限に綺麗な水が出てくるなど、王族ですら享受できない贅沢だった。
「すごい……」
ドルゴの妻は、壁に埋め込まれたパネルの前で、涙を流していた。
「この『洗濯機』という箱に汚れた服を入れるだけで、乾いた綺麗な服になって出てくるなんて……神よ……」
彼女の手を見れば、長年の洗濯で荒れた指先が、まだ生々しく残っている。生まれてこの方、毎日川で冷たい水に手を晒し、洗濯板で衣類を擦ってきた。冬には凍えるような水の中、夏には灼熱の日差しの下、ただ黙々と布を叩き続けてきた。
その苦役から、完全に解放されたのだ。
そして、子供部屋では——
「わー! すごい! 竜が飛んでる!」
「こっちでは、お姫様が歌ってる!」
子供たちが、空中に投影された立体映像——シノンが「映画」と呼ぶものに、目を輝かせていた。色鮮やかな物語が、目の前で、まるで本物のように動き、語りかけてくる。竜は咆哮し、姫は歌い、勇者は剣を振るう。その魅力に、子供たちは一瞬で心を奪われた。
初日の夜。
ドルゴ一家は、食卓に並んだ完璧な食事に舌鼓を打った。音声で指示するだけで、コンロが自動で調理してくれた、温かいシチューとパン。その味は、どんな高級レストランよりも美味しかった——少なくとも、彼らにはそう感じられた。
「なあ、お前……」
ドルゴは、妻に話しかけた。満腹で、幸福で、そして、どこか心の奥に引っかかるものを感じながら。
「明日から、何をしようか」
「さあ……?」
妻は、首を傾げた。洗濯も、掃除も、料理も、全て機械がやってくれる。水を汲む必要も、薪を割る必要もない。鍛冶の仕事も、戦争が終わるまでは必要ないと言われた。
ならば、何をすればいい?
「……とりあえず、あの『映画』の続きでも、見ようかの」
ドルゴは、そう言って笑った。妻も、同じように笑った。
その日、彼の鍛冶用のハンマーが振るわれることはなかった。
*
訓練開始から一週間。
俺は、冒険者たちの訓練方針を大きく転換していた。
「いいか! 隊列は組まなくていい! だが、三人一組の連携だけは意識しろ! 前衛、後衛、遊撃! 自分の役割を理解しろ!」
個の力を活かしつつ、最小単位での連携を叩き込む。それしか、この烏合の衆を軍隊に近づける方法はない。
模擬戦を繰り返し、俺が自ら指導することで、冒険者たちの動きは少しずつ、だが確実によくなっていた。力で示し、実利で釣る。冒険者の扱い方を、俺は少しずつ学んでいた。
「ケンタの旦那、すげえな……」
「あの動き、真似できねえ」
「でも、あの人の言う通りに動くと、確かに楽に戦える……」
訓練を終え、汗を拭いながら居住区に戻ると、俺は広場の光景に足を止めた。
広場の中央に設置された巨大なホログラムスクリーン。そこでは、シノンがどこからか持ってきたアクション映画が、大音量で上映されている。爆発、銃撃、怒号——派手な映像が、昼間から延々と流れ続けていた。
そして、その前に——老いも若きも、男も女も、大勢の市民が、ただ座り込み、虚ろな目でスクリーンを見上げていた。
日がな一日、彼らはこうして過ごしているらしい。
食事は、壁の配給機から好きな時に好きなだけ出てくる。部屋は、自動で清掃される。労働の必要はない。ただ、与えられる娯楽を、ぼんやりと消費するだけ。
一人の元農夫が、自分の手を見つめていた。土に汚れ、節くれだった、働く者の手。だが、この一週間で、その手のひらは少しずつ、滑らかさを取り戻していた。
彼は、その手を——どこか寂しそうに、そして、どこか誇らしそうに、見つめていた。
まるで、失われていくものを惜しんでいるような。あるいは、解放された自分を祝福しているような。
俺は、その光景を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
訓練場では、冒険者たちが汗を流し、戦うための力を磨いている。だが、ここでは——人々が、戦う必要のない世界に、徐々に溶けていっている。
「……これで、いいんだろうか」
俺の呟きは、映画の爆発音にかき消された。
二ヶ月後、この街は戦場になる。王国の軍勢が押し寄せ、血が流れ、命が失われる。
その時、この「楽園」に住む人々は——何を思うのだろう。
戦う力を失った人々は、守られることを望むのだろうか。それとも、この快適さを手放すことを、拒絶するのだろうか。
俺には、まだその答えが分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
シノンが作り出したこの「楽園」は、神への嫌がらせとして始まった。だが、それは同時に——この世界の人々にとって、元の生活には戻れない「毒」でもあった。
便利さは、人を怠惰にする。
快適さは、人を無気力にする。
そして、娯楽は、人から思考を奪う。
俺は、広場を後にした。背中に、映画の音と、人々の笑い声が、重くのしかかっていた。
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